FC2ブログ

03月 « 2020年04月 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30  » 05月

武術・武道人としての「説明責任」/(武術・武道)

2009年 02月15日 17:33 (日)

 過日、古流武術に造詣が深く、自身も古流柔術と剣術、さらに現代武道もたしなんでいらっしゃる武友のA氏と、久々に歓談する機会があった。

 A氏も私も、お互いに古流と現代武道の両方をたしなむことから、武術・武道界の問題を語り合う際にも、認識を同じくすることが多い。

 ことに、武術界特有の権威主義や欺瞞体質には、斯界の末席を占める者として、互いにたいへん憂慮している。

 伝書泥棒をはじめ、「死人に口なし」とばかりに師の没後突然宗家を語る者の多さ、他流からの技術的盗用を「我が流派の技」と称する者など、この世界には事欠かない。

 まあ、「品位の悪さは顔と技に出る」ことを、お忘れなく。


 武術・武道人以前に、職業的記者という立場から思うのは、こうした斯界の欺瞞・隠蔽体質は、総じて当事者である武術・武道人の説明能力や言語化能力の欠如、いわば科学的(論理的)姿勢や説明責任の軽視が要因であるといっても過言ではないだろう。

 ところがこういう事を書くと、すぐに「武術とは言葉ではない云々・・・」と、分かり切ったことでちゃぶ台をひっくり返す、おつむりの軽い輩が少なくないのに、さらに暗澹とした気分になるわけだ。

 当然ながら、「武」という活動はロジックではなく行為であるから、そのすべてを言語化=論理的説明によって解説することはできない。そんなことは、当たり前だ。高校空手部の白帯の子どころか、少年柔道教室の小学生のオトモダチでも分かる。

 だからこそ達人や名人と呼ばれた古人たちは、「拍子」や「位」といった概念、あるいは「懸中待」、「待中懸」、「水月」や「月影」など、さまざまな抽象的表現/概念で、技そのものの本質、行為や動きの本質を言語化することに、長い歴史をかけて心血を注いできたのだ(※1)。

 こうした点から見れば、武術の言語化・論理化を否定するというのは、伝統的な日本武術・武道の教習体系の否定といっても過言ではない。ようするに、天につばする行為なのである。

 それかあらぬか、己の頭の悪さを棚に上げて、安易に言語化や論理化を否定するものが少なくないのは、今も昔も同じようである。

 たとえば以前、とある人が『五輪書』と宮本武蔵を批判していたので話を聞いてみたところ、なんとこの御仁、自分が批判している当の『五輪書』自体を一度も最後まで読んだことがないというのである! いやはや・・・。

 閑話休題。

 百歩譲って、己一人が、ただ強くなる、上達するだけが目的ならば、それもよかろう(個人的には、おのれの武技の上達のためにも、論理化・言語化は、たいへん重要かつ有効だと思うが)。

 しかし、いやしくも弟子を取る立場、あるいは他人を指導する立場にありながら、「説明できない・・・」などと軽々しく述べる者がいるとすれば、それは自分の説明能力・言語化能力の低さを隠すための、単なる手抜き指導に過ぎないのである。

 またここで言う「言葉」や「説明」というものは、なにも難しい学術用語で話せということではない。頭の悪い輩ほど、こういう揚げ足をとりたがるのには閉口するが・・・。

 ようは、初心者や初学者、下位者にとって、分かりやすく実際の実技に反映できるような、指導に伴う説明責任を果たせということなのである。それができないなら、弟子など集めず、ひとりで稽古をしておればよいのだ。他人を巻き込むなと。

 体で教え、言葉で教え、心で教えるのが、本来の指導であり教導である。

 武術・武道の教導は、体だけではダメだし、もちろん言葉だけでもダメなのは当たり前。

 体・論・心の三位一体の指導こそが、日本武術・武道という行為の伝承では、もっとも重要なのであると、私は常日頃から自戒している。


 ひるがえって思うに、この世界でいつまでたってもインチキ武術家やイカサマ流儀がなくならないのも、武術・武道界のこうした言語・論理化への本質的かつ伝統的な軽視が原因だといえるだろう。

 伝書や伝系を精査し、術技を目録とつき合わせてみれば、あきらかに偽造あるいは復元流儀であることがわかっているのに、しかもそれを不特定多数の関係者が知っていながら、あえてそれを指摘しないという、この世界の体質も、突き詰めれば言語化・論理化の軽視、いわば科学的命題の軽視につながるといっても過言ではない。これは特に、学術団体としての武道関連の学会関係者や、公益法人である協会関係者には強く問いたいところである!


 武術・武道を愛するものとしては、残念ながら清廉潔白ではないこの世界だからこそ、これから武術・武道の道を志す人たちに、私はこう伝えたい。

 「体で覚えれば良い」、「不立文字」、「理屈の前に体を動かせ」などということを安易に述べ、術技に対して意味不明な説明しかできないような指導者、練成のための説明責任が果たせないっような指導者には、十分注意すること!

 そんな師匠や指導者についてしまうと、人生の貴重な時間を浪費することになりかねないのだから。

※1
こうした点で、たとえば新陰流の『兵法家伝書』は、一般的に禅語を多用した難解なものとの批判を浴びることが少なくないが、実際は他流の者でも「なるほど!」と納得できる、たいへん有益で分かりやすい伝書である(※2)。さらにいえば、武蔵の『五輪書』などは、超実際的な戦闘マニュアルであり、江戸時代の初期に、これほど合理的かつ論理的に、ロジックとして武術の要諦を表現した、宮本武蔵という武術家の尋常ならざる才に驚きを隠せない。

※2
一般的に現代武道で地稽古や試合の稽古、いわば自由攻防の稽古をしている武術・武道人ほど、こうした古流の伝書類が指摘する、駆け引きの要諦や戦闘技術のツボを具体的に理解できるようである。一方で、ぬるい型稽古しかやっていないような権威主義的古流武術家ほど、こうした古人が伝えてくれた、戦うための貴重な「コツ」や「ポイント」をまともに理解できていないのは、文化人類学的視点からもたいへん興味深い(笑)。

 (了)


関連記事
スポンサーサイト