FC2ブログ

05月 « 2020年06月 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30  » 07月

真偽と実技、2つの命題

2009年 01月21日 13:31 (水)

 「朝鮮忍者」と称する米国(?)のうさんくさい者が、外国人特有の子供じみた忍者ごっこをしてはしゃいでいたまではよかったが、愚かにも手裏剣術の領域に手をだしたばっかりに、無冥流の鈴木崩残氏ほかyoutubeやネット上の、ごくまじめな手裏剣術稽古者や研究者、スローイングナイフ愛好家の人たちに徹底的に検証・批判されているのは、ご存知の方も多いだろう。

 こうしたインチキやエセ武術・武道への批判活動はたいへん重要であり、私も再三言及しているわけだが、一方で、「では、正真正銘、純潔、まじりっけなしの伝統と技術とは?」と問われたとすると、伝統を受け継ぎ真摯に伝承されている流儀の方々でも、実際のところはいささかの躊躇を感じることがあるのかもしれない。

 過日、薙刀遣いである武友のS氏と歓談した際にもそんな話題となったのだが、伝統的な流儀といえども、大なり小なり、伝承のなかで「?」な部分があったりするものだ。

 それにくわえ、武技という闘争の術を学ぶ意義には、「強さ」とか「護身」とかいった点も当然ある。そしてこの点もからめて武術・武道の正統論議をしてしまうと、話がたいへんこんがらがってくるわけである。

 ようするに、インチキかインチキでないかという命題と、強いか弱いか、遣えるか遣えないかという命題はまったく別物であるということだ。

 だから、「インチキかインチキでないか」という命題と、「強いか弱いか」という命題を並列させると、以下のA~D、4パターンに分類ができるわけである。

A インチキで弱い
B インチキだけど強い
C インチキではないが弱い
D インチキでなく強い

 そこで、学ぶ者はどれを選択するか? これは本人の目的によるだろう。インチキだろうがなんだろうが、強くなりたいというのであれば、BでもDどちらでも良いということになろう。正統でなおかつ強さも求めたいというならDだろう。強さとかどうでも良い、ほしいのはまずは権威という人ならCがおすすめ(弱い=稽古もゆるいしナ)となろう。

 またAの「インチキで弱い」についても、「だけど教える人の人柄が良い」(インチキやってて人柄が良いというのも?だが、わりあいよく聞く話でもある)とか、「稽古場に妙齢の女子が多い」とか、「1~2年で師範代や支部長になれる」とか、まあいろいろな理由で、その存在価値が評価されることもあるのだろう。

 私自身も、10代の頃に学んだ神道流系の剣術と抜刀術、その他雑多な柔術などの体術は、後年、旧師の伝系を調べたらそのほとんどが真っ赤な嘘だったという体験をしている。しかしその後、伝統派空手道、陰流系統の剣術や居合術などを学んだ上で思ったのは、かつて学んだ「インチキ古流」の稽古内容を振り返ってみると、少なくとも当時の稽古の質と内容については、それほど的外れなものではなかったのだなあということである。

 ゆえに、その「インチキ古流」も現在の私の武術基盤になっているといえるし、手裏剣術の稽古がメインになった今も、多少は剣術や居合が嗜めたり、斬りの稽古(試斬)がそこそこできるのも、当時の「インチキ古流」の稽古の賜物であるといえるだろう。

 このように上記パターンのB「インチキだが強い」という宗家や師範あるいは流儀というのは実は結構あって、ある意味ではこれが一番、罪作りなものだ。

 たとえば●●さんとか××流とかねえ(笑)。

 その点、上述の4パターンのうちAとかCは、伝系の真偽はどうあれ、実技そのものがヘタレなので、実際の所、害悪は比較的少ないともいえる。冒頭の朝鮮忍者なる者も、このたぐいに分類できるだろう。ただし、これが袖の下やら御用学者・研究者の権威を使って、「われこそ正統なり」というようなお墨付きをもったりすると、たいへん厄介なわけだが・・・。

 さて、ここで問題になるのが、インチキかインチキでないかという命題は、資料の考証なり、技やデモンストレーションの科学的検証で可能なわけだが、強い弱いという点をどう判断するのかという点である。レベルの低いWEB上の書き込みよろしく、「ノールールで対戦しろ」ということが法治国家である平成の日本でできるわけがなく、またルールを設定すれば、かならずそのルールに、より親和性の高い動きや技術のある方が有利になるわけで、厳密に客観的な比較にはならない。

 畢竟、「AさんよりBさんの方が強い」という個人の強弱のほかは、流儀(スタイル)の強弱や優劣などというものは、客観評価ができないわけだ。専門的に言えば、こうした比較は「科学的命題」ではなく「価値的命題」である、ということなのである。

 だから、良い子の皆さんは、いつまでも「柔道より空手の方が強い」とか、「剣道よりフェンシングの方が強い」とかいってる暇があれば、自分に合ったあるいは自分のやりたい流儀・スタイルを粛々と稽古するのが一番。


 が、しかし!

 こと手裏剣術に関しては、かならずしもそうは言えない。

 なにしろ、手裏剣は、まずは刺さってなんぼの世界である。どんなに伝統がある、あるいは指導者の人柄が良い、サークル感覚で楽しいなどといっても、仮に2年も3年も稽古しているのに、三間(5.4メートル)直打もできないようなところがあるとすれば、それは指導に問題があると断言してよいかと思う。

 ここで、「本当に手裏剣は刺す必要があるのか?」という命題も生まれるわけだが、それについては、また別の機会に論じる。

 いずれにしても、「刺さる」、「刺さらない」が明確に見える手裏剣術という世界は、ある意味で他の武器術や体術に比べて、たいへん明快で、分かりやすい世界であるし、そういう清々しさが、私は嫌いではない。

 こうした嘘偽りのない清々しさを楽しみつつ、武芸十八般のひとつに挙げられる武芸として、手裏剣術の稽古を通して、武術的な「事」と「理」を学べるような体系を改めて編纂し整備したい。

 これが私の考える、翠月庵の目的である。
関連記事
スポンサーサイト