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あらまほしき姿/(武術・武道)

2019年 09月30日 14:10 (月)

 「人生は歩く影法師」といったのは、たしかシェイクスピアだったか。

 ある人物のイメージとは、その人を見る他者ごとに異なる。

 人の影法師が、それが映る地面の形によって、ある人にはでこぼこに、またある人には平らにとそれぞれ異なって見えるように、同じ人間でもある人にとっては善人であり、そしてまたある人にとっては悪人であったりするものだ。

 ・・・と35年ほど前に、北方センセイが『ホットドッグ・プレス』に書いていた気がする。



 過日、武術・武道関係者ではない知人のA氏と雑談をしていたところ、うちの稽古場の話になった。

 その際、A氏に、

「翠月庵さんのところの道場は、猛稽古なんですか?」

 と聞かれた。

「いやいや、ぬるいもんですヨ(笑)。ラジオ体操ができる程度の体力があれば、誰でもできますから」

 と答えると、

「う~ん、でも、そちらのブログを読んでいると、なんだか命がけの練習をするみたいな感じですよね。結構、おっかないイメージがありますよ・・・」

 と言われてしまった。

 まさに、人生は歩く影法師である。



 このブログは、たしかに稽古場の宣伝や、柳剛流をはじめとした私が稽古・伝承している武芸に関する情報発信のためのものであるのだけれど、それ以前に、極めて私的な公開日記でもある。

 だからこそ、しょうもない貧乏話や、趣味の文楽や歌舞伎の話などもつらつらと書いているわけだ。

 その延長線上で、武芸に関する話も翠月庵/国際水月塾武術協会埼玉支部の公式見解というよりは、翠月庵主個人の私的見解であるというスタンスである。

 しかし、そんな筆者の思惑など読んでくださる皆さんにはどうでもよいことであろうし、ここでの私の言動は、少なくとも翠月庵という武芸の稽古会の公式な見解として受け止められるのは、致し方のないことであろう。

 ゆえに、

「夫剣術は敵を殺伐する事也」

 とか、

「なめられたら殺す(といった覚悟)」

 などと書いていると、多くの皆さんには、

「あ、ここは、そういうところなんだ・・・」

 と思われてしまうのだなあと、改めて実感し、そしてしみじみと反省している。



 実際のところ、自分で言うのもなんだが正直言ってうちの稽古は、武術・武道の稽古場としてはかなり「ぬるい」部類だと思う。

 ちょっと分かりにくいたとえかもしれないが、昔ながらの空手の町道場の稽古の身体的・精神的な厳しさやキツさを100としたら、翠月庵の稽古の厳しさやキツさは10くらいであろうか。

 間違っても、入門したての初心者を的の横に立たせて手裏剣をぶち込んだり、素面素手で木刀を使いめったやたらに打ち合ったりはしません(苦笑)。

 先に述べた通り、うちの稽古はラジオ体操ができる程度の体力があれば誰でもできるというのは、けして大げさな話ではない。

 これには理由(わけ)があって、

「稽古場は業や形、術を学ぶ所であって、鍛錬をする場所ではない」

 というのが、翠月庵の基本的な考えだからだ。

 学んだ業や形、術を磨くための鍛錬や反復練習などは、個々人が自分自身の稽古として日々積み重ねていくものである。

 そのような鍛錬や反復練習の方法については、稽古場で丁寧に指導はするけれど、鍛錬や反復練習そのものは自分でやってネ、ということである。

 こうした理由から、翠月庵ではことさら苦行・苦練を強いたり、あるいは体を傷めつけメンタルに圧を加えるような稽古は、ほとんど行っていないわけだ。

 一方で、武術・武道に「強さ」を求めるのであれば、時には体を傷めかねない厳しい稽古、あるいはメンタルに圧を加えるような鍛錬も必要になってくる。

 しかし、そのような鍛錬や稽古は、あくまでも学ぶ人の主体的な意思があってこそのものであり、師匠が弟子に無理やり押し付けるような事ではない。

 「厳しい稽古」というのは、それを望む弟子と、それを受け止める師との相互理解と信頼関係が前提であり、それを望まない人にあえて厳しい稽古を強いる必要はないのである。

 門人が望んでいないのに、師匠が厳しく過酷な稽古を強いるであれば、それは単なるイジメであろう。

 ゆえに当庵では、軽い気持ちで武術を学びたい人には、それに合わせた指導をする。

 一方で、生涯をかけて武芸に打ち込みたいという人には、その志に見合った教え方をする。

 はたまた、「来月に敵討ちの決闘があるのですが、やっとうは苦手です。どうしたらよいでしょう?」といった奇特な依頼があれば(ま、無いけどな・・・)、そのために必要な「術」を伝授することもやぶさかではない。

 ・・・というのが、私=翠月庵のスタンスだ。



 そんなわけで、翠月庵では武術・武道の経験者はもとより、まったく武術・武道をやったことがないという未経験者の入門も歓迎している。

 また、流儀の蘊奥を極めたいという人だけでなく、「なんとなく古武道をやってみたいな」という人にも、広く門戸を開いている。

 他流との兼習もかまわないし(ただし稽古中は、当流のやり方に従ってもらうことは言うまでもない)、年に1~2回といった頻度での遠方からの通い稽古もO.K.だ。

 入門したものの「自分には合わないな・・・」と思ったら、いつでも自由に退会できるし、それで庵主が怒ったり、文句を言ったりもしない。

(ま、一度入門した人が門下を去るというのは、理由はどうであれ指導者としては寂しいもんですが・・・)

 12年前の開庵以来、教授料について月謝制ではなく1回ごとの参加費制としているのは、そういう「風通しのよさ」を担保しておきたいという、ささやか想いからでもある。


「来たらば即ち迎え、去らば即ち送る。対すれば和す。五、五は十なり。二、八は十なり。一、九は十なり。即ちこれをもってすべて和すべし」


 という古い兵法の教えは、単なる対敵動作の心得ではなく、人間の生き方における「あらまほしき姿」ではなかろうか。

 翠月庵の門戸はいつでも誰にでも広く開かれており、できるだけ風通しの良い稽古場でありたいと願っている。

 柳剛流祖・岡田惣右衛門をはじめ、各流の先師・先人方も、そのような稽古場の在り様を喜んでくれるのではないかと、私は思う。

1909_柳剛流_流祖頌徳碑

 (了)
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