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覚悟のススメ/(武術・武道)

2019年 09月05日 12:08 (木)

 今週末の定例稽古で、翠月庵は結庵から丸12年となる。

 干支が一回りしたわけだ。

 未だ片手に余るほどの門人しかいない貧乏道場ながら、我ながらよく続いたものだと思う。



 12年も武芸の道場をやっていると、まあ、それなりにいろんなことがある。

 最近はあまりそういうことはないけれど、開設初期には道場破りまがいの見学者が来たり、敵意を持った他団体の代表者が稽古場におしかけてきたりしたこともあった。

 あるいは講習会で、挑戦的な態度で挑んでくる者がいたり、こちらの指示を守らず不意打ちをしてくる者もいた。

 まったく、野蛮な連中ばかりで、困ったもんである(苦笑)。

 結果としてそれらのケースにおいて、それぞれの状況の中で、

 「武人として処すべき、最適の対応」

 がとれたからこそ、12年が過ぎた今も、翠月庵の看板を下ろさずにいられるわけだ。

 ささやかながらも、こうした経験から実感してきた教訓を、いくぶん粗野な言葉で表現すれば、

 「武芸者は、なめられたら終わり」

 であり、ゆえに、

 「なめられたら、殺す」

 という覚悟がなければ、己の名を名乗り、天下の往来に道場の看板を掲げてなどいられない。

 ま、あくまでも、「覚悟」ということですよ、覚悟・・・(笑)。



 良いことか悪いことかは別として、令和の時代の今も、武術・武道の世界というのは、それが闘争のための武技である以上、本質的には弱肉強食そして適者生存の世界である。

 ゆえに、公に看板を掲げて稽古場を開き、そこで門人を集める以上、指導者にある程度の実力とそれなりの覚悟がなければ、あっという間に悪意や害意を持った相手に「喰われて」しまう。

 ゆるふわのオトモダチばかりではないというのが、厳しい世間の現実なのだ。

 さらに、これはなにも道場破りや講習会荒らしといった手合いだけではなく、誓詞をとった弟子ですら潜在的にはそういう気持ちを秘めているという、武術・武道という芸事の宿命を、指導者は心の隅に置いておくべきだろう。

 だからこそ武芸の師範を名乗るのなら、必要な場合には悪意や害意を持った他者を適切に邀撃制圧できる「業」と「術」、そして「心法」を、常に担保しておかなければならない。

 一方で当然ながら、この広い世の中には、自分よりも強い武術・武道人は、何千何万人といる。

(形武道しかやっていない人には、この点を実感していない者が少なくない)

 そのような相手が、悪意や害意を持って我に向かってきたらどうするか?

 『兵法三十六計』に曰く、「走為上」(走(に)ぐるを上と為す:万策尽きたときは、逃げるのが最善の策である)というのも、兵法の一手ではある。

 しかし、必ずしも逃げることができない場合があるし、逃げてはならない状況もあろう。

 ならば大星由良之助のごとく、すみやかにその場で覚悟を決めるしかない。

 かなわないながらも、

 「一死一殺」

 の心法で、ただひたすらに相討ちを目指すのみだ。

 その覚悟を、「威」とし、「業」とし、「術」としていく。

 これしか、あるまい。

 平山子龍に私淑する者としては、それこそが究極的な意味での、武術稽古の本質であろうと考えている。



 初秋の夜、これまでの12年間を振り返って、しみじみとそんなことを思った次第。

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「自立心だ。自分自身を頼りにする気持だ。自分以外の物事に必要以上に影響されないことだ。お前はまだそれだけの年になっていない。お前のような子供に自主独立を説くのは早すぎる。しかし、お前にはそれ以外に救いはないのだ」(ロバート・B・パーカー『初秋』より)


 (了)
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