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「業」=「術」あってこそ/(武術・武道)

2019年 07月18日 09:49 (木)

 多忙である。

 旧盆が終わるまでのこれから1カ月間は、年末年始と並んで、ライター稼業が最も忙しくなる時期だ。

 単行本、専門誌、月刊誌、ガイドブック、パンフレット、webの仕事が山積みで、連日12時間近く机に向かい原稿を書き、あるいは取材先を渡り歩いていると、どうしても余裕をもって稽古をする時間がなくなり、気力も萎えがちだ。

 しかし、わずかでも稽古ができればと、深夜、稽古着に着替えて木太刀や手裏剣を手にとり、あるいは当身台に向かう。



 最低限のメニューとして、たとえば、

・柳剛流/備之伝、備十五ヶ条フセギ秘伝
・柳生心眼流/素振の片衣(表、中極、落、切)
・柴真揚流/柔術早業の形(適宜数本)、当身台への打ち込み

 などであれば、15分もあれば、ひと通りの稽古ができる。

 また、手裏剣を打つだけなら、15分などあっという間だ。

 そして、忙しい日々の中で15分の時間を見つけ、気力を振りしぼっていざ稽古を始めれば、結局は体がそれを求めて小半刻(30分)ほどの稽古となることも少なくない。

 翠月庵での定例稽古が門人への指導中心となるだけに、わずかな時間でもこうした「自分のための稽古」を日々積み重ねていかなければ、己自身の業前について、「武技として最低限のレベル」が担保できない。



 古流と言えども、それが対人攻防における武技である以上、見せかけだけの「華法」であってはならない。

 剣術でも柔術(やわら)でも、あくまで制敵可能な「業」=「術」の実力があってこその武術・武芸である。

 どれほど由緒正しく高名であろうと、人目を引き付けるような華美な技を誇ろうと、精緻で高尚な理論を唱えようと、最低限の制敵すらできぬなまくらな「業」では、それはもはや武術や武芸とは言えまい。

 だからこそ「業」を磨くと同時に、たとえ相手が自分よりも強く優れていようとも、本当に死命を決する「時」と「場」であるなら(そのような「時」と「場」は、現代の日常生活では基本的にありえないけれど)、勝てずとも必ず相打ちとなす、「一死一殺」「一殺多生」の気勢・気組を養っておくことが重要だ。

 武技に足る「業」=「術」、そして「一死一殺」「一殺多生」の気勢・気組があればこその、我が国の伝統武道が古来より目指すべき境地とした「神武不殺」であろう。

 日常的な稽古の積み重ねを通して、こうした「心法」を錬ることが、結果として武徳を高め、平時の武人としての人格の陶冶に結び付く。

 それが武道修行の、ひとつの要諦ではないかと、私は思う。

1907_松代演武_無双直伝流
▲北信濃伝 無双直伝流和(復元)「水車」。松代藩文武学校武道会の演武にて



「神はもって来(らい)を知り、知はもって往を蔵(おさ)む。それたれかよくこれに与(あずか)らんや。古(いにしえ)の聡明叡智、神武にして殺さざる者か」(易経 繋辞上伝より)




 (了)
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