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着流しでの二本差しについての考察/(武術・武道)

2019年 07月04日 05:07 (木)

 ツイッターで、こんな動画が上がっていた・・・。






 ちょっとこれは、古流の剣術や居合を少々たしなみながら有職故実を学んでいる者として、また普段から和服で生活をしている者としてみても、いささかミスリードが過ぎる動画だと思えるので、以下、反証を試みた。

 まず、結論を先に記すと、

「着流しで二本差しをしても、一般的な大小を正しく帯刀し、きちんとした角帯をしっかりと締めれば、このように帯がゆるんで着崩れ、大刀が縦にズレ落ちてしまうことはない」

 そして、

「江戸期の武士は着流しでも、平素であれば特に問題なく刀・脇差の二刀を帯刀して生活をしていた」

 ということである。



■着装という点からの考察

 私は普段から主に着流しで生活しているが、そもそもこの画像での角帯のしめ方は、いかにもゆるすぎるように見えるのが気になる。

 また、この動画の方が締めている角帯の素材はつまびらかではないが、化繊(ポリ)や正絹の角帯はよくすべる。

 このため帯刀以前に、普通に長着を着ていても、特に化繊の角帯の場合はすべってすぐに着崩れてしまう。ましてやそこに重い両刀を手挟めば、帯は容易にゆるんでしまうのである。

 正しくは、滑りやすい化繊や絹ではなく、重さがかかるほどしっかりと締まる綿の角帯を用いるのが一番良い。

 そして、下丹田を基準に角帯を前下がり後ろ上がりできっちりと締め、なおかつ帯刀しても緩みにくい「片挟み」等でしっかりと結ぶ。

 こうしておけば、一般的な大刀と脇差を正しく帯びる限り、二里も三里ものっしのっしと速足で歩いたのでもない限り、こんなに帯はゆるまないし、大刀が縦にズレて落ちてしまうこともない。

(ただし、帯に手挟む両刀が極厚の重ねで身幅が鉈のような異常ななりの刀で、脇差と大刀を合わせての重量があまりにも重すぎるような場合は、どんな着装でも帯がゆるんでしまい、刀がズレ落ちてしまうのは言うまでもない・・・・・・)

 さらに、往時の武士であれば帯刀した際、

「腰のかがまざるように腹をはり、くさびをしむるといひて、脇差の鞘に腹をもたせて、帯のくつろがざるやうに、くさびをしむる」(『五輪書』水の巻より)

 ようにしているので、着流しであろうと袴を着けていようと、やはりこの動画のような状態にまで帯が伸びてゆるみ、帯刀した状態が崩れるということはない。

 一方で、この動画のはじめの部分をよく見ると、帯の締め方が緩いだけでなく、大小の刀の帯刀の仕方についても、しっかりと大刀と脇差が左の前腰のあたりで十字に交差するように帯刀していないのが分かる。

 このような差し方では、着流しでも袴を着けていても、閂差しだろうと鶺鴒差しだろうと落差しだろうと、数歩も歩けば、はなから大刀がズレ落ちてしまうだろう。

 つまり、この動画の着装をいささか意地の悪い視点で見ると、

「着流しで両刀を差すと、帯がゆるんで大刀が縦にズレ落ちてしまう」

 という、あらかじめ想定された結論を前提に、

「なるべくそうなるように、帯はゆるく、大小の差し方もズレやすくし、しかも往時の武士が通常手挟んだ大小以上に重たい両刀を差した上で撮影をしている」

 というようにも、捉えられかねない。

 万が一そうだとすれば、それは一般的な意味での「着流しでの二本差し」という歴史的事象を考察するための、公正な論考や検証のための資料となる動画とは成り得ないだろう。



 以上が、かれこれ15年ほど普段から和服で生活をしており、一方で37年ほど剣術や居合、抜刀術などの稽古をしている者の立場から、上記の動画をじっくりと確認した上での考察である。


1907_着流し帯刀
▲普段着の太物の着流しに滑りにくい木綿の角帯を締め、「突袖で雪駄チャラチャラ」という風情で、稽古に使っている刀と脇差の両刀を差してみた。なお、大刀は二尺三寸五分、脇差は一尺五寸である。
(鏡に映った姿の自撮りなので、左右が反転していることに注意)。
 この状態でその場で跳躍したり、(字の)隣町までと同じくらいの距離を歩いても、帯はそれほどゆるまないし、大刀も縦にはズレ落ちない。
 ただし、走ったり激しく動きまわり続けたりといった特殊な状況では、当然、大刀が落差しになったり縦にズレ落ちたりもする。そのような場合、突袖でも手を袂から出していたとしても、左手を大刀の柄頭に軽く添えて大刀がズレ落ちないようにするのは、武術・武道人であれば知っておくべきたしなみである



■有職故実からの考察


 まず、「江戸期の武士が着流しでおる」という状況を考えてみよう。

 そもそも士分の者が着流しでいるということは、町方などの特殊な役儀の場合を除けば、その者は自宅でくつろいでいるか、あるいはお忍びで奥山あたりの盛り場を微行しているなど、私的な時間を過ごしている状態である。

 そのような場合、武士は常寸の脇差ではなく、「平生差(ふだんざし)」と呼ばれる、軽くて短い脇差を帯びていた。

 江戸から明治にかけて生きた根来百人組の与力で、幕府講武所で武芸を学び、後に文学者となった塚原渋柿園(1848-1917)は、往時の武士の脇差には「社裃差(かみしもざし)」と「平生差」の2種があったと記している。

 社裃差はいわゆる武士のフォーマルウエアであり、寸法や拵が公儀等の掟で定められているのに対し、平生差については寸法や拵の様式に決まりはなかったという。

 その上で、江戸後期文久・元治の頃の武士は多くの場合、社裃差にせよ平生差にせよ、

「並みが一尺から一、二寸で、短いのはただの八、九寸」

「講武所以来流行(はや)ったのは柄のごく短い、ほとんど手一束」

 の脇差を差していたと述べ、この時代、武士の脇差が全体的に短く軽いものであったことを証言している。

 それどころか、

「慶應の初年までは短刀を差して居りましたが、それも鍔の附いた脇差では無く、もし鍔を附ければ極めて小さいハミダシという鍔であって、その多くは『千葉作り』と申した短刀の一種の作り、それを腹の方へぴったりと寄せて差しまして、刀の方は緩くグラグラと、鞘手の自由の利くように指して居た」

 と、脇差よりもさらに短く軽い短刀を差し添えにしていたとも述べている。

 つまり江戸後期の武士は、フォーマルな場でない限り、袴をつけた場合でも着流しでも、いずれの場合も脇差は軽くて短いものを差すのが一般的であった。

 そうなると、上記動画のような常寸あるいはそれ以上の長脇差+大刀の二本差しに比べると、同じ二本差しでも帯にかかる重さは相当に軽くなる。

 このため同じ二本差しでも、上記動画のように帯がゆるみ大刀が縦にズレ落ちてしまうことは、少なかったと考えられる。


 実際、江戸後期・幕末の幕臣においては、役儀の際の服装は裃ではなくより略装である羽織袴が一般的となっていたが、町方の与力(同心ではない)は、

「定廻り臨時廻りなどといって市中を巡回するような役についている時は、白衣(びゃくえ)といって着流しの事もある。急ぐ時は羽織のすそを内側に折り込んで、すッすッと雪駄を鳴らして通る(昭和時代まで生きた、最後の南町奉行所与力である原胤昭翁談)」。『戊辰物語』東京日日新聞社会部編)

 というわけで、着流しに二本差しでも特段着崩れたり帯がゆるむこともなく、江戸三男の筆頭として粋を謳われた「八丁堀の旦那衆(町方与力)」は、江戸市中をさっそうと闊歩していたのである。 

 さらに、町方与力のようないわゆる「不浄役人」だけでなく、士分の者を対象にした評定所の役人や御勘定方などその他の武家の一般職でも、特別に許された者は裃や羽織袴ではなく、黄八丈の着流しに黒羽織、雪駄といういで立ちで役儀に出仕することができた。

 しかもそれは、たいへんに名誉なことであり、幕臣たちの多くが憧れた粋な姿であったのだという。

 このような公儀公認の武士の着流しでの外出姿は、「旅形(たびなり)」と呼ばれていた。

 その場合、

「極(ご)く短い大小を前の方に差し雪駄チャラチャラで歩いて」

 いたのだと、塚原渋柿園は語る。

190703_234528.jpg
▲渋柿園が自ら描いた、着流しにごく短い二本差しという「旅形」で出仕する武士の姿(『幕末の江戸風俗』より)



 これらの証言から分かるのは、

・江戸後期において、着流しの際に帯刀する大小はごく短いものであり、また社裃差でも平生差でも脇差は八寸から一尺一~二寸と、常寸やそれ以上の長脇差に比べて短く軽いものであった

・江戸の武士の中には、着流しで二本差しという服装で市中を巡回し、あるいは出仕して役儀に従事する者が少なからずいた

 という事実である。

 このような点から考えると、同じ着流しに二本差しでも、上記動画のように極端に帯がゆるんで着崩れ、大刀がズレ落ちてしまうというのは、かなり不自然なことであるのが分かる。

 そこで改めて上記の動画を見ると、さすが試斬を積極的に行っている現代の抜刀術流派だけに、大刀と共に帯刀している脇差は、見るからに長くて重そうな長脇差である。

 また脇差と共に差している大刀も、いかにも重厚そうだ。

 このように長く重い脇差に、さらに長く重い大刀を加えた二本差しで、しかも比較的ゆるめの帯の締め方をした着流しでは、そこに両刀を帯に手挟めば、二刀の重さで帯が伸びて着崩れ、大刀が縦にズレ落ちるのは当然であろう。

 一方で、実際に江戸時代に着流し二本差しで歩いていた武士は、ごく軽く短い脇差と大刀を帯に差し、雪駄の金具をチャラチャラ言わせながら、粋ななりで江戸市中を歩いていたわけだ。

 つまり、上記動画での着流しの二本差しと、江戸の武士が実際にしていた着流しの二本差しでは、その実態=着流し二本差しの在りようが、相当に異なっているのである。



 以上、和服の着装、大小の帯び方、江戸期の有職故実、文献に基づいた歴史的事実という4点から総合的に考えると、

「江戸後期の武士は着流しで二本差しであっても、当該動画のように著しく帯がゆるんで着崩れ、刀がズレ落ちるようなことは無かった」

 と判断できる。



 また蛇足だが塚原渋柿園は、幕末も極まって「ズボン指」(いわゆる突兵拵)が行われるようになってからは、「最(も)う小を差す人は無い」と述べた上で、

「それから、後には刀をただ一本指したのであります」

「すでに『だん袋』を穿かぬ人までが脇差は邪魔な物、不要な物として、慶應の改元頃から大の刀を一本ぶち込むという風俗になりました」

 と記している。

 つまり慶應4年の江戸では、もはや与力レベルの武士においても二本差しが一般的ではなくなり、「大の刀を一本ぶち込む」という状況であったわけだ。

 そうなると武士が着流し角帯で帯刀していても、大刀一口であれば両刀に比べてより軽いわけで、帯が緩んで着崩れてしまい、刀がズレ落ちるようなことは、さらに無かったであろうと思われる。



■結語

 上記ツイッターの動画とそのコメントの論旨は、現代の抜刀術流派の立場からの経験的な考察として、

「着流しでの二本差しはできない」

 と主張しているものである。

 それに加えて、文言上明言はしていないが、

「着流しでの二本差しは、衣装さんの努力によるもの。つまり創作(?)」

 と、示唆しているようにも読み取れる。

 しかし、伝統的な和服の着方、武人としての帯刀の仕方、江戸の武家の有職故実、史料にみる歴史的事実などを勘案すると(急ぎの考察のため、エビデンスとなる事例の「n」は少ないが・・・)、上記のような本件動画の主張の根拠は、意図的か意図的でないのかは別にして、かなり特殊な状況設定(着装がゆるく、両刀が重すぎる)から導き出されていることが分かる。

 ゆえに、「着流しでの二本差しはできない」というその主張は、実証的にも歴史的事例からも、正しくはないと考えるのが妥当であろう。



 結びとして、

「平生差などの比較的短く軽い脇差はもとより、一般的な寸法・拵の脇差でも、滑りにくい角帯をしっかりと締め、大刀と脇差を正しく帯に手挟めば、日常的な生活動作をしている範囲内では、着流しで二刀を帯びても、当該動画のように激しく着崩れして帯がゆるみ、大刀がズレ落ちるということはない」

「往時の武士が、着流し二本差しの姿で普通に日常生活動作を行い、巡回や出仕などの社会活動をしていたことは、時代劇等の創作ではなく歴史的な事実である」

 という2点について、ここで明確に指摘しておく次第である。



■引用参考文献
『五輪書』(宮本武蔵/岩波書店)
『幕末の江戸風俗』(塚原渋柿園/岩波書店)
『戊辰物語』東京日日新聞社会部編/岩波書店)
『刀の明治維新 「帯刀は武士の特権か?」』(尾脇秀和/吉川弘文館)


 (了)
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