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「岡田十内はもともとは百姓」ではない/(柳剛流)

2019年 06月24日 00:13 (月)

※本文の一部を加筆修正、文末に補遺を加えた(2019.6.25)。



 ツイッターを見ていたら、G氏という小説家の方が、

「柳剛流の岡田十内はもともとは百姓だが江戸牢人と称していると、公然とそのようなことがまかり通っていたことが同時代人の日記にあります」

 と書いていた。

 この中で、

「柳剛流の岡田十内はもともとは百姓だが」

 という一文があるが、これは間違いである。

 岡田十内は、もともと百姓ではない。



 岡田十内の父親である岡田静安寅吉(号・華陽)は、武蔵国足立郡下戸田村元蕨(現在の埼玉県戸田市下戸田)で開業した漢方医・国学者で、『脈式』や『分量考』などの医術書を著した、当時としても高名な医師であった。

 その業績は、たとえば昭和7年に発表された『埼玉史談』など、さまざまな史料に記されており、

 「彼は医師的地位として東武の最高峰の一であった」
 (『埼玉史談 第3集 第6号』 「岡田静安 岡田十内」/鈴木券太郎)

 とまで、高く評されている。
 
 このように岡田十内は、江戸後期における武州を代表する医師・国学者であった静安の嫡子であり、いわゆる江戸期における百姓=農民の出自ではないという事実を、ここに明確に記しておく。


 今回の件については、無名や匿名の人のツイッターであれば、黙殺すればよいだけのことだが、G氏はフォロアーが3,000人以上もいるという作家さんであり、そのような方の公に向けてのツイートということで、あえて間違いを指摘させていただいた次第。

 なお、岡田十内の事績については、本ブログの過去記事も参照されたし。


「遅咲きの剣客、柳剛流・岡田十内」
https://saitamagyoda.blog.fc2.com/blog-entry-950.html


160802_152016.jpg
▲岡田十内の肖像画( 『埼玉の剣術-神道無念流・甲源一刀流・柳剛流-』より)



 ところで蛇足ながら、上記のG氏は、同じツイートの中で、

「農民が武術を学べるはずもない、というのは誤り」

 と記述していたのだが、これは正しい。

 柳剛流祖・岡田惣右衛門は、武州惣新田の農家の生まれである。

 また当時の柳剛流では、武士はもとより多くの百姓=農民たちも、こぞって当流の武技を学んでいた。

 柳剛流は流祖以来、神君血筋の家柄の武士(松平主税助)から、地方の10石取りの微禄の侍(一條[岡田]左馬輔)、さらには無名の百姓町人まで、あらゆる階層の人々が学ぶことのできる、

 「万人に開かれた武芸」

 であった。

 私はこのことに強い誇りを持って、令和の今、流儀発祥の地である武州・埼玉にて、流祖・岡田惣右衛門伝来の柳剛流を修行し、門人を育てている。



 「平日に咄しするとも真剣と
          思うて言葉大事とそしれ」(柳剛流 武道歌)




■引用・参考文献
『雑誌并見聞録』/小林雅助/明治40年前後
『埼玉史談 第3集 第6号』-「岡田静安 岡田十内」/鈴木券太郎/昭和7年
『戸田剣術古武道史』辻淳/剣術流派調査研究会/平成25年
『増補・改訂 宮城県 角田地方と柳剛流剣術-日本剣道史に残る郷土の足跡-』/南部修哉/平成28年


※補遺(2019.6.24)

 先ほどツイッターを確認したところ、G氏が本ブログを拝見してくださったようで、さっそく訂正をしてくださいました。

 ありがとう存じます。

 また今回の、「柳剛流の岡田十内はもともとは百姓だが、云々」という誤記の典拠は、牟田文之助の『諸国廻歴日録』だとのこと。

 実は私も、牟田の日録あたりが話しの出所なのだろうなと推察していました。

 牟田の記述は、柳剛流には結構否定的だからね・・・(苦笑)。


 (了)
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