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師家の無制約/(柳剛流)

2019年 05月28日 11:21 (火)

 日本を代表する剣術流派のひとつである某流のホームページに、その流儀を代表する高名な師範への破門状が公開されていた。

 他流のことであるし、詳しい事情も分からないので私が論評を加える余地はないのだけれど、なんというか宗家(家元)制度の暗黒面を改めて見せられたようで、

 「ああ、あの由緒ある、業前も見事な●流も、結局はこういうことになるか・・・」

 と、いささか暗澹たる心持ちである。

  *  *  *  *  *

 形而上下すべてにおいて、ひとりの宗家(家元)が門人を統制して隷属下に置こうとする、宗家(家元)制度や不完全相伝制の武芸には、常に内紛や権力闘争の火種がくすぶる。

 一方で、免許皆伝を得ればその師範は独立して一門を構え、自律的に門弟を取り立て許状も発行できる完全相伝制の武芸には、そのような「暗さ」がない。

 翻って柳剛流をみれば、流祖以来、完全相伝制を墨守しており、実力さえあれば年齢や修行年限に関わりなく免許皆伝を許し、独立を促してきた。

 このため数多くの「柳剛流●×派」が生まれ、それぞれが業前を競いつつ、流祖伝来の「術」と「法」を広く全国に普及させていったのである。

英名録3
▲万延元(1860)年発行の『武術英名録』には、さまざな師範家の柳剛流の名が記されている



 古流武術研究で知られる埼玉大学の山本邦夫教授は、これについて、

 「柳剛流特有の師家の無制約」

 であると指摘している。

 実際に柳剛流祖・岡田惣右衛門は、晩年に高弟であった仙台藩石川家中の一條左馬輔に岡田姓を譲り、柳剛流の正式な二代目継承者としたものの、それ以前もそれ以後も、いわゆる宗家(家元)制のような強力な流儀の統制は敷かなかった。

 ゆえに、たとえば角田伝と同じ仙台藩領内でも、登米地方では野村大輔~吉田勝之丞~半田卵啼系の登米伝柳剛流が角田伝とは別に興隆し、その道統は平成時代まで続いた。

 あるいは伊勢では、直井勝五郎~橘内蔵介系の紀州藩田丸伝柳剛流が数多くの人に稽古され、現在も松阪市の三村幸夫先生御一門によって、その道統が守られている。

 江戸府内では今井(林)右膳や岡田十内が多いに勢力を張り、上総では古川貢や行川幾太郎が東金周辺に柳剛流を伝えた。

 そして、流祖生誕の地である武州では、松田源吾、岡安英斎、綱島武右衛門、飯箸鷹之輔、深井源次郎などそうそうたる柳剛流師範家たちが、それぞれ数百から数千人単位の門弟数を誇り、流儀の興隆を競いあっていた。

 これらの事実はいずれも、流祖以来の完全相伝制を墨守した柳剛流の先師・先人たちの、清々しい「在りよう」を現しているといえよう。

  *  *  *  *  *

 昔も今も、宗家(家元)制や不完全相伝制による門人への統制の強化や修行階梯の複雑化は、ともすると宗家(家元)なり組織の長なりを頂点とする不健全な権威主義につながり、あるいは宗家(家元)とその周辺の佞臣たちが門人から金品を吸い上げる拝金主義に堕してしまう蓋然性を否定しえない。

 それゆえにか、柳剛流祖・岡田惣右衛門という人は宗家(家元)制や不完全相伝制をとらなかった。

 修行階梯を整理して門人の時間的・経済的な負担を軽減し、実力のある者には年齢や修行年限に関わらずに免許皆伝を与え、宗家(家元)に権威や金品を集中させることなく、各々の師範たちに自律と独立を促したのである。

 こうした事績をみるに流祖という人は、権力欲や名誉欲、金銭欲などといったものに汚されない、度量の大きさと心映えの清らかさを兼ね備えた武人であったのだろう。


 令和の時代となった今、流祖伝来の柳剛流を稽古する我々も、流祖のような度量の大きさと心映えの清らかさを体現できるよう、日々の稽古を通じて業前はもとより、心もしっかりと磨いていきたいものだと、しみじみ思う。

1706_柳剛流「右剣」
▲仙台藩角田伝 柳剛流剣術 「右剣」


 「分けのほる鹿の道は多けれど
           同じ高根の月を詠めん」(柳剛流 武道歌)



 (了)
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