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恥を知る心/(武術・武道)

2018年 11月03日 08:48 (土)

 私が生まれた1969年は、太平洋戦争が終わってから24年後である。

 当然ながら、戦争というものを知らずに育った。

 後年、フリーの従軍記者を志して中東を取材していたこともあり、(結果的に戦場ジャーナリストとしては芽が出なかったけれど)、クルド・ゲリラとトルコ治安軍との10年間に渡る紛争の一端を垣間見ることはできた。

ネブロズ1 修正
▲上空のトルコ治安軍武装ヘリに、無言で抵抗のVサインを上げるクルドの人々(1996年/ディヤルバクル Ⓒ瀬沼健司)



 こうした経験から言えるのは、戦争などというのは、ろくなもんじゃあないということだ。

 「垣間見た」だけでもそう思うのだから、実際に戦争に直面した我々の祖父や祖母の世代は、最前線の兵士も、銃後の市民も、さぞかし過酷でつらかっただろうなというのは、容易に想像できる。

 そこでつらつら思うのだけれど、たとえば近年、靖国神社の境内で旧軍の軍服を着てうろうろしている人々がいるけれど、彼らはいったい、どういうメンタリティをしているのだろうかということだ。

 まず前提として、趣味で軍服を着る行為は否定しない。

 私も、フライトジャケットやフィールドコートなどのミリタリークロージングは大好きだから、そういうファッションへの憧れという気持ちは分かる。

 しかし、わざわざ旧軍兵士や将校の軍服を着て、実際に戦闘で亡くなった人たちの御霊が祀られている、鎮魂の場である神社の境内をうろつくという神経は、私にはまったく理解できない。

 そういう行為からは戦没者への敬意はまったく感じられないし、軍人ではない民間人が、そのような恰好で戦士たちの魂が眠る神社の境内を徘徊するなどというのは、冒涜だとさえ思える。



 これらと同様の違和感を、一部の武術関係者にも強く感じる。

 たとえば、実際には所縁(ゆかり)がないであろう、故人の墓前や戦没者の慰霊碑等の前でのパフォーマンスを、自流の宣伝や広報の手段とするような行為は、はたしていかがなものだろうか?

 そういうことを、良心の呵責無しにできる人の精神構造が、私には理解できない。

 彼らは、亡くなった人たちの御霊に対して、「恥ずかしい」と思わないのだろうか?

 無関係な先人の事績を、己の承認欲求を満たすために利用する行為について、「これは人として、いけないことだ」と感じないのだろうか?



 「恥を知る」=廉恥(れんち)の心というのは、日本の武人が古くから育んできた、美しい精神のひとつだ。

 一方で「恥知らず」というのは、古来、廉恥の心を破るという意味から、「破廉恥(はれんち)」という。

 その行為は、先人たちが身命をかけて育んできた「廉恥心」にかなっているか?

 故人の御霊を穢すような、「破廉恥」な行為になっていないか?

 歴史や故人への敬意と、人としての良心、そしてなにより武人としての覚悟と心映えがあるのなら、自らの行いを正しく律してほしいと願う。

 (了)
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