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仕太刀の業を引き上げる/(柳剛流)

2018年 08月13日 02:08 (月)

 剣術の組太刀では、一般的には師や先輩などの上位者が打太刀=形において負ける役を務める。

 稀に打太刀が勝つことで終わる形もあり、柳剛流にもそのような形があるが、あくまでそれは特殊な例だ。

 このため私自身、師に打太刀を執っていただく際や自分自身の一人稽古では、仕太刀の業をもっぱらに磨くわけだが、一方で翠月庵での定例稽古の際は、門人に仕太刀を遣わせ自分は打太刀を執る。

 先週末の定例稽古では、門下のU氏に指導をするため打太刀を執っていたのだが、改めて「打太刀は難しいものだなあ・・・」としみじみと実感した。

 どうしても日々の自分の稽古では、剣術や突杖、長刀(なぎなた)の形については、勝口(かちくち)を学び体得するために仕太刀としての業の修練がメインとなるわけで、打太刀としての稽古は二の次になってしまう。

 このため恥ずかしいことに、打太刀を執っていて何度か動きを誤ったり、拍子を居着かせたり外してしまったのだ。



 そもそも打太刀を上位者や師匠が執るのは、仕太刀を務める下位者や弟子に形の理合=勝口を学ばせ、彼の「業」や「術」のレベルを引き上げてやるためである。

 にもかかわらず、打太刀が動きを誤ったり形の拍子を滞らせてしまうようでは、到底弟子への指導にはならない。

 大いに反省するところだ。

 さりとて打太刀の修練だけに偏っては、本来習得すべき流儀の勝口、すなわち剣なり杖なり長刀なりで勝つための「業」や「術」が上達しないどころか、むしろ下達してしまう。

 このため、たとえば神道無念流の中山博道師は、形稽古においては晩年まで徹底して、仕太刀を執ることにこだわったという。

 しかしそれでは己自身の業は上達しても、弟子を育て上達させることはままならないであろう。



 このように伝統武道を修行する者にとって、仕太刀と打太刀の修練のバランスというのはまことに悩ましいテーマなわけだが、それはまた、多くの先達の方々が歩んできた道でもある。

 なにより、自分自身の武術・武道人生において、「弟子をとる」という在り方を選んだ以上、この相剋を避けて通るわけにはいかない・・・。

 そんなことをつらつらと考えながら、昨晩は柳剛流剣術の稽古の後、「右剣」と「左剣」における打太刀の動きの復習にも、改めて意を注いだ次第である。

1805_柳剛流_中合剣
▲柳剛流剣術 「中合剣」(仕太刀:宇田川浩二、打太刀:瀬沼健司)


打つ人も打たるる人も打太刀も
         心なとめず無念無心そ(柳剛流 武道歌)



 (了)
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