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古の有様に心安くてこそあらまほしく侍れ/(武術・武道)

2018年 04月08日 11:46 (日)

 ネットで武術関係の書き込みや記事などを読んでいると、本当にいろんな人がいるなあと、しみじみ思う。

 私など、せっかく江戸時代から続く武芸を稽古しているのだから、できるだけ流派の史実についても知りたいと思うのだが、「自流の歴史には、まったく興味がない」と断言する人がいる。

 また、古流武術というのは近代よりも前の社会の有職故実、動作や慣習などと密接な関係にあり、業はもとより流儀固有の礼法や作法も貴重な無形文化・身体文化だと思うのだが、「流儀の礼法や作法には関心がない」と明言する人もいる。

 あるいは、流儀の「業」には関心があり稽古はするが、伝承や普及、後進の育成はどうでもよいという者もいる。己の上達にしか関心が無いというタイプだ。

 当然ながら、稽古をする動機は人それぞれなので、流儀の事績に関心がないのも、礼法・作法に興味がないのも、伝承や普及はどうでもよいと考えるのも、ひとりひとりの自由だ。

 しかし、古流武術を指導する立場から言えば、もし自分の弟子にこうした考えを持つ者がいたとすれば、その者の師としてまことに残念であるし、流儀を愛する者としてたいへんに悲しく思う。



 たとえば柳剛流にも、固有の礼法がある。

 それに対して、関心が無いと心の中で思うのは自由だが、(他者の内心は規制できないし、内心の自由は誰にも侵されるべきものではない)、指導者は稽古においてそれを弟子に尊重させなければならないし、流儀の礼法を正しく行ずることのできない者には、どんなに「業」が上手かろうと、稽古年数が長かろうと、切紙や目録、免許といった伝位を与えないのは当然のことだ。

 そして古流の武術では、伝位ごとに学ぶことの許される「業=形」が決められているのが一般的であり、伝位が与えられないということは、実際の稽古において初心者向け以上の上級の形や業、口伝が伝授されないということである。

 つまり、流儀の礼法や作法を重んじない者は、少なくとも柳剛流の先人が云うところの“吾が党”においては、永遠に初歩の稽古しかできないということだ。



 根源に「制敵」という大目的がある武芸の修行が、「業」や「術」の鍛錬に偏るのはある意味で仕方がないことである。自分自身を振り返っても、若い頃から流儀の作法や礼法、有職故実や事績を、今ほど重んじてきたわけではない。

 また、どんなに作法や礼法が(一見)見事であり、事績に関する蘊蓄が豊富であっても、肝心の「業」や「術」のレベルが低く、武人としての「肚」が錬られていない者は、他流に侮られるどころか、素人の粗野な暴力にすら圧倒されてしまうだろう。

 それでは到底、武人とは言えまい。

 武術における礼法や作法、知識というのは、あくまでも根底に武力による「威」があってのものだ。

 だからこそ古流武術の指導者は、門人に対して、武術として通用する「業」と「肚」を練り上げさせると同時に、流儀における礼法や作法の意義、事績を学ぶことの大切さ、伝承し次代に伝えることの重要性を、折に触れて言い聞かせ、啓発していかなければならない。



 業や術に偏った指導は、「規範意識の低い反社会的人物」を生み出すことになりかねない。

 一方で作法や知識に偏った指導は、「見かけ倒しの橙武者」を育てるだけだろう。

 反社会的人物も、橙武者も、いずれも“吾が党”には不要である。

 武術・武道に携わる者は、「事」と「理」に対する中庸の徳を、能々吟味するべきであろう。


1804_柳剛流礼法2
▲仙台藩角田伝 柳剛流の礼法。形を行ずる際には、所定の動作をもって必ず股立をとる


 (了)
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