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清き明き心/(武術・武道)

2018年 07月26日 10:14 (木)

 恐山の院代である南直哉氏の著作は、その切実で真摯な内容から、いつも興味深く拝読させていただいている。

 同氏の著作にこんなエピソードがある。

 ある少年が、誰もいない自宅でいたずらかなにかをして、家人の大切な品を壊してしまう。

 それについて祖父が少年を問い詰めるのだが、少年は自分の責任を認めようとせず、なんとか言い逃れようとする。

 祖父は少年に、「お前がどんなに嘘をついて言い逃れをしようとしても、それを見ていた人がいるのだぞ」、と諭す。

 しかし少年は、「いや、僕以外に見ていた人はいない。どうせ祖父は、『神様仏様が見ていた』などと、宗教臭いきれいごとを言うに違いない・・・」とたかをくくる。

 そんな少年に、祖父はこう言い放つ。

 「お前だ! それを見ていたのは、お前だ! どんなに嘘をついても、お前自身がそれを見ていたのだ」

 思いがけない祖父の言葉に、少年は悄然とするのであった・・・・。


   *  *  *  *  *  *  *  *  *  *


 翻って古流武術の世界に目を向けると、伝系や来歴を捏造したり、自身の創作を歴史あるものだと偽る、不逞の輩が絶えない。

 思うに、武術の来歴を捏造しようというのは、肥大化した自己愛や承認欲求、権力欲、名誉欲、金銭欲などが主な動機であろう。

 しかし1つ確実に言えることは、南和尚の語る逸話のように、どんなに巧妙な嘘をついて人を騙し、虚名や悪銭を得たとしても、捏造をした当の本人自身は、

 「己の武術が捏造創作である」

 という真実から目を背けることができない。

 仮に、当人が己の嘘や捏造を、嘘や捏造だと自覚できないほどに信じ込んでいるとしても(嘘をついているうちに、そういうふうになってしまう人は、意外に少なくない)、顕在している意識のさらに深層にある潜在意識においては、やはり「己の武術が捏造創作である」という自覚から、逃れることはできない。

 一方で、21世紀も20年近くが過ぎた今の時代に、わざわざ古流武術や日本の伝統文化を偽って自己実現をしようというのだから、そういう者は人並み以上に、「伝統」や「由緒」、「来歴」といったものに強い執着を抱いているのだろう。

 ゆえに捏造した張本人は、彼だけが知る真実、つまり己の主張する伝系や来歴の捏造や嘘、業前の創作や剽窃といった行為に常に心を乱され、負い目を感じ、自身の承認欲求はいつになっても完全には満たされず、自己効力感を得る事もできない。

 さらには、自分の嘘がいつばれてしまうだろうかと常に怯え、そのためにさらに捏造や嘘の上塗りを繰り返す。

 「一度嘘をつくと、次々に嘘をつかなければならなくなる」とは、よくいったものである。

 結果として、捏造をした当人は死ぬまで、

 「自分のやっていることは、本当は嘘八百のインチキ武芸なのだ・・・・・・」

 という自己否定と、

 「いつ嘘がばれるのだろうか・・・・」

 という不安から逃れることができず、本当の意味での「自己実現」や「自己効力感」を、永遠に実感することができないのである。

 これはまさに捏造をする者が自分自身にかけた、解けることの無い「呪い」だ。

 私のような気の弱い市井の武術・武道人からすると、よくもまあそんな救いのない事をするなあと思う。

 そんな「武術的餓鬼道」を歩むより、広く人に知られずとも、金にならずとも、名声など得られずとも、正々堂々と誰憚ることなくお天道様の下を大手を振って歩くことができる、心晴れやかな武術修行の道を歩みたいものだ。

 このような武術の捏造や剽窃といった「呪い」から自分自身を守り、人としてあるべき道(道理)を踏み外さぬように正してくれるのが、武徳としての「廉恥心」(恥を知る心)であり、社会人としての「規範意識」(社会のルールを守ろうという意識)ではないだろうか?



 もう、お盆も近い。

 柳剛流をはじめとした伝統武道を継承する者のひとりとして、江戸の昔にまでさかのぼる流祖・先師・先人方の御霊に恥じない清き明き心(清明心)を胸に、晴ればれとした天下御免の武術人生を歩んでいきたいものだと、しみじみ思う。


神国に生まれ来たりて生まれ来て
           それ吹き返す天の神風(柳剛流 武道歌)



  (了)
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