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柔らかな言葉の“手触り”~『忘れられた巨人』/(書評)

2018年 02月28日 00:01 (水)

 流行りものにはできるだけ背を向けたい生来の天邪鬼で、しかも四十路を過ぎてからは、読書はもっぱらドキュメントか古典中心であり、東直己と長野まゆみ以外、ほとんど小説は読まなくなった。

 しかし昨年末から、ちょっと思うところがあって、カズオ・イシグロを積極的に読もうという気持ちになった。

 とはいえ、ほとんど就寝前の睡眠薬という感じで、数ページ読んでは寝てしまうというありさまであり、『私を離さないで』を正月休みに読み、年明けから読み始めた『忘れられた巨人』を、ようやく先日読了した。


 カズオ・イシグロの作品は、それぞれに時代背景や設定などが全く異なるのが特徴ということで、上記2冊もかたや現代~近未来(?)が舞台であり、かたやアーサー王と円卓の騎士たちの時代の物語であった。

 内容としても、一方はSF仕立て、一方はファンタジー仕立てと、作品世界には何の共通性も関連性もないのであるが、どちらの作品も、使われている言葉がおしなべて丁寧であり、華美でなく簡素で、そしてなにより柔らかい“質感”を感じさせることが、たいへん好ましかった。

 こうした言葉の“手触り”が、作品本来のもち味なのか、あるいは訳者の日本語のセンスによるものなのかについては、私はまったく英語を解さないので判断できない。

 しかし、連日12時間以上机に向かい、1文字5円や10円の俗っぽい日本語を絞り出しながらキーボードにたたきつけていると、就寝前に読むカズオ・イシグロ作品の言葉や言い回しが、とても脳髄に優しく心地よかった。



 この2つの作品を比較すると、『私を~』は受容と諦念の物語であり、『忘れられた~』は赦しと記憶の在り様を問う物語であった。

 忘れられた「巨人」とは、いったい何なのか?

 我われは、すでにその巨人が目覚め荒々しく跋扈する世界に生きているだけに、物語の世界を旅する登場人物ひとりひとりの抱える悲しみや怒り、絶望や希望をありありと感じることができたように思う。

 そしてまた、「忘れる」という人間の行為の持つ意味を改めて考えさせてくれた、哀しくも心地よい読書体験であった。

忘れられた巨人


 (了)
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