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夫れ武は仁義の具、暴を誅し乱を救う/(柳剛流)

2018年 02月17日 01:28 (土)

■2018.8.4 一部加筆訂正


 柳剛流の伝書は、流祖・岡田惣右衛門が学んだ心形刀流の影響が強く、たとえば流祖直筆伝書や岡田十内系、泉冨次師範以降の角田伝の柳剛流目録の前文などは、その多くが心形刀流の伝書の文言とほとんど同じである。

 一方で、同じ仙台藩角田伝でも、その祖であり柳剛流の正当な2代目でもある一條(岡田)左馬輔直筆の目録伝書の文言は、心形刀流のものとは異なる。

 一條左馬輔直筆の伝書については、切紙の文言は小川重助系統の切紙と、目録については岡安貞輔系と同じ文言であるが、免許巻については(今のところ私が確認している限りでは)、他の伝系の伝書に同種の文言を見ない独自性の高いものだ。

 一條左馬輔筆の免許伝書の文言が非常に独自性が高い事、しかし後年の角田伝の伝書は、切紙・目録のいずれも江戸の岡田十内系とほぼ同じ文言に変化していることは、いずれも非常に興味深く、今後の調査・研究課題のひとつである。



 その上で、一條左馬輔の記した伝書の文言は、簡潔で分かりやすく、剣の理合や武芸者としてのあるべき姿を、誰にでも理解できる分かりやすい言葉で指摘しており、とても好感が持てると私は感じている。

 たとえば、「武術・武道を修行する目的とは何か?」というのは、今も昔も、武芸に携わる人間が抱える普遍的な命題である。

 これについて、左馬輔は次のように明快に語る。

夫れ武は仁義の具。暴を誅し乱を救う。皆民を保つの所以にして仁義の用に非ざるなし。(「柳剛流免許之巻」より。以下、同じ)



 さらに、そのような「武」のあるべき姿について、以下のように諭す。

是を以て之を用うるに仁・孝・忠なれば即ち天下の至宝なり。之を用うるに私怨奸慝(かんとく)なれば即ち天下の凶器なり。※奸慝(よこしまな隠れた悪事)



 じつに明快な考え方であり、実直な教えだ。

 そして左馬輔は、

故に剣法を知り至誠偽り無きの道、以て謹まざるべけん哉。



 と結ぶのである。

 また、これは以前にも本ブログで紹介したが、勝負に臨んでの心法について左馬輔は、

敵の盈虧(えいき)を察し、必勝を求めずして、自然に勝つべきに於いて勝つ。何を以てか之を譬えん。其の際に髪を容れるべからず。※盈虧(満ち欠け)(「目録之巻」より)



 と喝破する。

 この、「必勝を求めずして、自然に勝つべきに於いて勝つ」という心法は、普段の稽古において私はいつも念じ、門下へもこの心法を第一に指導している。

 相手に勝とうという気持ちを棄て、ただ自然に剣の道理に従って術を遣う。

 その「術」が剣の道理、実の道に背いていなければ、おのずから勝ちを得ることができるのだ。

 こうした剣の理は、言葉こそ違えど平山子竜の言う、

其殺伐の念慮を驀直端的に敵心へ透徹するを以て最用とすることぞ。(「剣説」)



 と、通じる所は同じであろう。



 私は(想定としての)闘争においては、

 「相手に勝とうと思う必要はない。ただ、自分も死ぬが必ず相手も殺す。多勢に囲まれて打ち殺されるとしても、必ず一人は道連れにして殺す。闘争における必勝の勝口は、この気勢を持って対するのみである」

 と常々考えており、門下にも稽古を通じてこうした心法を錬るよう指導している。

 武芸における強さとは、綺麗ごとや理屈ではなく実体として、最終的には術技の巧緻を超えた、「一人一殺」「一殺多生」の心法に収れんするのではあるまいか?

 その気勢を錬るために、我々は何千何万何十万回と、流祖以来連綿と伝えられてきた「形」を日々繰り返し、「術」を磨き続けるのだ。

1705_演武_モノクロ
▲柳剛流居合 「向一文字」

 (了)
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