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司馬遼太郎の呪い~柳剛流へのデマや誹謗を考える~/(柳剛流)

2018年 02月01日 11:06 (木)

 ネット、なかでもツイッターで「柳剛流」というキーワードを検索すると、ヒットするのはほとんど漫画に関するツイートで、武術としての柳剛流に関連するものはとても少ない。

 しかも、その数少ない武術関連の柳剛流に関するツイートも、柳剛流の実技を知らない人々による伝聞や推測に基づいた、誤ったものがほとんどだ。

 このためいまだに、

「柳剛流は、なりふり構わず足を狙う」

 とか、

「柳剛流は江戸の剣客のなかでは評判がよくない外法(げほう)とののしる者もあり、『百姓剣法』と悪口する者もいた」

 とか、

「異様に長い竹刀で相手の足ばかりをねらうために、いかにもなりがわるく、観る者もそのぶざまさに失笑したり、それが意外にも勝ち進むために、ひそかに舌打ちをする者もあった」

 とか、

「柳剛流も、こうして他流のあいだで立ちあわせてみると、いかにも醜い。角力でさえ足を取るのはいやしいとされている」

 などといった、司馬遼太郎作のフィクションに基づいたデマや誹謗中傷が蔓延している。

 まったく、無礼な話である。

 そもそも司馬遼太郎の言うように、本当に柳剛流が「醜く」、「卑しい」、「外法の百姓剣法」であったとすれば、なぜそのような柳剛流を修めた松平主税助が、有為な武門の子弟に武芸を教授する、幕府講武所教授(剣術師範)なのだろうか?

 あるいは、我々の伝承している仙台藩角田伝柳剛流は、仙台伊達家臣中の一門筆頭である石川家(2万1380石)の剣術流儀だが、「醜く」、「卑しい」、「外法の百姓剣法」を、大名クラスの大身である石川家が、わざわざ御家の剣術流儀として採用するだろうか?

 このあたりをぜひ、シバリョウ先生に問いかけたいところである。

 できることなら、おっとり刀で駆けつけて苦言申し上げたいところであるが、シバリョウ先生はもう鬼籍に入られて久しいし、史実ではなく創作された物語を盛り上げるには、「醜く」「卑しい」「外法」の悪役が必要だということも、分からんでもない・・・・・・(苦笑)。



 これまでも何度か本ブログで指摘してきたが、柳剛流における脚斬り=「断脚之術」は、なりふり構わず足を狙うといった粗野なものではない。

 また、帯刀した状態から、あるいは抜刀して何らかの構えをとった状態から、いきなり体を沈めて相手の脚を斬るような底の浅い業は、柳剛流には1つとして無い。

 (なお、撃剣における勝口(かちくち)のバリエーションのひとつとして、たとえば上段から相手の拍子をはずして先をとり、いきなり足に打ち込むといった技が、ある程度有効であることは言うまでもない)

 そもそも、いきなり足に向けて斬ってくるような単純な脚斬りは、ある程度慣れてくれば、実は受けたり抜いたりすることはそれほど難しくないし、多少こちらの拍子が遅れてもよいので相打ちのつもりで頭や首、小手などを斬り伏せればよいだけのことだ。

 故に、「術」として相手の脚を斬るためには、斬るための「拍子」・「間積り・「位」が必要であり、それらによって作られた「場」と「彼我の接点」があるからこそ、我は斬られずに相手の脚を斬ることができるのである。

 この、斬るための拍子・間積もり・位は、柔(やわら)でいえば、いわゆる「作り」と「掛け」に当たる。

 このような「断脚之術」の理合の、基本と極意が余すことなく盛り込まれているのが、柳剛流で最初に学ぶ「右剣」と「左剣」の形である。

 だからこそ柳剛流の門を叩く者は、江戸の昔も平成の今も、まずこの2つの形を徹底的に練磨するのだ。



 一方で、世の中のイメージが、本来の業とはまったく異なるものとして多くの人に流布しているというのは、兵法としてはたいへんに好都合でもある。

 なにしろ、多くの人は、柳剛流は「なりふり構わず足を斬る」とか、抜き打ちにせよ構えた状態からにせよ「いきなり足に斬りつけてくる」と思っているのだ。

 そのように思い込んでいる相手には、そのように思わせておいて、脚など斬らずおもむろに面なり小手なり胴なりを斬れば良いのである。

 柳剛流の勝口は、脚斬りだけではないのだから。



 それにしても、司馬遼太郎や高野佐三郎が吹聴した柳剛流へのデマや誹謗中傷は実に根深い。

 それらを払拭していくことも、21世紀の今に柳剛流を伝承する我々の、使命のひとつであろう。

1706_柳剛流「右剣」
▲柳剛流剣術 「右剣」。脚を斬るためには、そこに至る「作り」と「掛け」が必要である。さらにこの状態から打太刀の正面切りに応ずる「術」も、形を通して学ぶのである


 (了)
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