FC2ブログ

03月 « 2020年04月 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30  » 05月

柳剛流剣客たちの花押(その1)/(柳剛流)

2017年 12月23日 12:18 (土)

 「書き判」とも呼ばれる、日本の伝統的なサインである花押。

 武術伝書の署名には、多くの場合花押が記されているし、門弟帳の署名などにも添えられることが多い。

 たとえば、柳剛流の江戸における大家であった岡田十内の神文帳(門人帳)は、全5巻のうち第2巻を除く1~5巻が今も残されているが、そこに記された963名の署名には、ざっとみて(印象で)4分の1程度の署名に花押が添えられている。

 これらを見ると、複雑なものから簡素なものまでデザインも様々であり、その人の個性や花押に秘めた想いが感じられる。

 そこで、これから数回にわたり、柳剛流の剣客たちの花押を見ていこうと思う。



 まずは、柳剛流二代宗家であり仙台藩角田伝の祖となった、一條(岡田)左馬輔の花押がこちら。

171222_215028.jpg



 この花押は、天保9(1838)年11月に、左馬輔が弟子の戸田泰助(角田石川家剣術師範)に授与した、柳剛流目録に記されたものだ。

 ところがその後、左馬輔の花押のデザインは少し変わる。

 上の伝書から9年後の弘化4(1847)年3月に菅野孝三郎に授与した目録に記された左馬輔の花押には、右の部分に「知福之点」が加えられているのだ。

 171222_215155.jpg



 実はこの間の期間に、左馬輔の境遇は激変している。

 仙台藩石川家の柳剛流剣術師範であった左馬輔は、同じく石川家中の剣術流儀であった夢想願立あるいは天心独明流の剣客との、真剣による遺恨試合で相手を斬り倒して勝利するも、角田を脱し石巻に身をひそめたのである。

 なお、その後も左馬輔は年に1回、主家の暮らす角田城へ挨拶にあがり、左馬輔の子は引き続き石川家中として存続している。

 また弟子の戸田泰助は引き続き石川家の剣術師範として角田で柳剛流を教えており、それどころか、この遺恨試合と左馬輔の石巻隠遁以後、柳剛流は急激に石川家中での存在感を高め、家中随一の剣術流儀となるのである。

 このような後日談からも、遺恨試合と左馬輔の石巻への隠遁は、けして不名誉な事ではなかったことが強く推察される。

 しかし、いずれにしても遺恨試合の結果、人を殺め、主家を離れざるをえなくなったことについて、左馬輔は剣客として強く思うところがあったのではないだろうか?

 だからこそ事件後、己の花押に「知福之点」を加え、剣客としての自省を強く誓ったのではないかと、私は思う。

 以後、左馬輔の花押はいずれも、「知福之点」を加えたものとなっている。



 その後、左馬輔は生涯を石巻で暮らし、湊南町に稽古場を構えて広く流祖直伝の柳剛流を教授。岡崎兵右衛門陳秀をはじめとした多くの逸材を育成した。

 嘉永元(1848)年には、自らの師である岡田惣右衛門の23回忌に、石巻の地に「柳剛流祖岡田先生之碑」を建立する。

 この石巻の「柳剛流祖岡田先生之碑」は、全国に3つある岡田惣右衛門の顕彰碑の中で最も古いものであり、流祖から直接教えを受けた者(左馬輔)が撰文した唯一の碑である。

 それから8年後の安政3(1856)年10月3日、左馬輔は石巻にて70年の生涯を終えた。


仙台角田の人岡田左馬輔信忠、嘗て先生に従いて学ぶこと十年余り、才芸倫を超え、善く其の統を継ぐ、今石港に僑居して、徒を集め業を授く。~柳剛流祖岡田先生之碑より~




■引用・参考文献
『一條家系譜探訪 柳剛流剣術』一條昭雄/私家版
『増補・改訂 宮城県 角田地方と柳剛流剣術-日本剣道史に残る郷土の足跡-』/南部修哉/私家版
『日本剣道史 第十号 柳剛流研究(その1)』森田栄/日本剣道史編纂所

 (つづく)
関連記事
スポンサーサイト