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神武不殺/(柳剛流)

2017年 10月30日 02:42 (月)

 思うところがあり、今晩の自宅での稽古では木太刀を執って鏡に向かい、備十五ヶ条フセギ秘伝に集中する。

 鏡に映る己の構えとそこからの太刀筋に対し、フセギ秘伝で応じ、そして相手の脚を薙ぎ、面を打ち割り、小鬢を斬り裂き、小手を落とし、胴を抜き、当身を入れ、体当たりを加え、足がらをかけ、倒れた相手にさらに斬りつけ、最後には組敷いて留めを刺す。

 鏡の中の己の相手にした、地稽古のようなものだ。

 柳剛流における備十五ヶ条フセギ秘伝の稽古は、形稽古と撃剣の間をつなぐ中間的な鍛錬であると実感する。

 ここから撃剣による地稽古までは、もう一足飛びであろう。

 ひとしきり剣を振った後は、柳生心眼流の素振。

 「表」、「中極」、「落」、「切」、さらにそれぞれの向振り、取返、取放の形を錬る。

 心眼流の素振でも、鏡に映る己を仮想の敵とし、すべての拳・足・肘・肩などによる当身が、武技となっていることを心掛ける。

 稽古が終われば、もう肌寒い季節だというのに、稽古着が汗で重い。



 翠月庵での門下との稽古や、水月塾本部での師や兄弟子たちとの稽古と異なり、自宅ではどうしても単独稽古にならざるをえないが、武技である以上、常に制敵・殺敵の気組みをもって取り組まなければならない。

 そうでなければ武技たるものが、殺陣や踊りなどのような見世物になってしまう。

 かつて柳剛流祖・岡田惣右衛門は、次のように語った。


「世の剣術家は皆、斬足之法を知らず、ゆえに剣を学ぶ者は足を斬ることを愧じとしているが、戦場では相手の足を斬らないという理はない。(中略)。身体四肢のどこを斬っても突いても構わず、勝負が決しなければ組打ち投げつけるのだ」(「奉納御宝前」より意訳)


 あるいは、私淑する講武実用流の平山行蔵は剣術の神髄を、


「夫剣術は敵を殺伐する事也。其殺伐の念慮を驀直端的に敵心へ透徹するを以て最用とすることぞ」(平山子龍『剣説』より)


 と喝破した。

 武芸の鍛錬とは、たとえ相手のいない一人稽古だとしても、心法のひとつのあり方として、常にそういうものでければならない。

 これまで36年間の武術・武道稽古を通して思うのは、形武道でも競技武道でも、古武道でも現代武道でも、「ハラ」の錬れていない者は弱いということだ。

 だからこそ武芸を志す者は、稽古を通じて「一人一殺」、「一殺多生」のハラを錬らなければならない。

 その上で、目指すべき武術の至極こそが、東洋哲学の帝王たる『易』繋辞伝が示すところの、


 「神武不殺」


 なのであろう。


1710_柳剛流居合 「向一文字」
▲柳剛流居合 「向一文字」


 (了)
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