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農民剣法と現代における武士道/(武術・武道)

2017年 10月22日 16:33 (日)

 江戸時代後期、武州では多くの武術流派が興隆した。

 それらの流儀の多くが、武士階級以外の階層出身者によって創流され、あるいは広く稽古されていことは、たとえば剣道範士で武州における武術研究の先駆けであった志藤義孝埼玉大学教授の論文、「江戸時代における埼玉県の剣術」(武道学研究11-3/1979)に詳しい(https://www.jstage.jst.go.jp/article/budo1968/11/3/11_1/_pdf)。

 志藤教授は、こうした江戸中期以降に農民や町人の間で盛んになった武術の新興流派を「庶民武道」と定義しているが、その代表的な流派のひとつが、我が柳剛流である。

 流祖・岡田惣右衛門をはじめ、武州最大師範家だった岡安英斎、江戸府内と武州の両方で教線を張り数多くの門人を育てた松田源吾など、特に武州一帯で勢力を誇った柳剛流師範家の多くが豪農の子弟であった。あるいは、江戸で1000人以上の門人に柳剛流を伝えた岡田十内は、医者の息子である。

 司馬遼太郎は作品中で、柳剛流を「野卑な田舎剣法」などとたびたび辱める発言をしており、まったく困った国民作家なのだが(苦笑)、たしかに柳剛流は農民出身の流祖が編み出し、広く武州の庶民階級に稽古された典型的な「庶民武道」であり「農民剣法」である。

 私なども毎週末、荒川沿いの田園地帯にある莚を敷いた野天稽古場で、門人と共に柳剛流を稽古していると、

 「これぞまさに、農民剣法だなあ・・・・・・」

 と、(肯定的な意味で)しみじみとした感慨に浸ることも少なくない。

 一方で柳剛流は、江戸府内においては、講武所師範で浪士隊や新徴組にも深くかかわった長沢松平家の第18代当主・松平忠敏、藤堂家士で千葉栄次郎や桃井春蔵とも撓を交えた押見光蔵、幕臣で彰義隊頭取の伴門右衛門、仙台藩角田伝柳剛流の祖であり伊達家筆頭の家柄である石川家の剣術師範となった一條左馬輔、後に無刀流を開いた剣聖・山岡鉄舟などなど、数多くの武士階級の者がその業を学び、稽古に汗を流していたこともまた事実である。

 このように江戸時代の日本では、ある意味で封建体制が社会の隅々まで行きわたっていながら、一方で身分階層の間を自在に行き交うことのできる「ある種の方便」がいくつもあり、そのひとつが剣術をはじめとした「武芸」であった。

 武州葛飾郡惣新田の裕福な農家に生まれた岡田惣右衛門が、18歳で青雲の志を胸に江戸へ向かい、さらに諸国での武者修行を経て柳剛流を号し、以来、武士から百姓・町人まで、身分を問わずに門弟数千を数えたというのは、まさに江戸期における身分制度の流動性と、そのダイナミズムを象徴しているといっても過言ではないだろう。



 そして平成の今、我々は日本国憲法のもとで、出自や職業、資産の有無に関わらず、国民として平等の権利と義務を有しており、身分制度は絶えて久しい。

 にも関わらず、必要以上にことさら「武士」や「侍」、「武士道」といったものを強調して主張する人たちが、武術・武道の世界にも少なくない。

 私は新渡戸稲造師の名著『武士道』を座右の書とし、己を律するための大切な指針のひとつにしているけれど、一方で「武士道」と言う言葉そのものは、あまり日常では使いたくないし、なるべく使わないように心がけている。

 なぜなら現代の日本においては、あまりにも新渡戸師が喝破し再構築した「武士道」という言葉の本質が汚され、誤解され、ある種の思想的に偏った人々に都合のよい形で消費されているように思えてならないからだ。

 思うに、ことさら侍を自称したり、武家の文化や伝承を売りモノにせずとも、人として真面目に、正直に、慎ましく、嘘をつかず、誇りを持ち、他者に優しく、節義を重んじて生きていれば、その人は出自や家系、職業や資産、社会的な名声の有無などに関わりなく、日本の伝統的な風土と文化が育んできた理想の人間像としての、「武徳の士」だと言えるのではないだろうか?



 翻って自省すれば、こんな一文を書いている私自身もまた、矛盾を抱えたまま日々を生きる、ひとりの弱い人間に過ぎない。

 だからこそ柳剛流をはじめとした武芸の鍛錬を通じて、あるべき人間の理想像である「武徳の士」を目指したいと、心密かに願っているのだ。


     ~ しき嶋のやまとごゝろを人とはゞ
                      朝日にゝほふ山ざくら花~


 (了)
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