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彰義隊と柳剛流/(柳剛流)

2017年 10月12日 11:12 (木)

 小説『大菩薩峠』の作者として有名な中里介山の著書に、『日本武術神妙記』がある。

 これは古今の典籍から、日本の剣豪や武術家のエピソードを取りまとめたもので、「昭和の剣豪小説家たちのバイブルとなった名著」(角川ソフィア文庫 裏表紙の惹句より)だそうな。

 残念なことに、本書では柳剛流に関する記述はないのだけれど、流祖・岡田惣右衛門や二代・一條左馬輔、江戸府内における柳剛流の大家・岡田十内、武州系柳剛流の最大師範家であった岡安英斎、地元角田はもとより岡田十内の元でも腕を磨いた仙台藩角田伝4代・泉冨次など、歴代の柳剛流大師範たちと同じ時代を生きた剣客の事跡の数々はたいへんに興味深い。

 そんな逸話のひとつに、次のようなものがある。

彰義隊と薩兵

 明治戊辰の頃彰義隊の武士が十二三名、薩摩の兵十五六名と街上に出会って、互いに剣を抜いて闘ったが暫くして彰義隊の方が三人まで薩兵の為に斬られてしまった。
 この彰義隊は何れも錚々たる剣術の使い手であったが、まず斯くの如き敗勢に陥ったのを見て隊長はどうも不思議だ、こんな筈はないと改めて自分の隊の姿勢を見直すと何れもいずれも正眼の形を離れて両腕を上にあげていたから、
「小手を下に」と大声で号令をかけて姿勢を直し、改めて太刀を合わせたので忽ちにして薩摩の兵を斬り尽くしたということである。 (剣道極意)




 このエピソードは、柳剛流を修行する者として、たいへんに示唆に富んだものだ。

 柳剛流剣術における「備之伝」や「備十五ヶ条フセギ秘伝」は、構え=術であるという流儀の教えであり、鍛錬法であるが、彰義隊の実戦におけるこの逸話は、「なるほど、備之伝や備十五ヶ条フセギ秘伝の示す術理とは、こういうことなのか!」と、思わず膝を打つものであった。

171012_柳剛流構え
▲柳剛流剣術(打太刀:小佐野淳師 仕太刀:瀬沼健司) 打太刀の晴眼、仕太刀の上段による残心



 ところで幕末の動乱時に上野の山で官軍を相手に気を吐いた彰義隊といえば、柳剛流とたいへんゆかりが深いことはあまり知られていない。

 当時、江戸府内で1200人以上の門人を誇った武州系の柳剛流大家・岡田十内は、「自分の門人は彰義隊側に300人、官軍の側にも200人いる」と述べ、彰義隊と官軍との紛争に大いに心を痛めたという(『雑誌并見聞録』より)。

 十内の述べている通り、彰義隊には幹部クラスから平隊士まで、たいへん多くの柳剛流剣士がいたことが、数多くの史料から明らかになっている。

 たとえばその筆頭は、彰義隊頭取で陸軍調役並。岡田十内門下で親子二代にわたって柳剛流を学んだ伴門五郎。

 幕府遊撃隊肝煎・撃剣教授として、鳥羽伏見の戦いから旧幕府軍に参加。彰義隊と官軍が激突した上野戦争では、最大の激戦地であった黒門の戦いで官軍の兵十六名を斬り伏せ、後の西南戦争では警視庁抜刀隊の一員として再び戦塵にまみえた、柳剛流屈指の実戦派・小川重助。

 彰義隊八番隊長で、その後函館まで転戦し最後まで官軍と戦い続けた寺沢正明。

 頭取で第二黒隊長となった、浅草・宗恩寺住職の織田主膳。

 本営詰組頭・第三白隊副隊長で、函館まで従軍した秋元寅之助。

 第二青隊伍長で、やはり函館まで戦い続けた加藤作太郎。

 第二黒隊副長、第十一番隊副長の本橋伊三郎。

 第一青隊伍長・鈴木蔓太郎。

 小川重助の元で戦い、明治には埼玉県志木市で柳剛流の道場「養気館」を設立、門人600名を誇ったという稲田八郎。

 彰義隊支援部隊に参加した中田範雄。

 安政2(1855)年より岡田十内門下となった、第一黄隊士・石上亥六。

 文久元(1861)年より岡田十内門下となった、第一青隊士・阿武野富太郎。

 文久3(1863)年より岡田十内門下となった、柴山仁太郎。

 岡田十内門下で上野戦争に参加。敗走後も函館まで転戦し、維新後は実業界で成功した永倉秀明。

 十内の弟子とよく間違われるが、正しくは松田源吾門下の柳剛流剣士である、彰義隊十一番隊長の横山(加藤)光造。

 そのほかにも数多くの柳剛流剣士たちが、彰義隊士として上野戦争に参加している。



 これら、彰義隊に参加した柳剛流剣士たちの事跡は、

・柳剛流研究の原典資料である、小林雅助著/明治40(1907)年発行の『雑誌并見聞録』
・彰義隊研究の一次史料である明治44(1911)年発行の『彰義隊戦史』
・彰義隊の生き残りである寺沢正明の回顧録『幕末秘録』
・『戸田市史・通史編上』
・『新修・蕨市史』
・研究誌『彰義隊の主唱者伴門五郎』
・埼玉県・三学院内の頌徳碑『伴門五郎之碑』
・岡田十内の門人帳である『神文帳』
・彰義隊士であった小川興郷の調査による『彰義隊士名簿』

 など、公開されているさまざまな史料に記されており、さらにそれらを網羅した研究成果は、関東近辺の柳剛流研究の第一人者である、辻淳先生のご労作である『戸田剣術古武道史』に、たいへん詳しくまとめられている。

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▲柳剛流と彰義隊との関係を調査する検証史料の原典である『雑誌并見聞録』の翻刻



 彰義隊と柳剛流との関係について、私は身を入れて調査をしたというわけではなく、武州系の柳剛流に関する全般的な調査やフィールドワークの中で、いくつか目にしたという程度だ。

 いずれは彰義隊と柳剛流に関する事跡についても、きちんとした調査に取り組みたいとは思っているのだけれど、何しろ自分自身の柳剛流の実技研鑽と門人への指導、そして糊口をしのぐ売文稼業で手いっぱいであり、事跡研究や歴史的な考証については、どうしても後手に回ってしまうのは、いたしかたがないかと思っている。

 それでも流儀に関する歴史的事実については、できるだけエビデンス(根拠)に基づいた記述や発言を行い、出典や引用先を明らかにし、間違いがあればすみやかに訂正するよう心掛けている。

 なぜなら古流武術において、流儀の伝系や事跡に関する誤りを放置し、あるいは私利私欲のために捏造や詐称を行うようなことは、時には戦いで尊い命を散らした流祖以来の無数の先人方はもとより、今現在、流儀の稽古に汗を流す真面目な門人たち、そしてまだ見ぬ未来の修行者と、過去から現在そして未来に至るまで、その流儀に関わる全ての人に対する、最大の侮辱であり冒涜なのだから。

 (了)
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