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断脚之術小考/(柳剛流)

2017年 08月29日 11:41 (火)

 先日の翠月庵では、柳剛流剣術の基本である「右剣」と「左剣」について、丁寧に稽古をした。

 柳剛流といえば断脚之術、ありていに言えば脚斬りであり、そのエッセンスのすべてが凝縮されているのが、入門者が最初に学ぶ形である「右剣」と「左剣」であり、まさに基本にして極意の形=業である。



 多くの人が、脚斬りというと、たとえば上段や中段の構えから、あるいは帯刀の状態からおもむろに相手の脚を斬ると考えがちであるようだ。

 これは、スポーツチャンバラの試合のイメージの影響などもあるのかもしれない。

 たしかに、反射神経と動体視力にものを言わせて、ちょっとしたフェイントのみでいきなり相手の脚を斬るというのも、禁忌というわけではないが、流祖・岡田惣右衛門が編み出した柳剛流の業は、そのような浅いものではない。

 柔で言うところの崩しの理と同様に、技を施すにあたっての「作り」と「掛け」があり、それがあるからこそ脚斬りが完全に決まるという構造になっている。

 この理を学び、技を体に徹底的にしみこませ、「術」のレベルにまで押し上げるのが、「右剣」と「左剣」の鍛錬である。

 ゆえに柳剛流では、切紙の段階での剣術形は、この2本しかない。

 往時、初学者が学ぶ剣術の形は、このたった2本だけ。加えて居合で下半身の強さと運刀を学び、即効的な護身業として突杖を学ばせ、あとは徹底的に撓を使った撃剣稽古を行ったという。

 「右剣」と「左剣」は、基本でありまた極意である業だけに、非常に繊細な体の使い方を要求されるのだが、一方で、ある程度理合が分かれば、撃剣での激しい打ち合いにもすぐに応用できる、即応性の高い技でもある。

 この点が、理合有優先の形而上的な形との大きな違いと言えるだろう。



 登米伝柳剛流の大師範に、半田卵啼がいる。

 この人の師匠は幕府御家人で、流祖の直弟子であった吉田勝之丞という人であり、江戸・神田と登米を行き来しながら柳剛流を指導していた。

 ある日、江戸から登米を尋ねてきた弟弟子の吉田道四郎という若者と勝之丞が、撃剣で立ち合ったのだが、その激しさは目にもとまらぬ早さであり、稽古後、勝之丞は、「これくらいの立合いは、田舎ではめったに見られぬものだ」と語ったという。

 ちなみにこの吉田勝之丞は、当時、仙台本藩を代表する試合剣術の名手であった桜田敬輔と立合い、まったく寄せ付けなかったという。

 吉田勝之丞と道四郎との、目にも止まらぬ早さの立合いとは、どのようなものであったか?

 詳しい記録は残されていないが、「おそらくこのような業を使ったのではないか?」という見立てが、私にはある。

 そのヒントは、やはり「右剣」と「左剣」にあるのだ。

 この見立てが実際にどのようなものなのかは、実伝のためここでは書かないけれど、先日の翠月庵の稽古では、古流諸派の脚斬りの業との比較も交えて、その辺りの撃剣・試合剣術への応用法についても丁寧に説明・指導した。

 ひとつだけ明言できるのは、柳剛流においては、いきなり何の「作り」も「掛け」もなく、相手の脚に斬りつけるような業は、1つとして無いということである。



 流祖が編み出した「断脚之術」の形と理合を、一分も変えることなく大切に守り、次代に伝えなければならないことは言うまでもない。

 一方で、その形と理合を活きた業、つまり「術」として我がものとしていくことも、我々修行人の重要な使命であろう。

 なぜなら往時、江戸や武州、みちのくにおいて、柳剛流は実戦的な総合武術であると同時に、比類なき「試合剣術」としても名を馳せ、流祖自身、自ら面をつけ撓をとり、撃剣に励みながら、流儀を広めていったのだから。

 こうした点での稽古・鍛錬も、現在の柳剛流修行者が、改めて取り組むべき課題のひとつだといえるだろう。

170829_流祖面その2
▲柳剛流祖・岡田惣右衛門が、撃剣の稽古に用いたと伝えられる面(石川家蔵)


 ■参考文献
 『日本剣道史 第十号 柳剛流研究(その1)』(森田栄)

 (了)
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