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総合武術としての柴真揚流/(古流柔術)

2019年 10月31日 01:13 (木)

 仕事を終えるとすでに日付が変わってしまったので、本日の稽古は軽めに、昨晩に引き続いて柴真揚流を。

 今晩は、これまで学んだ武器術の形のおさらいとする。

 柴真揚流は、当身を多用する極めて特徴的な柔術を表芸として、さらに様々な武器術を擁する総合武術である。

 町川清先生から小佐野淳先生へ伝えられた、国際水月塾武術協会伝の柴真揚流では、柔術に加えて小太刀居合、棒、剣術などが伝承されている。



 まずは、小太刀居合である「素抜」の形を3本、繰り返し抜く。

 次いで棒の形を3手。

 そして剣術の形を3本。

 それぞれ、仕方と打方の動きを確認しつつ繰り返す。

 いずれも専科としての居合や棒術、剣術の業に比べると、たいへん素朴でシンプルなものだが、それだけに質実剛健で味わい深い、趣のある形となっている。

 翠月庵では、柔術早業と併せてこれら諸術の業もしっかりと磨き、伝承していこうと思う。

1901_柴真揚流棒の型
▲柴真揚柔術 棒の型「返し当」 

 (了)
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柔(やわら)の構え/(古流柔術)

2019年 10月30日 01:59 (水)

 今晩の稽古は、柴真揚流柔術。

 表早業居捕17本と、表早業立合投捨15本をおさらい。

 その上で本日は、柔(やわら)の構えについて思うところあり。

 稽古後、井口松之助 編の『早縄 活法 柔術練習図解 全 一名警視拳法』や吉田千春・磯又右衛門著『天神真楊流柔術極意教授図解』を参照し、構えについての先達の言を確認する。

 柔の「構え」とは、剣術の「構え」とは違った形而上下の意味を持つのだなあと実感。

 その昔、旧師より、

「柔術における『構え』とは、空手や拳法のような彼我相対した際の攻撃や防御のための『身構え』ではなく、業が決まった際の正しい姿勢のことをいう」

 と教わったことを思い出した。

 たとえば、柴真揚流やその親流儀のひとつである天神真楊流における下記の構えは、まさに業を決める際の姿勢なのだなあと、しみじみ実感した次第。

図真の位3
▲天神真楊流における「平ノ一文字」の構え。警視拳法では、「真ノ位ノ其三」としている。柴真揚流においても、この構えによる極めが用いられ、その用い方に重要な口伝がある


 (了)

「色」を読む/(武術・武道)

2019年 10月29日 12:20 (火)

 「目は口ほどにものを言う」、というのは真実だ。

 最近は仕事の領域が変化して、インタビュー取材は月に1~2回しかしていないのだが、30~40代にかけては仕事のほとんどがインタビューという時期もあった。

 このため、27歳で制作会社を退職してフリーランスになって以来、短いものでは5~10分、長いものでは数日間の密着まで、インタビューをした相手の数は、累計で2,000~3,000人くらいになるだろうか。

 多くの場合、30分から1時間程度、マンツーマンで話を聞くわけだが、初対面の人とアイコンタクトをしながら膝突き合わせて一対一で話を聞くというのは、いろんな意味でしんどい。

 しかもその相手は、ある時はラーメン屋の頑固おやじ、またある時は国会議員、盛り場でたむろしている女子高生から終末期医療を受けている末期のがん患者まで、年齢も性別も職業も生き方も環境も様々であった。

 これはまさに、ある種の真剣勝負だ。

 そんなことを20年以上にわたって何千回も繰り返してきたので、また小学校5年生の時から続けている占術修行の一環として、本義ではないのだけれど人相学の勉強をしてきたこともあり、私は仕事でもあるいはプライベートでも、相手の「色」を見ていろいろなことを感じ取り、判断する習慣がついてしまった。

 なお、ここで言う「色」というのは、その人の顔面の造作や表情はもとより、全身のありようや動作、立ち居振る舞い、喋り方や声の質、行動など外形的なすべてを含むものだ。


 たとえば簡単な例をあげると、話し方。

 人は聞かれたくない事、答えたくないことをしゃべる時は、そうでない時と比較すると、話し方が微妙に、しかし明らかに変化する。

 徐々に声が小さくなったり、論旨や構音が少しずつ不明瞭になる。

 あるいは逆に、それまで以上に声が大きくなったり、あえて断定的に話すようになったりする。

 加えて瞬きが多くなり、逆にまったく瞬きをしなくなったりもする。

 こうした相手の「色」のわずかな変化を敏感に捉え、その人の感情や本心を判断し、その後の質問の仕方や話の流れを臨機応変に調整できるのが、優秀な取材記者の条件だ。

 そして、このように相手の「色」を読む際、それが最も顕著に出るのが「目」である。

 喜び、怒り、哀しみ、楽しみ、おもねり、拒絶、見下し、尊敬、愛情、虚偽などなど、人の心や感情は、本当によく「目」に出るものだと経験的に実感している。

 ゆえに伝統的な人相学でも、相手の目を読み取ることを、たいへんに重要視しているのである。

1910_人相2
 


 さて、このような相手の「色」を見る術は、武術・武道でも非常に重要だ。

 たとえば稽古や指導をする際も、相手のしぐさやちょっとした表情の変化、動作の様子から、その人のその時の心の持ちようが分かる。

 おかげで幸か不幸か、稽古場への入場時の挨拶や返事、その声の様子や立ち居振る舞いからはじまり、剣先を交えている瞬間の表情、組太刀の最中の目つき、柔(やわら)を取るときの動作、指導上の説明を聞いている時の態度など、普段の稽古時でも門人や稽古相手の「色」を、無意識に読み取ろうとする習慣がついてしまった。

 このため、

「ああ、今彼は私に注意されて、内心、ちょっとムっとしているな」

 とか、

「今の解説や実技では、納得していないのだなあ」

 とか、

「なんか、仕事かプライベートで嫌なことでもあったのかな」

 とか、

「こいつ、ヤル気だな」

 とか(笑)。

 そういう相手の心の機敏を、ついつい読んでしまうのである。

 ちなみに、こういう「色」は、外国人の稽古者にも明確に現れるので、英語を解さない私のような人間には、たいへんに便利である。

 あるいは、休憩中でのちょっとした世間話や連絡事項を伝えるメールのやり取りなどでも、声、言葉の選び方や使い方、文面の様式や文体・文調、返事や返信のタイミングといったことから、その人の資質や教養、置かれた状況や今の心の状態などが見て取れるわけだ。

 こうした「色を読む」行為=演繹法というのは、自分自身、平素は特段そのようにしようと思っているわけではないのだけれど、もう職業柄、自分の習慣になってしまっているので、それはそれで精神的にくたびれることが少なくない。

 まあ、武術・武道以前に、取材記者そしてニワカ占い師ならではの、困った職業病だと自覚している(苦笑)。

 なお、こうした相手の「色」を読むことについて、女性は先天的にたいへん優れた資質を持っているというのは、ある程度年齢を重ねた男性諸氏であれば、思い当たるふしがいくつもあるだろう。

 げに怖ろしきは、女性の直感である。



 このように、相手の「色を読む」というのは、実は、私のようにインタビューや卜占を通じて鍛錬していなくとも、20年、30年ときちんとした稽古を続けてきた武術・武道人であれば、本人が意識しているかしていないかはさておき、自然に行っていることだ。

 そもそも、素手でも武器でも対人攻防とは、こうした「色」の読み合いであるのだから、まともな武術・武道人であれば、できて当たり前のことなのである。

 一方で、だからこそ熟練した武術・武道人は、自分の内面を相手に悟られないよう、対敵時はもとより、平素から自分の「色を消す」ことを心がける。

 ところが聞いた話では、最近、一部の空手道の形試合や居合の競技などでは、演武の際に自分の「色」を消すどころか、あえて攻撃的な表情や武張った顔、恐ろし気な表情を作って形を打つことが奨められているのだという。

 それによって、より競技での得点が上がるのだとか・・・。

 「色」を消すどころか、あえて「色」を出すというのだから、それはもう少なくとも対人攻防を前提とした「武技」ではあるまい。

 もっとも、攻撃的な表情や動作を強調する一方で、内面は静謐な心持ちを維持し、相手の誤謬を誘いだそうというのなら、それは兵法の心法における、「懸中待」ということになろう。

 しかし、恐ろしげな表情や異様な風体で、競技判定の得点を上げようという人たちには、たぶんそういう意図はないのだろうと思う。

 こうした点で余談ながら、私など若いころは、剣術の地稽古や空手道での素面での組手などでは、意図的に薄い笑顔を常に浮かべるようにして「色」を消しつつ、自分の感情をコントロールし、なおかつ相手の神経を逆なですることで優位に立つよう心がけていたのだが・・・、今思えば我ながら、けっこう嫌なヤツだったなと反省している。

1910_人相



 いずれにしても、人間の感情や想いというのは、本人の想像以上に表情や動作、行動や立ち居振る舞いに現れていることを、武術・武道人はよく自覚した上で、基本的には「色」を消すよう心がけることが重要だ。

 しかし一方で、あまり気持ちを押し殺すのも精神衛生上よろしくないので、いよいよとなったら自分の気持ちに正直に、

「もう、我慢の限界なので、怒りを露わにぶん殴る」

 というのも、人生のひとつの選択ではあろう。

 ま、その結果どうなるのかについては、私は関知しないけどね(笑)。

 (了)

令和元年度 流祖墓参/(柳剛流)

2019年 10月27日 23:56 (日)

 祥月命日は過ぎてしまったが、本日、流祖の生家であるAさん宅を訪ねる。

 流祖の墓前に線香と花を手向け、柳剛流の興隆を祈念した。

1910_柳剛流_墓碑



 墓参後、Aさん宅にてお茶をいただき、しばし歓談。

 近況などを報告する。

 その後、江戸川の堤防沿いをのんびりと歩いて、西関宿の浅間神社へ。

 境内にある、「柳剛流祖岡田先生之碑」を訪ねた。

1910_柳剛流_浅間神社石碑



 帰宅後、自室にて独座観念。

 北埼玉名物のモロコ煮を肴に、流祖のふるさとである幸手の地酒「白目桜」を満たした杯を傾ける。

 さて、また来年の墓参まで、柳剛流祖・岡田惣右衛門の名を汚さぬよう、精進を重ねていこうと思う。

1910_柳剛流_地酒

 (了)

祥月命日の夜に/(柳剛流)

2019年 10月26日 01:00 (土)

 流祖の祥月命日の晩は、仙台藩角田伝柳剛流のすべての形と口伝をおさらいするのが、毎年の恒例だ。

 今晩も、切紙の「右剣」から免許秘伝の長刀(なぎなた)まですべての形を行い、小刀伝から法活まですべての口伝を確認。

 さらに、これは実伝ではなく伝書からの考証・復元だが、殺法の部位の確認と打ち込みも行った。



■仙台藩角田伝 柳剛流兵法
切紙
剣術
備之伝/上段、中段、下段、向青眼、平青眼、斜青眼、中道、右陰、左陰、下陰、八艸、頓保、丸橋、右車、左車
形/右剣、左剣
居合
向一文字、右行、左行、後詰、切上
突杖
ハジキ、ハズシ、右留、左留、抜留

目録
剣術
備十五ヶ條フセギ秘伝
形/飛龍剣、青眼右足刀、青眼左足刀、無心剣、中合剣(刀)、相合剣(刀)
小刀伝
二刀伝
鎗・長刀入伝

免許
長刀秘伝
組打
一人ノ合敵
法活

柳剛流殺活術(伝書からの考証・復元)
殺法(天道、面山、虎一点、二星、剛耳、玉連、雁下、骨当、水月、心中、明星、村雨、松風、右脇、稲妻、玉水、高風市、虎走/仙台藩角田伝)
五ヶ所大当(天見、人中、秘中、水月、気海/武州岡安英斎伝)

 以上




 流祖の逝去から193年。

 これからも、「一〇心(いちまるこころ)」の極意秘伝を胸に、柳剛流の業と心を磨き、それを次代へ伝えることを胸に誓った次第。

1910_柳剛流_起請文

 (了)

令和元年度 柳剛忌/(柳剛流)

2019年 10月25日 10:49 (金)

1711_柳剛流碑


柳剛流祖岡田先生之碑

先生江戸の人。諱、奇良、惣右衛門と称す。
その剣法巍然也。独立変動神の如し。
世に勍敵無く一家を立て法命を柳剛流と曰う。
剛を取って柔を偏廃すべからず也。
誉望に振るへ海内、四方の士争って門を造る。
余の師林右膳はかって先生に従い数年学ぶ。
才芸超倫。善くその統を継ぐ。
余、右膳に従って業を受け故に、その祖恩を感じ石を建て表顕す。
其の美しきか如く。
この資、余の門人智久興時等の力あり。

慶応紀元乙丑夏六月
石渡義行謹記 喜多徳書 





 本日10月25日(旧暦における文政9(1826)年9月24日)は、柳剛流祖・岡田惣右衛門源奇良の祥月命日である。

 没後193年。

 流祖から数えて9代目の柳剛流師範として、この「業」を磨き、貴重な「術」を絶やすことなく、次の世代へ伝えていきたいと思う。

 本日は多忙のため墓参にはいけないが、後日改めて、流祖の墓前に線香を手向けにお邪魔する予定だ。

 (了)

稽古三昧/(武術・武道)

2019年 10月21日 11:34 (月)

 先の週末。

 土曜は翠月庵の定例稽古。

 先日から昼まで降った雨のおかげで、稽古場の地面は水を吸ってかなりぬかるんでいる。

 この状況で手裏剣を打つと、踏み込む足で地面に穴が掘れてしまうので、今回は柔(やわら)と剣術に専念。

 まずは柴真揚流。

 茣蓙を敷いても地面の水気でびしょびしょになってしまうので、座技は省略。

 今回は立合投捨15本を繰り返す。特に雁下の殺は、当て方が雑になりがちなので、注意して指導する。

 さらに、柴真揚流の剣術形3本も稽古した。

 次いで、柳生心眼流。

 表、中極、落までを、Y氏を相手に捕と受を繰り返しながらとる。

 途中、Y氏の重当てが私の胸に思い切り入ってしまい、思わず悶絶。

 いやあ、この技は効くね(苦笑)。

 そして本日のしめは、柳剛流。

 備之伝からはじめ、剣術の「右剣」と「左剣」を丁寧に繰り返した。



 一夜明けて日曜は、水月塾本部にて稽古。

 埼玉支部からは、私とN氏が参加。私は師より、十手術をご指導いただく。

 甲陽水月流の十手術は、右手に十手、左手に棒をもって遣う二丁十手だ。

 その技法は元々、甲斐国陣屋伝捕手術に含まれていたものだということで、たいへんに興味深い。

1910_甲陽水月流_十手術2
▲甲陽水月流十手術



 昼食をはさんで、午前10時から午後3時まで十手の稽古に専念し、中央本線が台風被害で減便のため、いつもよりも早く帰路につく。

 土曜・日曜と、稽古三昧の2日間であった。

 (了)

坂城紀行/(旅)

2019年 10月19日 12:20 (土)

 取材のため、長野県の坂城町を訪ねた。

 台風19号の通過後で、新幹線は大幅に減便だったのだが、幸い当地は大きな被害は受けなったようだ。

 駅で編集者氏と合流し、「鉄の展示館」にて、無鑑査で全日本刀匠会会長の宮入小左衛門行平刀匠に、1時間ほどお話を伺う。

 某雑誌に掲載する原稿執筆のためのインタビューなのだが、今回のテーマに関するお話の興味深さ以上に、宮入刀匠の気負いのない自然体の語り口や柔和なお人柄が、とても印象的であった。

 厳しい鍛錬の末に一芸を極めた人というのは、こういう「柔らかさ」や「優しさ」に至るのだなあと、しみじみ思う。

1910_鉄の展示館
▲「鉄の展示館」所蔵の横山加賀介藤原祐永の脇差。故・高倉健氏旧蔵の一口



 インタビュー後、編集者氏と別れ、私はひとりで坂城の里を散策する。

 名物のおしぼりうどんを食べ(辛いが旨い!)、「坂木宿ふるさと歴史館」をゆっくりと見学した後、坂城神社を参拝。

 拝殿の軒下には、北辰一刀流の奉納額があった。

1910_坂城神社奉納学
▲明治33年の奉納と記されている



 秋らしい爽やかな風を感じつつ坂城の里を1時間ほど歩き、散策のしめに戦国武将・村上義清の供養塔を参詣した。

 村上義清は、あの武田信玄を合戦で2度も破り、後年は上杉家の客将として川中島合戦に4度参戦。

 72歳でこの世を去るまで、徹底的に信玄と戦い続ける。

 この北信の闘将は、私が最も好きな戦国武将なのだ。

 このため彼のふるさとである坂城は、ずいぶん前から一度は訪ねてみたいと思っていたのである。

 それが念願かない、こうして半日、ゆっくりと散策することができた。

1910_村上義清墓所
▲江戸時代初期に建立された、村上義清供養塔



 帰路、新幹線の本数が少ないので、上田駅前の居酒屋で馬刺しを肴に、全宇宙で3番目に旨い日本酒である真澄を飲みながら時間調整。

 なかなか肉厚で旨い馬刺しなのだが、

「やっぱり富士吉田の『新田川』の馬刺しの方が、500万倍くらい旨いなあ・・・」

 と、しみじみ実感しつつ家路についた。

 よい旅であった。

1910_上田
▲午後3時から呑める店があることは、私のようなだらしのない酔っ払いには本当に重要なことである


 (了)

剣術流派と寛文新刀/(身辺雑記)

2019年 10月18日 14:49 (金)

1910_週刊日本刀_21号


 来週10月21日(月曜)発売予定の週刊日本刀第21号にて、「江戸期の剣術興隆と華麗なる寛文新刀 剣術流派と寛文新刀」という原稿を執筆しました。

 よろしければ、ご笑覧ください。
 

 (了)

「向一文字」と「切上」/(柳剛流)

2019年 10月17日 01:05 (木)

 角田と丸森の皆さんの、ご無事と一刻も早い復興を祈りつつ、今夜も柳剛流居合を抜く。

 今の私にできるのは、角田や丸森で大切に育まれてきた、この柳剛流の業を錬りあげ、それを一人でも多くの後進に伝え、伝承を次の時代に繋げてゆくこと。

 ただ、それだけだ。



 総合武術たる柳剛流において、居合は剣術と並んでたいへん重要なものであるが、形は「向一文字」、「右行」、「左行」、「後詰」、「切上」と、わずか5本しかない。

 さらに、この5つの形の理合を突き詰めると、最終的には「向一文字」と「切上」の2つの形=業=術に収れんされる。

 そして、これはたまたまなのだが、拙宅の稽古場で柳剛流居合の稽古用の差料(二尺八寸八分)を遣うと、広さの関係で「右行」や「左行」、「後詰」は抜くことができない。

 このため自宅での稽古では、もっぱら「向一文字」と「切上」の2つの形を、繰り返すこととなる。



 柳剛流の居合は、剣術や長刀(なぎなた)の業に繋がる「鍛錬形」としての意味合いが色濃い。

 このため、三尺前後の長尺刀を用いることで身体を最大限に使うことを要求し、さらに柳剛流の真面目である「跳斬之術」を錬るため、座した状態からの跳び違いを多用する。

 一方で、当然ながらこれらの形には、居合における対敵技法としての理合も、しっかりと含まれている。

 ただし、柳剛流の表芸はあくまでも剣術であるゆえ、居合による対敵技法は極めてシンプルであり、その骨法が「向一文字」と「切上」の2本の形に収れんされているのである。



 ここ1か月ほどは秋の演武会に向けて、居合はもっぱら荒木流を稽古していたこともあり、久々に抜く柳剛流居合は、最初はいささか難儀であった。

 しかし、「向一文字」と「切上」の形を繰り返し抜くことで、次第に心身が柳剛流の感覚を取り戻してくるのが、なんとも心地よい。

 私の武術人生における、ゆるぎない大きな「幹」は、あくまでも仙台藩角田・丸森伝の柳剛流なのだ。

 それを改めて実感した、ひと時であった。


1910_柳剛流_居合_新武館
▲丸森町の新武館にて、柳剛流居合を抜く

 (了)

祈ること/(柳剛流)

2019年 10月14日 14:06 (月)

 台風19号は各地に甚大な被害をもたらし、今も多くの人々が、冠水や土砂被害などで不安な時を過ごしている。

 報道やSNSの情報によれば、仙台藩角田伝柳剛流のふるさとである宮城県角田市や伊具郡丸森町も、阿武隈川の氾濫や記録的な豪雨による土砂崩れなどで、たいへん大きな被害を受けたという。

 この夏の、柳剛流の調査でお世話になった皆さんの安否が気になる。

 しかし、今この段階で私には、遠く離れた武州から、安全をお祈りすることしかできないのがもどかしい。

 こういう時、「私」という一個人とは、なんとも無力なものなのだと実感させられる。

 角田・丸森にお住まいの皆さんのご安全と、一刻も早い復旧・復興を願っております。

 (了)

点茶心指/(武術・武道)

2019年 10月11日 07:30 (金)

「点茶心指」

一フクマイラス

捨テ身ナル聖へ
僧堂ノ行者ヘ
心澄メル比丘尼ヘ
求道ノ居士ヘ
貧シキ道友ヘ
老イタル佳人ヘ
素直ナル若人ヘ
心篤キ娘子ヘ
媚ビザル主ヘ
ツマシキ田舎人ヘ


一フクマイラスナ

金ボコリニハ
エセ宗匠ニハ
青白キ茶坊主ニハ
巧者ブル小茶人ニハ
溺ルル茶数寄ニハ
物見エヌ物狂ヒニハ
高ブル学士ニハ
派手ナル女房ニハ
欲深キ商人ニハ
ヘツラヘル輩ニハ



 「点茶心指」は、権威主義と拝金主義に堕した既成の茶道を厳しく批判した思想家・柳宗悦の、座右の銘であった。

 この一連の警句は、私には武術・武道にも同様に当てはまるように思えてならない。

 「一フクマイラス」を「一手ノ指南ヲ」と、そして「一フクマイラスナ」を「一手ノ指南モ無用」と言い換えればどうだろう?

 茶の湯も武芸も、ともに歴史の中で術から道へ昇華したのであれば、その目指す境涯は同様だ。

 だからこそ、柳の筆鋒は鋭く斯界をえぐる。


「俗な人、欲深い人、卑しい人は、茶人には成りかねる。茶の道は、金や権力から解放されたものでなければならぬ。それゆえ、宗教の場合と変わる所は無い。ただ、茶の道においては、「聖」が「美」という言葉に代わるだけである」(『茶人の資格』より)


 おなじように武術・武道においても、俗な人、欲深い人、卑しい人は、真の武人には成りかねるし、武術・武道は金や権力から解放されたものでなければならぬと、私は強く思う。

 柔(やわら)であれば、この身ひとつ。

 剣術であれば、木太刀一口。

 そしてもうひとつ、人に優しく己に厳しい、清らかな心映え。

 この3つさえあれば、貧しい人も富める者も、老若男女、誰もが稽古を通じて先師・先人方の示した「道」を歩むことが出来る。

 古流武術=伝統武道とは、そのようにあるべきだ。

 秋の夜長、『柳宗悦茶道論集』を味読しながら、そんなふうにしみじみと想った次第。


1811_柳宗悦茶道論


 (了)

先師・先人の言葉に「直に」ふれ、教えを乞う/(柳剛流)

2019年 10月10日 01:23 (木)

 今晩は柳剛流の稽古。

 剣術、そして突杖をおさらい。

 半刻ほど木太刀と杖を振るい、形を錬る。

 稽古を終えて入浴を済ませた後、思うところがあり、柳剛流祖・岡田惣右衛門の高弟で仙台藩角田伝柳剛流の祖となった、岡田(一條)左馬輔直筆の伝書を味読する。

1910_柳剛流_免許029

1910_柳剛流_免許_2030


 この『柳剛流免許之巻」は、岡田左馬輔が嘉永元(1848)年に、自らの高弟であり自分の後を継いで角田・石川家の剣術師範となった、戸田泰助に授与したものである。

 口承によれば、左馬輔は非常に体格の良い人であったというが、筆跡は意外に細やかだ。

 このほかに左馬輔直筆の伝書としては、

・『目録之巻』(天保9年)
・『剪紙目録』(弘化3年)
・『目録之巻』(弘化4年)
・『柳剛流免許之巻』(弘化5年)

 があり、合わせて5点を私は確認しているが、それらのいずれにおいても、左馬輔の筆跡は細く外連味のない実直な印象だ。



 岡田左馬輔の書いた伝書について、切紙や目録は武州の岡安英斎系や岡田十内系とほぼ同じ文言なのだが(技法の手数等は全く異なる)、「免許之巻」については、まったく他の師範家の柳剛流の伝書では見られない、独自の文言となっている。

 なお左馬輔筆の伝書はもとより、私はすべての柳剛流師範家が記した伝書類や手付等について、それらを単なる歴史的な史料としてではなく、流祖以来の先師・先人方が直接諭してくれる、武芸の「生きた教え」として読むことを心がけている。

 こうした意味で、他に見られない岡田左馬輔特有の「免許之巻」の文言は、武人の教えとしてまことに格調高いものだ。

 まず巻頭において、

「人の剣法を知るは、激発闘争して徒に勝を求むるの技なり。根の神より之を発し、誠を以てして勝を全うするに在ることを知らず」

 と問題提議をした上で、

「術は心に属し、業は四躰に属す。能くその心を尽くせば、則ち四躰言わずして覚ゆ。是に於いて始めて、共に剣を謂るべきのみ」

 と諭す。

 これらの箴言は、21世紀の今、柳剛流を学ぶ我々への幕直端的な問いであり、また厳しい戒めでもある。

 その上で、

「夫れ武は仁義の具、暴を誅し乱を救う。皆民を保つの所以にして、仁義の用に非ざるなし」

 と定義。

「是を以て之を用うるに仁・孝・忠なれば、即ち天下の至宝なり。之を用うるに私怨奸慝(かんとく)なれば、即ち天下の凶器なり」

 と注意を促した上で、

「故に剣法を知り至誠偽り無きの道、以て謹まざるべけん哉」

 と諭すのである。

 これこそが、岡田左馬輔が考え伝えようとした、柳剛流における「武徳」のあるべき姿なのであろう。



 伝書の文言を、「生きた言葉」として味読する。

 そして、流儀の先師・先人の言葉に「直に」ふれ、その教えを乞う。

 これもまた、古流を学ぶことの醍醐味ではなかろうか。

 (了)

柔(やわら)における、当身の打ち込み稽古の重要性/(古流柔術)

2019年 10月09日 01:10 (水)

 月曜夜は県立武道館で空手の月例稽古だったのだが、空手をやっていると無性に柴真揚流や柳生心眼流を稽古したくなるのはどうしたものか・・・(苦笑)。

 というわけで、今晩は柴真揚流の稽古。

 まずは表早業居捕17本、そして同立合投捨15本を、手付けを確認しつつ丁寧におさらい。

 特に「真之位」と「袖車」について、動作に留意しつつ形を繰り返す。

 次いで、形の動きに則って当身台への打ち込み稽古。

 柴真揚流の当身、なかでも拳での当ては、彼我接近した柔(やわら)の間合で効かせるだけに、全身での統一力で拳を打ち込むことが重要となる。

 実際に翠月庵で門人に指導をしていても、多くの場合、柴真揚流の拳での当ては、慣れないうちはなかなか適切に威力が乗らないようである。

 このため当身台への打ち込み、あるいは胴プロテクターへの打ち込みで、十分に「当て具合」を体感しておく必要がある。

 これは、柴真揚流で多用する下段への蹴込についても同様で、実際に稽古で受が胴プロテクターを装着して捕に蹴込を入れさせても、なかなか威力のある当てになっていないことが多いのである。

 なお、これは余談になるが、空手でも巻き藁突きやミット打ち、サンドバッグや砂袋への打ち込みなどの稽古を十分に行わず、形稽古や寸止めまたはライトコンタクトの組手のみしかやっていない人の場合、実際に「効かせる当て」を入れられないことが少なくない。

 やはり、「身の内1~2寸」という当身の真髄は、実際に打ち込む稽古を十分にしてこそのものであろう。

 柔(やわら)にせよ、空手にせよ、それを武技として磨くのであれば、こうした稽古が必須であることは、何度でも強調したいところだ。

 当身の打ち込み稽古の後は、柴真揚流の小太刀居合(素抜)3手、棒の形3手、剣術形3手をおさらい。

 たっぷりと汗をかいて、今晩の稽古を終えた。

 それでは、ひと風呂浴びて休むとしよう。

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▲親指を握り込んだ、柔術特有の拳

 (了)

「左剣」を錬る/(柳剛流)

2019年 10月07日 23:21 (月)

 柳剛流剣術においては、「右剣」の形が柳剛流のあらゆる術技・心法を凝縮した根幹であるのに対し、次に学ぶ「左剣」は、「右剣」の課題を踏まえた上でさらに身体的な負荷を加えた、たいへん難易度の高い形となっている。

 術技としては名前の通り、「左剣」は「右剣」の対称となるものだが、「右剣」よりも跳び斬りの手数が多く、フィジカルな負荷が高いのだ。

 このため少しでも稽古を怠ると、「右剣」であればまだなんとなくできても、「左剣」では粗が出てしまうのである。

 ゆえに、柳剛流剣術の実力を測るのであれば、その者に「左剣」の形の仕太刀を遣わせてみれば一目瞭然ともいえる。

 逆にいえば、柳剛流の師範たるもの「左剣」の仕太刀がきっちりと遣えないようでは、その資格なしと言っても過言ではない。



 「師範」や「指導者」という立場になると、日常の稽古ではどうしても打太刀を執ることが多くなり、仕太刀としての業前が鈍りがちだ。

 しかし、そもそも剣術の勝口というものは、仕太刀の「業」=「術」にあり、その仕太刀がしっかりと遣えるからこそ、打太刀が執れるのである。

 ゆえに、仕太刀がきちんと遣えないようでは、剣術の師範を名乗る資格などあるまい。

 こうした点で、たとえば神道無念流の中山博道師範は、晩年になっても仕太刀を執ることに熱心であったという逸話は、ひとつの参考になるのではなかろうか。



 いずれにしても門人に稽古をつける立場にある者は、それ以外のところでしっかりと仕太刀の業を錬り、その形において仕太刀に求められる「業」=「術」を、確実に遣えるようにしておかなければならない。

 門人を圧倒するだけの高い技量と、人としての心映えの美しさがあってこその、武芸の「師範」であろう。

 日々、そう己の心に言い聞かせながら、自分自身の稽古に励んでいる次第。

1705_松代演武_柳剛流左剣
▲柳剛流剣術「左剣」


無念とて無しと思うな唯ひとつ
心の中に無しと知るべし
(柳剛流武道歌)


 (了)

目釘を打ち換える/(武術・武道)

2019年 10月06日 18:42 (日)

 久しぶりに締め切りに追われていない、穏やかな雨の日曜日。

  斎藤充功著『証言 陸軍中野学校 卒業生たちの追想』を読みつつ、長芋としし唐の素揚げを肴に昼酒。

 十割そばの遅い昼食を済ませてから入浴、そしてしばし午睡。

 ひと眠りした後、差料の手入れをする。

 今月末に行われる松代藩文武学校の秋の演武会では、私は柳剛流突杖に加えて、荒木流抜剣を演武する予定だ。

 このため抜剣(いあい)の演武で用いる、我が愛刀・市原“監獄”長光の目釘を打ち換える。

 新しい目釘を目釘穴の大きさに合わせて、彫刻刀でサイズを微調整しながら交換した。

 最近、鍔鳴りこそしていなかったのだが、ごくごくほんの僅かであるけれど鍔が少し緩いような違和感があったのだが、目釘を打ち換えることで、そのような違和感も解消。

 ギチギチにしっかりと、鍔と柄が締まった。

 武用刀は、こうでなければ。

 これで気持ちも新たに、松代での演武に臨めるというものだ。


 なお余談ながら、いまさら言うまでもなく真剣はもとより稽古用の模造刀でも、鍔鳴りがしているような刀は絶対に稽古や演武で使ってはならない。

 また師範たるものは、そのような危険な武具を門人に使わせてはいけない。

 万が一、鍔鳴りのする刀を稽古や演武で使っている者がいたら、すみやかに使用を止めさせること。

 日本刀を武具として扱う者が、絶対に守らねばならない最低限の嗜みである。

1910_目釘

 (了)

初心に還る/(柳剛流)

2019年 10月04日 00:30 (金)

 夜が明けて午前10時頃締切の原稿があるので、これから4時頃まで仮眠。

 ・・・なのだがその前に、短い時間であるが柳剛流の稽古。

 備之伝、備十五ケ条フセギ秘伝、そして「右剣」の形を遣う。

 最近本当に、この柳剛流で学ぶ最初の形=業=術の奥深さを、しみじみと感じている。

 これは、この春から入門した剣術初心者の門人に対して、「右剣」をいちから指導していることが原因だ。

 全く剣の素養の無い、本当にまっさらな状態の門人へ指導をすることで、私自身がこの形を、あらためて丁寧に見直すことになったのである。

 一つ一つの動作、運足、間積り、拍子、斬撃、跳び違い、脚斬り、極め、そして位と、このたった一つの形に、柳剛流兵法のすべてが内包されているのだ。

 それゆえに古来から柳剛流では、切紙の階梯で最初に学ぶこの「右剣」と、次に学ぶ「左剣」は、非常に大切にされてきた。

 たとえば、紀州藩田丸伝柳剛流の貴重な史料である『日本竹苞雑誌』第一号を読むと、演武の際に他の形は木刀で行われるの対し、「右剣」と「左剣」だけは真剣を遣い、最後に披露されているのが意味深長だ。

1910_柳剛流_日本竹苞雑誌


 柳剛流を学ぶ者は常に、「右剣」の事理に立ち還りながら、丁寧に稽古を積み重ねていかなければならない。

 (了)

顔に出る/(身辺雑記)

2019年 10月03日 10:32 (木)

 卜占の本義は周易なのだが、人相も少々見る三文易者として言わせてもらえば、その人の心映えは必ず「顔つき」に出る。

 特に中高年になると、それが顕著だ。

 これは間違いない。

 嘘つきは顔に出るし、パワハラ・モラハラ野郎(女郎)は顔に出るし、卑怯者は顔に出るし、非人情な奴は顔に出る。

 なお、ちょっと専門的に言えば、ここでいう「顔」というのは、眉や目や口や鼻といった、いわゆる顔面の各パーツだけではなく、形而上下の顔色や雰囲気(気色画相)、その人の顔を含めた身体全体の在り方=存在感を差す。


 ゆえに逆説的に言えば、嘘をついて、弱い者いじめを繰り返し、卑怯なまねをして、人に冷たくしてばかりいると、

 「そういう顔になる」

 ということデス。

 キャリア40年のニセ占い師ながら、これは自信をもって言える。

 そして人間の行った不行跡や不品行といったものは、どんなに隠しても必ず「顔」に出るし、いつかは世間様の知るところとなる。

 これもまた、人類の長い営みから導かれた経験知であり、天地陰陽の道理だ。


「天網恢恢、疎にして而も失わず」(老子道徳経より)


 とは、老子先生はよく分かっていらっしゃった。

 あるいは、


「夫れ剣柔は身を修め心を正すを以て本となす。心正しくば則ち視る物明らか也」(柳剛流殺活免許巻より)


 と、我が柳剛流祖・岡田惣右衛門も、さすがの慧眼である。

 くれぐれも「顔つき」には、ご用心。

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 (おしまい)

『らくちん道への道』の鈴木崩残氏に関する記事について/(手裏剣術)

2019年 10月02日 00:40 (水)

 『らくちん道への道』というブログを読んでいたところ、無冥流投剣術の故・鈴木崩残氏の著作に関する書評が記されていた。

「廃墟のブッダたち―銀河の果ての原始経典 (EOシリーズ)まんだらけ出版部; 2019年改訂版」
https://krakuchin.exblog.jp/239310374/


 この記事の文末に、

「余談で、関西の知人から彼の手裏剣術の師匠のところに著者が習いに来ていた話を聞いたことがある」

 との一文があるのだが、これは事実誤認、あるいは質(たち)の悪いデマである。


 私は、2006年から2015年までの9年間、崩残氏と共に手裏剣術の共同研究と稽古・実践を行ってきた。

 その上で私の知りうる限り、手裏剣術に関して崩残氏が、既存の手裏剣術の流派や会派へ、

「習いに来ていた」(習いに行っていた)

 ということは、私が同氏と出会う以前も以後も、一度も無い。


 手裏剣術の研究のために、崩残氏は古流から現代流派まで、ほぼすべての現存する手裏剣流派や会派に何らかのコンタクトを取り、技術交流や意見交換、共同研究などをしていたのは事実だ。

(こうした手裏剣術への人並外れた熱意ゆえに、彼は意見の相違から他流や他会派とトラブルとなる事が少なくなかった。そして私とも、義絶することになる・・・)

 しかし彼が、特定の手裏剣流儀や会派に入門・入会し、その流儀なり会派の技術を、

「習いに来ていた」

 ということは、皆無である。

 上記の記事の文言では、「関西の知人云々・・・」とあるので、この証言は関西に支部あるいは道場がある手裏剣術の流儀・会派関係者からのものと推測できる。

 たしかに関西に支部のある現代手裏剣術の流派や特定の道場と、崩残氏が一時期接触し、技術交流や意見交換をしていたことは間違いない。

 しかしそれを、

「習いに来ていた」

 とするのは、事実認識として、また言葉としても正確ではない。

 崩残氏としては、これらの流儀・会派との接触は、あくまでも技術交流や意見交換のためのものであったのだと、私は本人から直接聞いている。


 意図してか、そうでないのかは定かでないが、こうしたミスリードは、故人の業績をゆがめることになろう。

 その結果、誤った事実認識が後世に伝わり、ひいてはそれが何らかの権威付けに使われるようなことがあるとすれば、そういう「背乗り」のような行為を最も嫌ったのが鈴木崩残という人物であることを知る旧友として、看過することはできない。

 ゆえに、故人の名誉のためにはっきりと、そのような事実は無かったことを、ここに明言しておく次第である。


 旧手裏剣術伝習所 翠月庵
 庵主・市村翠雨こと
 武術伝習所 翠月庵
 庵主・瀬沼健司 謹識

翠月庵
▲鈴木崩残筆・「翠月庵」の書

 (了)