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夢を斬る/(身辺雑記)

2019年 08月31日 04:02 (土)

 深夜3時過ぎ、嫌な夢で目覚める。

 夢とは厄介なもので、目覚めれば(あるいは時には夢の中でさえも)、それが現実ではないことを理解できるにも関わらず、夢で感じた喜怒哀楽の感情は目覚めた後も、現実の中で感じる喜怒哀楽と同様に心に残る。

 ゆえに、嫌な夢で目覚めた後、それが夢であることを認識しつつも、深い悲しみや嫌悪感などに捉われてしまうことがあるわけだ。



 とりあえず水を一杯飲み、副交感神経を高めて不安やイライラを抑える効果がある巨闋に灸をしてから再び眠る。

 しかし、どうにも夢で感じた「不快」や「悲しみ」の感情が拭い去れず、いっこうに眠れない。

 これはダメだな・・・ということで、ベッドから起きだし稽古着に着替えた。

 邪気は剣気で払うに限る。

 拙宅の稽古場(別名・台所)にて、室内で抜くのにちょうどよい二尺一寸無銘の差料で、しばし荒木流抜剣を抜く。

 「落花」、「千鳥」、「折返」、「岸浪」、「後詰」、「誘引」、「筏流」と、7本の形を小半刻ほど無心で繰り返し抜いていると、先ほどの夢で生じた「負の感情」もいつしか消えてゆく・・・。

 惟神の霊器である日本刀と武芸には、こんな効果もあるということだ。

 さて、ひと風呂あびて、もうひと眠りするとしよう。

1901_荒木流_落花
▲荒木流抜剣 「落花」


 (おしまい)
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紀州藩田丸伝柳剛流4代師範 森島楠平/(柳剛流)

2019年 08月30日 00:05 (金)

 先日ツイッターに、「柳剛流師範森島某の無手勝流」と題し、紀州藩田丸伝柳剛流に関する逸話の書き込みがあり、流儀に関する貴重な聞き書きとして、たいへん興味深く拝読させていただいた。

 こういう見聞が得られるのが、SNSの魅力である。

 しかし、そのエピソードの主役である森島楠平先師について、

「森島某」

 と表記されているのは、他流の方による聞き書きだけに止むを得ないとはいえ、柳剛流の末席を汚す者としては、いささか寂しい気持ちでもある。

 そこで森島先師に関して、以下、簡単にご紹介する次第。

 とはいえ、私は森島先師とは別系統である仙台藩角田伝柳剛流のいち師範にすぎないため、紀州藩田丸伝の柳剛流に関しては事績に明るくないので、その点はご容赦いただきたい。



 紀州藩田丸伝柳剛流4代師範である森島楠平藤原義敬先師は、天保11(1840)年2月16日、度会郡神原村の出身。当地の甲漟家に生まれ、後に田丸の森島家に養子に入る。

 森島先師は、田丸伝柳剛流の大師範であり江戸府内でもその雷名を轟かせ、後には藩の剣術指南役にまで上りつめた名人・橘内蔵介の弟子となって柳剛流を修行、その蘊奥を極めた。

 維新後には田丸町に柳剛流の稽古場を開いたほか、明治23(1890)年には、紀州藩田丸伝の柳剛流を保存発展させることを目的に「日本竹苞館」を設立。

 「単に武道を修養鍛錬する団体ではなく、文武両道による徳義に満ちた日本人の育成を目指した」(『日本竹苞館の特色と活動について』竹川信彦)という日本竹苞館の活動は、明治28(1895)年の大日本武徳会設立まで続いた。

 そして大正9(1920)年12月、森島先師は81歳の生涯を終えられたという。

1908_柳剛流_田丸伝の演武
▲森島先師の門人である、日本竹苞館師範村林長十郎・森田音三郎両先師による、柳剛流剣術の演武(多気町郷土資料館特別企画展『郷土の剣術柳剛流と日本の武道』図録より)



 日本竹苞館の設立に当たり掲げられた高い理念から察するに、森島先師は柳剛流剣術の極秘伝である、「一〇心(いちまるこころ)」を体現された、不世出の大師範であったのだと、私は思う。


「身体ノ剛健活発ノ勇氣孝義心謄力愛情ヲ酒養スルノ術ニシテ、人ヲ害シ人ヲ傷ツケ砲鋒二立テ振刀ノ迂ヲ演スルノ技ニアラザルナリ」(日本竹苞館第一回報告より)



 森島先師が伝えた紀州藩田丸伝柳剛流の道統は、5代村林長十郎先師、6代清水誓一郎先師、そして7代である三村幸夫先生により、今も勢州の地で受け継がれている。



■参考文献
武道学研究22-2『日本竹苞館の特色と活動について』/竹川信彦(1989)
鳥羽商船高等専門学校紀要第12号『柳剛流剣術について』/村林正美(1990)
多気町郷土資料館特別企画展図録『郷土の剣術柳剛流と日本の武道』/村林正美編(2004)

 (了)

空手と柔(やわら)/(武術・武道)

2019年 08月29日 08:33 (木)

 「来年からは暑さ指数に基づいて、危険な場合は稽古を中止にしよう」などとのんきなことを書いていたら、週末の翠月庵の定例稽古後、体調を崩してしまった・・・。

 日曜から数日静養し、ようやく回復したのだが、いやまったく年齢と共に夏の暑さが堪えるようになってしまった。

 なかなか、「無事、これ名馬」とはいかないものだ。

 なんとか体調が戻ってきたので、昨日は夕方から空手の稽古へ。

 その場・移動基本で約1時間、こってりと絞られ、たっぷり汗をかく。

 それにしても、基本稽古で内受けや外受けをしていると、知らず知らずのうちに受け方が柳生心眼流の中勢巌になっていたり、八字立ちで用意の姿勢を取る際に無意識のうちに八点構えになってしまっていたのは、ここだけの話である(爆)。

 なにより、柳生心眼流にしても柴真揚流にしても、柔(やわら)の当身では拳を強く握らないわけで、最近はそれが完全に体に染みついてしまい、空手の正拳突きにおけるしっかりとした握りの拳に、かなりの違和感を感じるようになってしまったのは、まあ仕方がないことであろうか・・・(苦笑)。



 基本稽古の後は、平安とセイエンチンの形稽古。

 ひさびさにセイエンチンの形を打ったが、私は結構好きだ、この形は。

 その昔、「競技の達人」先生の講習会に参加した際、セイエンチンの掛手の際の力の使い方をご指導いただいたことは、いまでも印象深い記憶がある。

 そのコツを使って掛手で相手を引くと、面白いように簡単に相手が崩れたものだ。

 こうした分解の指導などは、フィジカルと護身が主なニーズであろう中高年の空手人にはうけるのではないかと思うのだけれど、そういう指導を熱心にしている伝統派空手道の人やグループの話しを、身近ではあまり聞かない。

 ま、試合組手の「ドーンと突っ込んで、刻みから逆突き!」という世界観も、決してキライではないけどね。



 そんなこんなで、1時間半ほど空手の稽古にいそしんで、心地よい疲労を感じつつ帰宅。

 特に体調不良もないようなので、これで完全に本復だろうか。

 帰宅後、シャワーを浴びて軽く食事をした後、深夜まで3時間ほどインタビューのテープ起こし。

 ベッドに入るも、久々に空手の稽古をたっぷりした反動か、なんだか心眼流や柴真揚流の稽古がしたくてウズウズしてきた(爆)。

 空手の打撃もいいが、柔の当身も楽しいぞ。


1908_柳生心眼流_当身
▲柳生心眼流独特の当身である、重ね当に入る瞬間。松代藩文武学校武道会での演武にて


 (了)

稽古と暑さ指数/(武術・武道)

2019年 08月24日 10:29 (土)

 今日は午後から、翠月庵の定例稽古。

 酷暑対策で、開始時間を1時間遅らせ15時からとし、状況が悪ければ1時間ほどで稽古を打ち切る予定だ。

 とにかく、最近の夏の気象状況は異常かつ危険なので、真夏の炎天下における野外稽古場では、これでもリスクが高いと考えている。

 そういう意味では、高校の野球部とかサッカー部とかの子たちは、本当にすごいなあとオジサンはしみじみ思う。

 この炎天下の真っ昼間に、3時間も4時間も延々と屋外のグラウンドで練習するんだからねえ・・・。



 来年からは、熱中症を予防することを目的として厚労省や環境省が推奨している、暑さ指数(WBGT(湿球黒球温度):Wet Bulb Globe Temperature)に基づいて、温度基準が「危険」となっている場合には(気温/35℃以上 、暑さ指数/31℃以上、熱中症予防運動指針/運動は原則中止)、屋外での定例稽古は中止にしようかと考えている。

 今年も炎天下の稽古後、体調を崩すことが何度かあったので、やむをえまいね。

1908_暑さ指数


 ちなみに、本日の翠月庵の暑さ指数は28℃(気温は32℃)で、運動指針は「厳重警戒」である。
 
 これなら2時間くらいは、稽古できるだろうか?



 今日の稽古予定メニューは、以下の通り。

■全員での稽古
 手裏剣術/基本打ち(3間)
 柳剛流:剣術/備之伝-フセギ秘伝、「右剣」「左剣」
 警視流/「前腰」から「四方」までの復習
■個別稽古
 柳剛流/長刀(S氏)
 警視流/全体のおさらい(A氏)
 柴真揚流/居捕「飛違」、「両羽捕」、「石火」(庵主・Y氏)
 柳生心眼流/素振の組形「落」「切」(庵主・Y氏)

 2時間の稽古では、これでいっぱいいっぱいかな・・・。


 (了)

刀の「命」/(武術・武道)

2019年 08月23日 01:00 (金)

 仕事の関係で、太平洋戦争後の日本刀にまつわる話について調べている。

 終戦直後、米軍による武装解除によって、軍や警察そして民間から、大量の日本刀が「武器」として接収され、その多くがスクラップとされて海中に投棄されたり、海外に持ち去られた。

 その数なんと、300万口とも400万口ともいわれる。

 特に、当時は美術価値が無いとされた、いわゆる昭和刀は、そのほとんどが顧みられることなく廃棄された。

 私の愛刀である市原“監獄”長光は、本鍛錬された日本刀だが昭和10年代の作刀であり、軍刀として用いられたことから、同じ市原長光作の刀の多くが、その当時破棄されたことだろう。

 同様に、現在は武用刀として高い評価を受けている満鉄刀、また靖国刀なども、美術的価値のないものとして多くが破棄されたのだという。

 まことにもって昭和の敗戦は、日本人にとってだけでなく日本刀にとって、つまりは日本文化にとって受難の時代であった。



 過日の角田・丸森における柳剛流の事績調査では、角田伝における柳剛流の大師範家である、佐藤彌一郎先師が居合の稽古に用いていたという差料を拝見することができた。

 刃長3尺1寸超、柄1尺1寸超の長尺刀で、刃紋は直刃、小切先で樋は無く、身幅やや狭く、全体に細身である。

 実際に手に執ってみると、バランスは絶妙で、実に扱いやすい。

 この差料で、先師が柳剛流の居合を遣っていたかと思うと、流儀の末席を汚す者として、しみじみとした感慨に包まれた。

1908_柳剛流_佐藤彌一郎先師居合刀
▲佐藤彌一郎先師が柳剛流居合の稽古に用いた三尺刀


 
 この彌一郎先師の長尺刀は、同家の方々によって大切に守られ、終戦後の「昭和の刀狩り」を潜り抜けてきたからこそ、令和の今も、その貴重な姿を今に伝えている。

 その一方で、冒頭に記したように敗戦直後、全国各地で多くの貴重な刀が占領軍に取り上げられ、破壊され、あるいは持ち去られてしまったというのは、本当に残念で悲しい出来事だ。

 人間の命はせいぜい80年か100年。

 しかし刀の「命」は、大切に受け継いでいけば、数百年にも及ぶ。

 私の監獄長光も、昭和17年の作刀からすでに77年の歳を数えている。

 奇しくも、私の母の生年も、同じ昭和17年であった。

 刀にとっても、人間にとっても、平和こそが最も尊いと思う。

DSC_9285.jpg
▲我が愛刀、監獄長光の茎


 さて今晩は、柳剛流の居合を長光で抜いてから、やすむとしよう。

 (了)

インボイス/(身辺雑記)

2019年 08月22日 15:00 (木)

1908_インボイス


 10月からの消費税増税が迫ってきた。

 それだけで、年間10万円単位の収支マイナスだというのに、加えてこの「インボイス」の導入である。

 うちにもちょうど、昨日、国税庁からインボイスに関する説明資料が届いた。

 インボイス施行の影響で、場合によっては取引先からの発注停止から、最悪、100万円単位の減収もありうるという非常事態となっている。

 これでは本当に、私も含めた全国の中小事業者は「皆殺し」だ。

 一方で日経の記事によれば、純利益1兆円以上のソフトバンクは、法人税を1円も払っていないのだという。

「ソフトバンクG、法人税ナシ 税法の盲点は」
(2019/6/21 日本経済新聞電子版)
 https://www.nikkei.com/article/DGXMZO46385970R20C19A6EA2000/


 日本の税制では、年収数百万円単位の中小事業者からは搾り取るだけ搾り取り、純利益1兆円を超える大企業は税金を1円も払わないでよいのである。

 なるほど、子どもの7人に1人が貧困状態にあり、毎年2万人以上もの人が自ら命を絶つというのも、むべなるかなというところだ。

 まさに、

「地獄は一定すみかぞかし」

 ということか・・・。


 (了)

仙台藩角田伝 柳剛流のふるさとを訪ねる/(柳剛流)

2019年 08月16日 01:20 (金)

 去る8月10日から11日の2日間、師に同道させていただき、宮城県角田市及び伊具郡丸森町にて、仙台藩角田伝柳剛流に関するフィールドワークを行った。

 初日はまず角田市の長泉寺にある「柳剛流開祖岡田先生之碑」を訪ね、さらに同寺境内にある柳剛流4代・泉冨次先師の墓参をした。

 次いで角田市尾山の西圓寺にて、柳剛流免許で旧制角田中学の剣術師範を務めた斎藤龍三郎先師の墓に参り、その後、角田市小坂にある「柳剛流剣術之師 桑原権三郎重利先生之碑」を訪ねた。

 残念ながら、桑原権三郎先師の頌徳碑は、今となっては現地でそれを顧みる人が誰もいないようで、碑は立木の藪に覆われ、碑面はひどく苔むしており、刻まれた文字を判別することができない状態であった。

 石碑に刻まれた文面については、南部修哉氏の著書『増補・改訂 宮城県 角田地方と柳剛流剣術-日本剣道史に残る郷土の足跡-』に翻刻があるので、その内容を知ることはできる。

 しかし、貴重な史跡であるこの頌徳碑が、苔むし放置されている様子が忍びなく、師と共に小1時間ほどかけて碑面を綺麗に洗い清めさせていただいた。

1908_柳剛流_桑原権三郎頌徳碑
▲佐藤一学に柳剛流を学び免許に至った桑原権三郎は、泉冨次とも親交があり、長泉寺の「岡田先生之碑」にも、世話人としてその名が刻まれている、角田における柳剛流の大家のひとりである



 現地調査2日目は、まず角田市枝野の東禅寺にて、柳剛流をはじめ竹内流柔術や八条流馬術を修め、旧制角田中学校の剣術師範も務めた南部豊之助先師の頌徳碑を見学。

 その後、角田における柳剛流師範家として、泉冨次とは別系統(三蘆久馬系)の大師範である、佐藤彌一郎先師の稽古場であった新武館を訪ねてお話を伺う。

 こちらでは貴重な伝書類や門人帳、佐藤彌一郎先師が使っていたという三尺の長剣などを拝見させていただき、さらに明治に建てられた当時の面影を今に伝える、歴史ある新武館内にて柳剛流居合を演武。最後に佐藤彌一郎先師の墓参をさせていただいた。

1908_柳剛流_新武館演武
▲歴史ある柳剛流の稽古場・新武館にて、柳剛流居合「左行」を抜く



 新武館を後に、次は丸森町の大張大蔵・大張川張地区を訪問。

 まず、宮城県における仙台藩角田伝柳剛流最後の伝承者である、佐藤正敏先生宅を訪ね、ご挨拶の後、柳剛流に関するお話を伺う。

 次いで正敏先生にご同道をいただき、かつて柳剛流の伝承者として雑誌『剣道日本』の表紙を飾った佐藤健七先生のご生家にて、健七先生やその実父で柳剛流の師でもあった佐藤金三郎先師に関する貴重なお話を伺うとともに、伝書類や差料など、たいへん興味深い史料の数々を拝見。

 その後、先師方の墓参をさせていただいた。

1908_柳剛流_佐藤金三郎先師免許
▲佐藤金三郎先師が泉冨次先師から受けた柳剛流剣術免許巻



 また、丸森町の大張大蔵・大張川張地区(旧大張村)は、柳剛流師範の頌徳碑が6基も点在する、まさに「柳剛流の里」である。

 佐藤健七先生のご生家を辞した後、それらの頌徳碑をひとつずつ巡り、この山深い丸森の地で柳剛流の稽古に生涯をかけた、先師方の業績に思いを馳せた。

1908_柳剛流_佐藤右膳頌徳碑
▲「春風軒」と号した、柳剛流師範・佐藤右膳先師の頌徳碑



 今回の調査では、何しろ私は初めての角田・丸森訪問だったこともあり、調査以前に、私たちが伝承し日々稽古をしている仙台藩角田伝柳剛流のふるさとである角田・丸森という地域の風土や雰囲気、人情をできるだけ感じたいと考えていた。

 角田では、阿武隈川の悠々たる流れと、どこまでも広がる水田の美しい風景がたいへんに印象的であった。

 一方で丸森については、その山深さに驚いたが、日本の原風景のような山村風景に、不思議な懐かしさを感じることもできた。

 柳剛流の事績関連では、佐藤金三郎・佐藤彌一郎両先師ゆかりの柳剛流の各種伝書や門人帳、実際に使用されていた差料などを見聞することができ、泉冨次系統と三蘆久馬系統という、角田・丸森における柳剛流の二大系統について、それぞれの異なる伝承を間近に感じることができた。

 また、宮城における柳剛流剣術最後の伝承者である佐藤正敏先生から、貴重なお話を直接じっくりと聞かせていただくことができたのは、流儀の事績研究以上に、柳剛流という武術の実践者のひとりとして、何事にも代えがたい経験となった。

 なお、今回調査した史料や口承に関する個別の考察等については、公開できる範囲で、おいおい本ブログに書いていけたらと思う。



 2日間の旅の終わりに、再び長泉寺の「柳剛流開祖岡田先生之碑」を訪ねた。

 武州葛飾郡惣新田で生まれた流祖・岡田惣右衛門が編み出した柳剛流が、岡田(一條)左馬輔によって陸前の角田・丸森にもたらされ、この地で柳剛流は多いに栄えた。その業と心を、令和の時代の今、流祖生誕の地である武州に暮らす自分が学び、少ないながらも門人を育成して次代に繋げようと志している。

 今回の旅では、私自身が柳剛流という「大河」の一滴として、今、まさに流れているのだなあと、しみじみ感じることができた次第。

 2日間のフィールドワークでお世話になった角田・丸森の皆様、また事前調査にご協力をいただいた南部修哉様、角田市郷土資料館のS様、そして今回の貴重な旅に私をいざなってくださった、我が柳剛流の師である小佐野淳先生に、心よりお礼申し上げます。

 ありがとうございました。

1908_柳剛流_岡田先生之碑
▲旅の終わり、「柳剛流開祖岡田先生之碑」にて師と共に


 (了)

聖地にて/(柳剛流)

2019年 08月12日 22:02 (月)

1908_柳剛流_新武館にて



 今から126年前の明治26(1893)年に、旧舘矢間村(現在の宮城県伊具郡丸森町舘矢間)に建てられた柳剛流の稽古場・新武館にて、柳剛流居合「切上」を抜く。

 三蘆久馬系柳剛流の4代目として門弟106名を誇った佐藤彌一郎先師が建てたこの稽古場は、昭和53(1978)年発行の雑誌『剣道日本』にて、佐藤健七先生が表紙を飾った際に、柳剛流の居合を抜いた場所でもある。

 このように、柳剛流の歴史上たいへんに貴重な場所にて、未熟ながらも形を遣わせていただけたのは、何事にも代えがたいことであった。



 今回、小佐野淳先生に同道させていただき、仙台藩角田伝柳剛流の聖地である角田市と丸森町にて、2日間にわたり柳剛流に関するフィールドワークを実施。

 たいへん充実した時を過ごすことができた。

 詳細は追々、本ブログにて報告する次第。


 (了)

心正しくば則ち視る物明らか也/(柳剛流)

2019年 08月09日 09:58 (金)

 夫れ剣柔は身を修め心を正すを以て本となす。

 心正しくば則ち視る物明らか也。

 或は此の術を以て輙(たやす)く闘争に及ぶ者有り。

 此れ吾が党の深く戒むる所也。

 当流を修めんと欲する者は、先ず心を正すを以て要と為すべし。

 仮に稽古試合の如きも亦、戦場に向うが如くして、

 必ず忽(ゆるがせ)にするべからず。

  (柳剛流殺活免許巻より)




 武芸の鍛錬を通じて、流祖や先師・先人に思いを致し、心映えの美しい、より良き社会人であるよう我が身を律さねばならない。

 武術・武道人である以前に、人間としてまっとうでなければならぬ。

 日々、柳剛流の「術」を磨き、伝書に記された流祖や先師・先人方の「言葉」を味読するごとに、それをしみじみと思う。

 業を鍛え、術を錬り、身を修め、心を正す。

 その上で一朝事ある時には、一殺多生のために曇りなき清明心をもって、驀直端的に敵心へ透徹すること。

 平時における武芸修行の目的は、畢竟、そこにあるのだろう。

 「心正しくば則ち視る物明らか也」

 今あらためて、本当にそう思う。


1908_柳剛流殺活免許



 (了)

熱中症にご注意/(身辺雑記)

2019年 08月04日 00:42 (日)

 7月中旬から8月中旬までの1カ月間は、例年、年末年始と並んで、フリーの記者が最も仕事が忙しい時期だ。

 おかげでここ数週間、連日12時間以上デスクについて、ひたすら原稿書きや校正、編集作業に追われている。

 我々、零細な自営業者には、ボーナスも、お盆休みも、社会保険も、厚生年金も、有給休暇も、なにも無い。

 この、理不尽な格差社会を生き抜くために、ひたすら働くのみである。

 おかげで、先週あたりから急激に気温が上がってきたにも関わらず、エアコンに当たりっぱなしでデスクに座って仕事をしているので、体が暑さにまったく順応しておらず、睡眠時間も不足がちだ。

 その上で・・・。

 昨日の翠月庵は、気温36.5度、湿度61%、南南東の風で風速は2m。

 野天の稽古場なので、直射日光を遮るものは何一つない。

 これは、気温・湿度・輻射(放射)熱・気流を総合的に考慮した「暑さ指数」(WBGT:湿球黒球温度)で、「危険」とされる状態であり、「運動は原則中止」とされている。

 そんな中で、定例稽古を開始。

 柳剛流や警視流立居合を指導していると、胃と気道に猛烈な違和感を感じ、しだいに頭痛と倦怠感がひどくなってきた・・・。

 熱中症の自覚症状である。

 10年ほど前、私は稽古中に、中等度の熱中症で熱痙攣を起こし、あやうく死にかけたことがあるので、この手の症状には敏感なのだ。

 自宅に戻り、冷たいシャワーを浴びてエアコンを最強にした部屋のベッドで横になりながら、首や腋下、足の付け根を冷やしてしばらく休むと、ようやく頭痛と倦怠感が軽くなってきた。

 なんとか、事なきを得たようである。



 それにしても、このような「災害級の猛暑」が毎年襲来するとなると、この時期の稽古体制を見直さなければなるまいね。

 とはいえ私にできるのは、計画的な暑熱順化トレーニング、経口補水液の補給、あとは凍らせたタオルを用意して頸部を冷やすくらいしか、対策が思いつかないが・・・。

 とりえず猛暑が続く当面の間は、定例稽古での稽古時間を短縮し、15~17時の2時間としよう。

 通常、翠月庵の定例稽古は毎週土曜14~17時までの3時間で、それでも指導すべき内容が多くて、3時間では時間が足りないのだけれど、なにしろこの猛暑ではやむを得まい。

 昔から、「無事、これ名馬」という。

 健康あっての武術修行である。

 熱中症を、甘くみちゃあいけません。

 (了)

ハワイに柳剛流を伝えた、古山伴右衛門の伝系が判明!/(柳剛流)

2019年 08月03日 00:03 (土)

 柳剛流剣術師範であった古山伴右衛門(1857~1924)は、大正5(1916)年にハワイの日本人移民に対する剣道指南役として宮城県庁から派遣され、ハワイ島で400人におよぶ日系移民を指導をした。

 古山伴右衛門については、2018年4月10日に本ブログにて、

「柳剛流、海を渡る ― ハワイの柳剛流剣術師範・古山伴右衛門」
https://saitamagyoda.blog.fc2.com/blog-entry-1336.html

 という簡単な記事をまとめた。

 その記事において私は、少ない史料から、

================================================
 古山伴右衛門の出身である刈田郡白石は、同じ仙南の伊具郡角田に隣接しており、伴右衛門が12歳のときには仙台藩の分割によって、白石も角田も共に白石藩(県)となっている。

 こうしたことから想像の翼を広げると、古山伴右衛門が学んだのは仙台藩に伝わった柳剛流の中でも、仙北で興隆した登米伝ではなく、伊達家筆頭家老である石川家に伝わり成教書院(石川家の師弟を教育する文武学校)で代々稽古されてきた、岡田(一條)左馬輔直系である仙南の角田伝柳剛流だったのではないだろうか?

 だとすれば、この時期であればおそらく、泉冨次師範やその高弟たちの薫陶を受けた可能性が高い。
================================================

 と推測した。



 金田一耕助は、さんざん人が死んだ後になって、犯人を明らかにする決定的な証拠がとっくに示されていたことに気づき、

 「しまったあ!」

 などといって頭をかきむしるわけだが、昨晩の私が、まさにそんな状態であった・・・。

 今年の春、パソコンのハードディスクが突然全損してしまい、これまで集めてきた柳剛流に関する画像や資料の多くを消失してしまった。

 しかし、一部の画像資料は、本ブログにアップしてあったため、それらを確認しようとFC2のクラウド上のアルバムをつらつらとみていると、2017年12月に武術家で伝書収集もしている知人のKさんから見せていただいた柳剛流の切紙と目録の画像があった。

 これ幸いと、改めてダウンロードしてみると、その目録は明治38(1905)年に古山伴右衛門が笹谷源四郎に出したものだったのである!

(名前の表記について、古山伴右衛門は、『半右衛門』とも表記する。伝書の記載は半右衛門である)

 私が本ブログで古山伴右衛門について書いたのは2018年の4月10日だが、Kさんからこの目録を拝見させていただきその内容を本ブログにまとめたのは2017年の12月25日。古山伴右衛門について記事を書く3か月ほど前である。

 これはまったく、うかつであった・・・。



 さて、古山伴右衛門がハワイに渡ったのは大正5(1916)年なので、この目録が記されたのは渡米の11年前となる。

 そして、巻末の伝系を見ると、古山の師は「日下●(重?)司」となっており、日下の師は今井亀太郎、そして亀太郎の師は当然ながら、今井右膳である!

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▲古山伴右衛門は、今井右膳系の柳剛流剣士であった



 今井右膳(林右膳と同一人物)といえば、柳剛流祖・岡田惣右衛門の直弟子であり、江戸府内の内神田白壁町(現在の東京都千代田区神田紺屋町付近)で稽古場を開き、数多くの門人を輩出した、柳剛流第二世代の師範中でも筆頭に数えられる大師範家である。

 今井右膳の弟子には、幕末の江戸を代表する柳剛流師範家である岡田十内や、柳剛流と天神真楊流を合わせた新流派である中山柳剛流を開いた中山幾之進の父・中山多七郎などがいる。

 今井亀太郎は、その右膳の後嗣であり、柳剛流今井派の二代目として、江戸府内から武州、上総までも足跡を残し、父と同様に数多くの門人を育てた。

 その今井亀太郎の弟子である「日下●(重?)司」が、古山伴右衛門の師であった。

 つまり古山伴右衛門の柳剛流は、(幼少期に地元で、ある程度角田伝を稽古していたとしても)、その伝系は過去記事で私が推測した仙台藩角田伝ではなく、江戸の大師範家である今井右膳系の柳剛流だということが、この伝書の存在によって明らかになったのである。

 私が古山伴右衛門の柳剛流を「仙台藩角田伝ではないか?」と推測したのは、彼の出生地が角田に隣接した刈田郡白石だったからなのだが、本人が記した伝書に記載されている伝系という「動かぬ証拠」によって、その推測の誤りが正されたというわけだ。

古山伴衛門
▲『図説ハワイ日本人史』に掲載されている、古山伴右衛門の写真と履歴



 それにしても、謎に関する動かぬ証拠が、はなから自分の手元にあったとは・・・。

 頭の中で、すでにあった史料の伝書と、古山伴右衛門の存在という両者が、つながっていなかったのである。

 これでは金田一さんの、「殺人防御率」の高さを笑えませんな。


※殺人防御率とは、「探偵が事件に関与してから解決するまでにおきた殺人件数を、作品数で割ったもの」(『本の雑誌』より) 。ちなみにエラリー・クイーンの防御率0.7に対して、金田一耕助の防御率は4.2と実に高い(苦笑)。映画『金田一耕助の冒険』では、「もうあと4~5人は死にそう」「どこまで殺人が行われるか見守りたい」などと、自らの防御率の高さを自嘲ぎみに語っている。


■参考文献
『図説ハワイ日本人史』ビショップ博物館/1985年
ブログ『楽園ハワイ島in2019/柳剛流剣道指南』
(https://blogs.yahoo.co.jp/aiexem/45318911.html)
ブログ『楽園ハワイ島in2019/柳剛流 剣道師範 「古山半右衛門」さん-100年前の足跡を求めて-』
(https://blogs.yahoo.co.jp/aiexem/48253118.html)
『幸手剣術古武道史』辻淳/剣術流派調査研究会
『戸田剣術古武道史』辻淳/剣術流派調査研究会
『柳剛流剣術古武道史 千葉・東金編』辻淳/剣術流派調査研究会
『金田一耕助』Wikipediaより


 (了)

使命/(柳剛流)

2019年 08月02日 02:33 (金)

 深夜。

 日付が変わった頃にようやく本日の業務を終え、稽古着に着替えて木太刀を手に執る。

 今晩は、手控えを丁寧に確認しながら、柳剛流剣術のおさらい。

 当然のことながら柳剛流については、基礎である剣術の「右剣」「左剣」から、居合、突杖、免許秘伝の長刀(なぎなた)、あるいは殺活の名称や位置に至るまで、すべての形=業=術の動作や理合、拍子や間積り、位取りについて、改めて頭で考えるまでもなく体で覚えている。

 それでも時に、手控えを見直しながら形を確認することは、とても大切なことだ。

 形の動作や理合を徹底的に体に覚え込ませた上で、改めて手控えを見直しながら木太刀や長刀を執ると、思わぬ気づきが得られることも少なくない。

 流祖・岡田惣右衛門が編み出し、先師・先人方が受け継いできた形=業=術という貴重な遺産を、己の心身を通して次代に繋げてゆく。

 このような「使命」を担えることに、大きな誇りと責任感を感じる。


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▲ハワイで柳剛流を指導した、古山伴右衛門が、渡米前の明治38年に記した柳剛流目録

 (了)