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武技として/(柳剛流)

2019年 07月30日 01:12 (火)

 本日も深夜、柳剛流の稽古。

 無心で柳剛流の剣を振るい、杖を突き、長刀(なぎなた)を遣うことで、迷いが払われ心も軽くなる。

 これもまた、武芸の功徳というものだ。



 倦まず弛まず、日々、稽古を重ねること。

 それによってのみ、流祖・岡田惣右衛門が編み出し後世に伝えた柳剛流の形=業=術を、「単なる手順」ではなく「活きた武技」とすることができる。

 現代社会では、実際に剣を振るうことなどは生涯ないだろうけれど、それでも武芸の業は見世物や踊り、あるいは己の承認欲求を満たすための玩具(おもちゃ)ではない。

 あくまでも、彼我の死命を制する「武技」でなければならない。

 稽古においては、この点を見失ってはならないのだと、しみじみ思う。

1805_柳剛流_相合剣
▲倒した相手の顔面に止めの斬撃を加える、柳剛流剣術「相合剣」


 (了)
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『享保名物帳』/(身辺雑記)

2019年 07月25日 01:15 (木)

1907_週刊日本刀8号



 浅学非才の身で恐縮ですが、今週発売の『週刊日本刀 8号』(ディアゴスティーニ)と、来週発売予定の『同 9号』で前後2回にわたり、江戸時代に編纂された刀剣目録である『享保名物帳』について、本文を執筆させていただきました。

 よろしければぜひ、御笑覧ください。


 (おしまい)

八つの組太刀/(柳剛流)

2019年 07月24日 00:16 (水)

 今晩は、柳剛流の長木刀を思い切り振るって稽古したいと思い、業務の合間をぬって夜半、拙宅前の屋外で稽古。

 「右剣」から「相合剣」まで、柳剛流剣術の組太刀8本を、存分に振るう。



 柳剛流は、剣術を表芸とした上で、居合、突杖(杖術)、長刀(なぎなた)、さらに殺活術や柔(やわら)も含んだ総合武術である。

 しかし、剣術としての形は、わずか八つしかない。

 これは、近年になって伝承する形の数が減ったというものではなく、幕末の頃からすでに、柳剛流では多くの場合、剣術の組太刀数は8本であった。

 私たちが伝承している仙台藩角田伝はもとより、武州系諸派(岡安系・深井系・その他)や、岡田十内系に代表される江戸府内で興隆した柳剛流についても、当時の伝書をひもとくと、流祖から数えて3世代目に当たる柳剛流師範家では多くの場合、剣術の組太刀数は、いずれも上記の8本のみというのがほとんどである。

 一方で紀州藩田丸伝の柳剛流は、角田伝や武州・江戸系の諸派と比較すると、当時から現在まで、剣術の組太刀数は若干多い伝承となっている。

 いずれにしても、私たちの直系の先師に当たる、角田伝や岡田十内伝の師範方や先人たちはみな(※)、このわずか8本の組太刀を錬りに練り、その上で撃剣の稽古を重ね、世に名高い「断脚之太刀」を磨いたのだ。


 
 真夏の夜、湿った夜風を断ち切るように長木刀を振るい、流祖・岡田惣右衛門をはじめ、角田・丸森・江戸の各先師方が育んできた断脚の太刀に、ただひたすら磨きをかけてゆく・・・。

 今の私にとってはこのひと時、柳剛流を稽古し受け継いでいくことが、生きていく上でのかけがえのない喜びだ。


1904_柳剛流_晴眼右足刀
▲跳び違いながら打太刀の脚を斬る、仙台藩角田伝 柳剛流剣術「青眼右足頭」。岡田十内伝では、「青眼右足刀」と表記する


(※)仙台藩角田伝柳剛流の4代師範である泉冨次先師は、故郷の角田で柳剛流の切紙を得た後江戸に出て、当時すでに柳剛流の大師範家として知られていた岡田十内の元で修行し目録を受領。その後、角田に帰郷してすぐに柳剛流免許を得た。このため現在、仙台藩角田伝柳剛流を修行する私たちには、角田・丸森で育まれた柳剛流はもとより、江戸・岡田十内の系統である柳剛流の「遺伝子」も、たしかに受け継がれているのである。



 夫れ武は仁義の具、暴を誅し乱を救う。
 皆民を保つの所以にして、仁義の用に非ざるなし。
 是を以て之を用うるに仁・孝・忠なれば、即ち天下の至宝なり。
 之を用うるに私怨奸慝(かんとく)なれば、即ち天下の凶器なり。
 故に剣法を知り至誠偽り無きの道、以て謹まざるべけん哉。
                 (「柳剛流免許之巻」より)



 (了)

柴真揚流の蹴当てと三日月蹴り/(古流柔術)

2019年 07月23日 01:00 (火)

 空手道の蹴り技に「三日月蹴り」というのがある。

 これについて伝統派空手道では、

「三日月蹴りは、回し蹴りに似ているが、異なる点は膝関節の伸展ではなく、立っていた位置から目標に向かってスムーズな半円つまり三日月型となるように足をふり上げる」(『図解コーチ 空手道』(道原伸司著/成美堂出版/1997)

 のに対し、フルコンタクト空手では、

「前蹴りと回し蹴りの中間の軌道となる。 (中略)。左足を上げ、相手の右脇腹にある肝臓に親指の付け根の中足を当てる。右足で蹴って脾臓などを狙う場合もあるが、基本的に相手の肝臓を狙う技であるため、左足で蹴ることが多い。」(ウィキペディアより)

 とされており、名前は同じだが実際には、それぞれ異なる業である・・・、というのは、5年ほど前に本ブログに書いた。

「三日月蹴り、いろいろ」(2014.5.15)
https://saitamagyoda.blog.fc2.com/blog-entry-572.html



 明日は午前中から特定健診の受診があるので、健診の開始10時間前からは飲食ができないことから、仕事は山積みなのだが、少し早いけれど本日は23時過ぎで業務を終了。

 軽めに稽古をしてから寝ようと思い、柴真揚流の立合投捨の形を1本目の「馬手捕」から15本目の「三人捕」までざっとおさらいする。

 稽古のシメに、当身台への打ち込み稽古していると、はたと思うところあり。

 柴真揚流には、立合投捨にも居捕の形にも、釣鐘の殺への蹴当てがいくつかあるのだが、そのうちのある形における蹴当てが、まさに伝統派空手でいうところに三日月蹴りと同じ要領なのではあるまいか・・・?

 そこで、形の想定する位置から、当身台に対して三日月蹴りの要領で蹴足を入れると、それまで思うように威力が乗らなかったその形の想定での蹴当てが、しっかりと威力のある当身として蹴り込めるようになった。

 なるほど! 三日月蹴りとは、こういう状況で使うものなのだなあと、改めて蒙を開かれ、目からウロコがポロポロと5~6枚落ちた次第である。

 柴真揚流の当身は、深い。


140516_154624.jpg
▲伝統派空手道における三日月蹴り(『図解コーチ 空手道』より)



「三ケ月蹴りとは、特に、横側に居る敵手を蹴り上げる蹴り方を言うのである。例えば、左側に居る敵手を我が右足で蹴り上げる場合に、丁度足先の通る線は三ヶ月型に弧線を描いていくからこの蹴り方を三ヶ月蹴りと言うのである」(糸満盛信著『唐手術の研究』より)


 (了)

参院選、増税対策、柴真揚流伝書、柳剛流の薬方秘伝/(身辺雑記)

2019年 07月22日 09:28 (月)

 参院選が終わった。

 結果として、

 「自公と憲法改正に前向きな日本維新の会の「改憲勢力」では、改憲発議に必要な参院の3分の2(164)を割り込んだ」(時事通信)

 のは、たいへんにめでたいことであり、野党勢力の大きな成果であったといえよう。

 また、私の住まいがある埼玉選挙区では、21年ぶりに共産党の候補者が議席を獲得した。

 共産党の国内政策は、基本的に貧乏人の味方なので、私のような低所得者にとってはありがたいことである。

 さらに、れいわ新選組が比例で2議席を獲得したことも、政権与党に対する一定の打撃になったのではなかろうか。

 一方で、今回の選挙の投票率は、過去2番目の低さの48.8%。

 有権者の半分以上が、投票に行かなったということであり、暗澹とした気分になる。

 またN国のような、異常かつ異様な政党が1議席を得たというのも驚きだ。

 あのキチガイじみた政見放送を見た上で、N国に投票したのであれば、「あんたたちみんな、頭がおかしいヨ」と言われて当然かと思う。

 ま、日本は自由の国なので、誰がどこに投票しようと勝手なんだけどな・・・。



 さて、これでこの秋の消費税増税は確定し、私の年収階層で試算をすると、年間でおよそ10万円の家計負担増となることが決まった。

 私が年間で武術・武道関連に使う経費がざっと30万~50万円程度なので、この消費増税による10万円の負担増は、甚大な経済的打撃である。

 このため、以前も少し書いたけれど、いよいよ私の家計における聖域であった、武術・武道関連の経費削減や増収に取り組まなければならない。

 まことに無念であるが、仕方がない。

 日々の暮らしが安定してこその、武術・武道修行である。

 というわけで、これまで見合わせていた翠月庵における稽古費の値上げや、対外的な活動の縮小(費用の削減等)も検討しなければならなくなった。

 これらについての詳細は、熟慮の上、改めて門人各位に直接お知らせします。

 

 ヤフオクに、柴真揚流の伝書が出品されていた。

 アップされている画像を見ると、伝書というよりむしろ「詳細な手付け」といった内容であり、私たちが稽古・伝承している柴真揚流柔術早業の、立合投捨や居捕について、技法の手順が詳しく記されているものであった。

 当然ながら、「欲しいなあ・・・」と思うのだが、かなりの高額取引になるだろうことが予想できたので、はなから落札はあきらめて傍観していたところ、案の定、最終的に8万円以上の高値で落札されていた。

 この金額になると、とてもではないが私に落札できるものではない。

 どこの誰さんが落札したのかは知らないけれど、もはや全国に数えるほどしかいない柴真揚流の実践者のひとりとしては、せめて内容の翻刻か内容画像の公開はしてほしいなあと思うのだが、多分、コレクションとして死蔵されてしまうのだろうねえ・・・・・・。

 とりあえず、オークションページに公開されていた伝書の内容画像については、1点も漏らさずにすべてを保存しておいたが、かなうことなら全文を読みたいものだ。

 保存しておいた画像から伝書の内容を読む限り、私たちが実際に稽古・伝承している、町川清先生から小佐野淳先生に伝えられた柴真揚流柔術早業と比較すると、形の大筋や業の内容の核(コア)部分はほぼ同じ内容であるが、一部の業の取り口や極め方、当身の施し方などに、若干の違いがあるようである。

 また、例の「千人捕秘法」の薬方についても記載されていて、「なるほどねえ・・・」と思った次第。

 薬方に用いる生薬系は、なんとなく事前に推測が付いたのだけれど、最後に●●●●を加えるとは、思いもよらなかった。

190717_柴真揚流伝書_ヤフオク
▲オークションにかけられていた、柴真揚流の伝書



 ちなみに余談だが、実伝は失伝してしまったものの柳剛流にも、「霊法一寿散」(武州系諸派)や、「毒蒜大秘方扇之秘伝」「一方靈蘓散」(仙台藩角田伝)といった、薬物系の秘伝がある。

 これらについて、仙台藩角田伝の柳剛流に伝わっていた「毒蒜大秘方扇之秘伝」と「一方靈蘓散」については、史料から詳しい薬方を知ることができた。

 しかし、いちおう医療系雑誌の記者として20年近く飯を食ってきた者として言わせてもらえば、

 「いやいや、それはないでしょう・・・・・・」

 といった、極めて非科学的な内容である。

 ま、このあたりが、江戸時代のサイエンスの限界ということかね(苦笑)。



 いずれにしても、「地獄の沙汰も金次第」ということで、資金が無いと自流の貴重な史料も手に入れられず、その内容は歴史の闇に消えてしまうのだなと、しみじみ涙をかみしめ枕を濡らした日曜の夜であった。

 嗚呼、南無八幡大菩薩。


 (了)

警視流、鎌、そして柴真揚流/(武術・武道)

2019年 07月21日 11:26 (日)

 昨日は、翠月庵の定例稽古であった。

 それにしても、気温29.6度、湿度72%、向こう1か月の長雨をたっぷりと吸い込んだ草地の野天稽古場では、立っているだけでミストサウナに入っているようで、意識がもうろうとし、少し体を動かすだけで呼吸が乱れる。

 稽古着に着替えるとすぐに汗が吹き出し、30分もすると絞れるほどの重さとなるので、経口補水液の用意は絶対に欠かせない。

 それでも我々は剣を振るい、柔(やわら)を取る。

 寒天酷暑もまた、武芸修行。

 というか、ま、単に過酷なだけなんだけどな・・・・・・(苦笑)。



 これまでの長雨で、地面が多量の水分を吸ってぬかるんでおり、手裏剣の打剣で激しく踏み込むと地を掘って荒れてしまうため、今回は手裏剣の稽古は中止。

 警視流立居合のおさらいから始める。

 まずは礼法を細かく丁寧に解説・指導し、その上で「前腰」、「無想返し」、「廻り掛け」、「右の敵」、「四方」と、5本を丁寧に繰り返す。

 次いで、受注生産の稽古用の鎌が、半年がかりでようやく手元に届いたので、甲陽水月流の鎌の形を稽古。

 1本目の「富士折」から5本目の「富士留」まで、前半5本をおさらいしつつ、Y氏に仕方を指導する。

 師によればこの鎌の形は、「草刈鎌」と呼ばれる山本無辺流の業がベースになっているという。

 全体的にシンプルだが、なかなかに味わい深い形だ。

1907_鎌
▲受注生産のため、注文から半年がかりでようやく届いた稽古用の鎌



 稽古後半は、柴真揚流の形を取る。

 まずは、居捕の1本目である「左巴」から「右巴」、「左車」、「右車」と、最初の4本を、くんずほぐれつ繰り返しとりながら指導していると、絞れるほど汗を吸った稽古着が、さらに汗で重くなる。

 きつい・・・、フィジカル的に。

 しかし、これもまた、野趣あふれる「屋根なし、床なし、冷暖房なし」の野天道場ならではの鍛錬である。

 巴と車の後は、5本目「両手捕」、6本目「片胸捕」、7本目「両胸捕」について、受と捕を交代しなが何度も繰り返す。

 激しい蹴足、体当たりのごとく打ち込む独特のレバーブローやストマックブロー、突きさすような肘当てなど、徹底的に当身を使って当て殺す柴真揚流の業は、「柔術早業」という呼び名がぴったりであり、その形稽古は伝統派空手道の約束組手のようでもある。

 このあとは柳剛流のおさらいをしたかったのであるが、まことに残念なことに、3時間の定例稽古はここで終了。

 柳剛流は、各自、自主練でしっかりと復習しておいてください。

180825_140416.jpg
▲地面に敷いた茣蓙の上で、くんずほぐれつ柔術(やわら)を取る



 それにしても、まだ本格的な夏はこれからなわけだが・・・、早く秋にならないかねえ。

 真夏の野天稽古は、年々、体に堪えるようになってきた。

 安美錦は、40歳で引退。

 ご苦労様でした。

 私も、もう、この秋で50歳なんだよなあ・・・・・・。

 南無八幡大菩薩。

 
 (了)

明日のために/(身辺雑記)

2019年 07月20日 11:07 (土)

 重要なことなので、もう1度リンクを挙げておこう。






 明日は参議院選挙の投票日。



「選挙に行かなくてもいいとか言ってると、君たちの息子が戦争に行ったりするんだ」(忌野清志郎)



 (おしまい)

ならぬことは、ならぬものです/(身辺雑記)

2019年 07月19日 04:00 (金)

 日付が変わって、ようやく本日の業務終了。

 稽古着に着替え、今晩は柴真揚流の稽古。

 最初は居捕のおさらいだけにしようと思っていたのだが、17本目の「二人捕」まで進むと興が乗ってしまい、続けて「馬手捕」から「三人捕」まで立合投捨全15本、さらに素抜(小太刀居合)3本、剣術3本、棒の形3本と、これまで学んだ全ての形を通してとる。

 そして稽古のしめは、当身台への打ち込み。

 形の動きに則って、拳、足、肘などを、水月や雁下、電光などの殺へ打ち込む。

 ここまででおよそ半刻が過ぎ、今晩の稽古は終了。

 ひと眠りした後も、原稿が山積だ・・・。



 さて、参議院選挙の投票日まで、あと3日。

 とにかく1議席でも自民・公明の議席を減らし、貧しい人や社会的弱者を踏みにじるアベ政権に、手痛い一撃を加えなければならない。

 とは言っても、私のような街の片隅でひっそりと暮らす貧しい流れ武芸者にできることは、自分の1票を投じるのみ。



 こんな暗い時代だからこそ、

 「ならぬことは、ならぬものです」

 という草の根の士魂を、選挙を通して権力者と富裕層に突きつけたいものだ。



 (おしまい)

「業」=「術」あってこそ/(武術・武道)

2019年 07月18日 09:49 (木)

 多忙である。

 旧盆が終わるまでのこれから1カ月間は、年末年始と並んで、ライター稼業が最も忙しくなる時期だ。

 単行本、専門誌、月刊誌、ガイドブック、パンフレット、webの仕事が山積みで、連日12時間近く机に向かい原稿を書き、あるいは取材先を渡り歩いていると、どうしても余裕をもって稽古をする時間がなくなり、気力も萎えがちだ。

 しかし、わずかでも稽古ができればと、深夜、稽古着に着替えて木太刀や手裏剣を手にとり、あるいは当身台に向かう。



 最低限のメニューとして、たとえば、

・柳剛流/備之伝、備十五ヶ条フセギ秘伝
・柳生心眼流/素振の片衣(表、中極、落、切)
・柴真揚流/柔術早業の形(適宜数本)、当身台への打ち込み

 などであれば、15分もあれば、ひと通りの稽古ができる。

 また、手裏剣を打つだけなら、15分などあっという間だ。

 そして、忙しい日々の中で15分の時間を見つけ、気力を振りしぼっていざ稽古を始めれば、結局は体がそれを求めて小半刻(30分)ほどの稽古となることも少なくない。

 翠月庵での定例稽古が門人への指導中心となるだけに、わずかな時間でもこうした「自分のための稽古」を日々積み重ねていかなければ、己自身の業前について、「武技として最低限のレベル」が担保できない。



 古流と言えども、それが対人攻防における武技である以上、見せかけだけの「華法」であってはならない。

 剣術でも柔術(やわら)でも、あくまで制敵可能な「業」=「術」の実力があってこその武術・武芸である。

 どれほど由緒正しく高名であろうと、人目を引き付けるような華美な技を誇ろうと、精緻で高尚な理論を唱えようと、最低限の制敵すらできぬなまくらな「業」では、それはもはや武術や武芸とは言えまい。

 だからこそ「業」を磨くと同時に、たとえ相手が自分よりも強く優れていようとも、本当に死命を決する「時」と「場」であるなら(そのような「時」と「場」は、現代の日常生活では基本的にありえないけれど)、勝てずとも必ず相打ちとなす、「一死一殺」「一殺多生」の気勢・気組を養っておくことが重要だ。

 武技に足る「業」=「術」、そして「一死一殺」「一殺多生」の気勢・気組があればこその、我が国の伝統武道が古来より目指すべき境地とした「神武不殺」であろう。

 日常的な稽古の積み重ねを通して、こうした「心法」を錬ることが、結果として武徳を高め、平時の武人としての人格の陶冶に結び付く。

 それが武道修行の、ひとつの要諦ではないかと、私は思う。

1907_松代演武_無双直伝流
▲北信濃伝 無双直伝流和(復元)「水車」。松代藩文武学校武道会の演武にて



「神はもって来(らい)を知り、知はもって往を蔵(おさ)む。それたれかよくこれに与(あずか)らんや。古(いにしえ)の聡明叡智、神武にして殺さざる者か」(易経 繋辞上伝より)




 (了)

なぜ「跳ぶ」のか?/(柳剛流)

2019年 07月15日 08:00 (月)

 先日の翠月庵での定例稽古。

 柳剛流長刀(なぎなた)を指導していて改めて思ったのが、柳剛流の特徴のひとつである「跳斬之術」、いわゆる「跳び斬り」の重要性だ。

 柳剛流では、剣術だけでなく、居合そして長刀においても、跳び違いながらの斬撃を重視する。

 そこで、稽古を繰り返しながら、

 「どう、跳び違うのか?」

 「いつ、跳び違うのか?」

 「なぜ、跳び違うのか?」

 について、しっかりと考察しなければならぬ。

1710_松代演武_柳剛流長刀
▲柳剛流では剣術や居合はもとより、免許秘伝の長刀においても「跳び斬り」を多用する



 この点に関して私は、伝統派空手道の組手におけるステップワークである、踏みかえでの打撃(いわゆる「スイッチステップ」)から、非常に多くの示唆を得た。

 こうした気づきは、柳剛流における直接的な口伝や伝承ではないけれど、

 「形の動きを、地稽古や試合稽古に活かすには、どうするべきなのか?」

 という課題について、多いに蒙を開かれている次第である。

 

 柳剛流は本来、武州や江戸府内でも、あるいは奥州や西国においても、「試合剣術」としてその名を知られた流儀である。

 だからこそ、定型化・記号化・象徴化された「形」を、いかに地稽古や試合稽古などの自由攻防に活かしていくのかについて、さらに考察と稽古・鍛錬を積み重ねていくべきだと考えている。

1907_柳剛流_流祖の面
▲流祖・岡田惣右衛門が、実際に撃剣の稽古に用いていたと伝えられる面(石川家蔵)



 (了)

柳剛流の真面目~「右剣」と「左剣」/(柳剛流)

2019年 07月12日 11:08 (金)

 思うところがあり、今週はもっぱら柳剛流の稽古に専念。

 特に初学者への指導を念頭に、備之伝と「右剣」「左剣」を丁寧に見直しながら木太刀を振るう。



 柳剛流に入門した者が最初に学ぶ「右剣」と「左剣の2つの形は、流儀の基礎であり至極でもあるだけに、初学者も熟練者も常に稽古をしておくべき柳剛流の真面目(しんめんもく)である。

 それだけに、これら2つの形=業=術の稽古は、我々にとっては普段からあまりにも当たり前で、日常的なものだ。

 しかし、初心の者にこれらを指導していると、改めてこの2つの形の精緻さと多様性、そこで求められる高度で複雑な体の使い方を実感することができ、「右剣」と「左剣」には流祖・岡田惣右衛門が編み出した「業」と「術」の、すべてのエッセンスが含まれていることが分かる。

 ゆえに仙台藩角田伝はもとより、紀州藩田丸伝でも、岡田十内系・岡安系・深井系など武州各派でも、あるいは柳剛流と天神真楊流のハイブリッド流派である中山柳剛流においても、この2つの形を必ず学ぶことになっているわけだ。

 逆に言えば、「右剣」と「左剣」が無いとすれば、それはもはや柳剛流ではない。

 そして、柳剛流の断脚之太刀=脚斬りの術には、なんの「作り」や「掛け」もなく、バカのひとつ覚えのようにやみくもに相手の脚を斬りにいくような粗雑な技は、ひとつとしてない。

 「柳剛流」を名乗っておきながら、「右剣」と「左剣」という2つの形の実伝が無く、剣の理も攻防の理もなしにめったやったらに相手の脚をひっぱたくようなものは、捏造か妄想か創作か、あるいはレベルの低い剽窃なのか・・・、いずれにしても偽物と判断してよいだろう。



 真の柳剛流門下であれば、初学の人も熟練者も、倦まず弛まず、この2つの形を磨き続けなければならない。

 「右剣」と「左剣」の練磨によって、流祖・岡田惣右衛門が到達した剣の事理に、200年の時を越えて肉薄することができる。

 これこそが、柳剛流を学び受け継ぐ者の使命であり、大成への王道であり、修行の醍醐味であるといえるだろう。


1907_柳剛流_右剣012
▲初学者の仕太刀による、柳剛流剣術「右剣」(令和元年7月)


190505_柳剛流_左剣
▲切紙の仕太刀による、柳剛流剣術「左剣」(令和元年5月)


1705_松代演武_柳剛流左剣
▲目録の仕太刀による、柳剛流剣術「左剣」(平成29年5月)


1506_幸手_柳剛流
▲幸手剣友会柳剛流部・持田征男先生の仕太刀による、柳剛流剣術「右剣(右頸)」(平成27年)


1907_柳剛流_佐藤健七先師
▲仙台藩角田伝・佐藤健七先師による、柳剛流剣術「左剣」(昭和53年)/(『剣道日本 続剣脈風土記 陸前柳剛流』より)


1601_田丸伝形演武
▲紀州藩田丸伝・村林長十郎先師の仕太刀による、柳剛流剣術「左剣」(明治23年)/(多気町郷土資料館特別企画展『郷土の剣術柳剛流と日本の武道』より)


 (了)

7月の本部稽古~柳生心眼流、柴真揚流、甲陽水月流/(武術・武道)

2019年 07月08日 10:44 (月)

 昨日は、水月塾本部での稽古。

 埼玉支部からは、私とN氏の2名が参加する。

 まずは師にミットを持っていただき、柳生心眼流の打ち込み稽古。

 柳生心眼流の体動を用いて、円筒ミットに拳足肘を打ち込んでいると、稽古着がみるみる汗まみれになる。

 次いで、柴真揚流。

 師より、立合投捨の「腰附」、「両羽捕」、「小手返」、「捨身」、「杖捌」、「三人捕」を伝授していただく。

 いずれも柴真揚流らしい、当て殺しの形のオンパレードで、実に私好みの業だ(笑)。

 午前後半は、胴プロテクターを装着し、N氏と交代しながら実際に当身を入れて柴真揚流の形をとる。

 当身の中でも特に蹴当ては、実際に当てる稽古をしておかないと、身の内1~2寸へのきちんとした当身を習得することが難しい。

 存分に蹴当て、肘当てを打ち込みながらとる柴真揚流の形は、実に爽快だ。

 翠月庵でも予算を工面して、近いうちに稽古用の防具を揃えたいなと思う。



 午前の稽古の後、稽古場から場所を移して、師より柳生心眼流切紙を伝授していただく。

 50歳を目前にして、少年時代からのあこがれの流派のひとつであった柳生心眼流の切紙をいただけるというのは、実に感慨深いものだ。

 しかしこれに満足せず、さらに精進をして免許皆伝を目指さねばならぬ。

1907_柳生心眼流_伝授式


190708_104724.jpg




 昼食後、午後はカナダ支部の皆さんと共に、水月塾制定日本柔術(甲陽水月流)の稽古。

 5人で相手を変えながら、初伝逆取から中伝逆取まで、30本の形を繰り返しとる。

 二人一組になりながら相手を順次変えつつ柔術形をとるのだが、合計5人のため必ず1人が余るので、この1人は見取り稽古となる。

 そこで、せっかくなのでフィジカル的な鍛錬もしたいと考え、私は元立ちに立って見取りには外れず、ひたすら相手をかえて形を取り続けた。

 しかし、梅雨時の湿度の高さも相まって、まことに体に堪え、己の年齢を実感した次第・・・(苦笑)。



 稽古後は、カナダ支部の方々も交え、師に同道させていただき小宴。

 最高の馬モツと馬刺しを肴に、アルコール度数23度の日本酒をグイグイと飲んだため、また結構フィジカルに堪える稽古の後だったこともあってか、私は久々に泥酔。

 このため、気が付いたらもう自宅で寝ており、宴席後半から電車に乗って家に帰るまでの記憶がほとんど無い。


 ・・・やっちまった。


 師や同門、そしてカナダ支部の皆さんに対して、粗相失礼は無かったと思うのだけれども・・・。

 多分、無かったと思う・・・・・・。

 無かったんじゃないかなあ・・・・・・・・・。

 ・・・・・・・・・・・・。


 しばらく面壁して反省します。


 (了)

初々しい脚斬り/(柳剛流)

2019年 07月06日 22:02 (土)

 本日は、翠月庵の定例稽古。

 ・・・なのだが、行田稽古場がこれまでの長雨で地面がゆるんでしまい使えないので、急遽、拙宅の庭で行う。

 今日の稽古者は、新人のA氏と私の2人だけなので、じっくりとマンツーマンでの指導となった。



 A氏は4月に入門して3か月が過ぎたので、今日、改めて門人帳に記入をしてもらう。

 これで彼も、仙台藩角田伝柳剛流の一門となったわけだ。

 なにはともあれ、倦まず弛まず、一歩ずつ稽古を積み重ねてもらいたいものである。 

 というわけで、まずは柳剛流の稽古。

 素振りで体を温めたあとは備之伝。

 そして剣術の基礎であり、柳剛流のあらゆる「術」の根幹である、「右剣」の形を丁寧に指導する。

 まだまだ至らぬところは多々あるけれど、3か月が過ぎて、なんとなく形(かたち)が柳剛流らしくなってきた(笑)。

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▲入門から3か月が過ぎての、初々しい脚斬り



 稽古後半は、警視流立居合の稽古。

 本来は、柳剛流の居合を指導すべきところなのだが、居合や剣術の経験のない、まったくの初心者には柳剛流居合はいささかハードルが高い。

 そこでA氏にはまず、シンプルな立居合である警視流から学んでもらい、刀の基本的な抜き差しに習熟してから、柳剛流居合に進んでもらおうと思った次第である。

 今回は、警視流独特の礼法、そして1本目「前腰」、2本目「無想返し」、3本目「廻り掛け」を指導。

 あと1万回くらい抜けば、なんとなく形(かたち)になるであろう。

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▲警視流立居合1本目「前腰」



 武芸の業前というのは、一朝一夕でできあがるものではない。

 ましてや今の時代、今日明日、真剣での立合いをするといったご時世でもない。

 だからこそ、ゆっくりで良いので、正しい体の使い方と、剣の「実の道」を感得しつつ、往時の武技を学ぶことを楽しんでほしいと思う。



 さて明日は、7月の本部稽古。

 朝が早いので、さっさと寝よう。


 「師と弟子の心に隔てあるならば
          幾く世経るとも道に入るまじ」(柳剛流 武道歌)



 (了)

柳は緑、花は紅/(身辺雑記)

2019年 07月05日 02:12 (金)

 今晩は柳剛流の稽古。

 備十五ヶ条フセギ秘伝にじっくりと取り組む。

 柳剛流剣術において、切紙で学ぶ「右剣」と「左剣」が初学の門にして流儀の根幹であるのに対し、目録で学ぶ「当流極意柳剛刀」と称される6本の形は、剣術本来の立合はもとより、撃剣にもそのまま使える実践技法群である。

 鏡に向かって木太刀を振るいながら、フセギ秘伝からの勝口をさまざまに考えると、それは結局6本の柳剛刀に行きつき、それらをさらに収斂すると「右剣」と「左剣」になるのだと、しみじみ実感する。

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▲柳剛流剣術において「構え」とは、実効性のある「業」そのものである



 稽古後、長刀袋の底が破れてしまったので、チクチクと繕う。

 これで約2,000円分の節約である。

 白霧島が2本買えるな。

 しかし、最近老眼がひどく、針に糸を通すのが厳しい。

 あと5ヶ月で、私も満50歳・・・・・・。

 歳は取りたくないものである。

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▲長刀袋の底の合皮を縫い合わせていると、気分は『First Blood』!



 たまには気分を変えて、抹茶ではなく凍頂烏龍茶を淹れる。

 半夏生も過ぎ、来週からは下半期の仕事が本格的に動き始める。

 上半期から持ち越しの実用書の校正と執筆が2冊分、大学入試関連の冊子の記事、定期物の温泉旅館のガイドブックの原稿などなど。

 売文稼業はいっこうに儲からないが、やるべき仕事は山積みだ(苦笑)。

 ま、金融庁や厚労省が言うに、なにしろ老後に向けて3,000万貯めなきゃならんからね・・・。

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▲到来物の凍頂烏龍茶を、お気に入りの緑泥の茶壺で飲む



 「敵と見る心そ我遠立てにけり
            柳は緑り花はくれない」(柳剛流 武道歌)



 (了)

着流しでの二本差しについての考察/(武術・武道)

2019年 07月04日 05:07 (木)

 ツイッターで、こんな動画が上がっていた・・・。






 ちょっとこれは、古流の剣術や居合を少々たしなみながら有職故実を学んでいる者として、また普段から和服で生活をしている者としてみても、いささかミスリードが過ぎる動画だと思えるので、以下、反証を試みた。

 まず、結論を先に記すと、

「着流しで二本差しをしても、一般的な大小を正しく帯刀し、きちんとした角帯をしっかりと締めれば、このように帯がゆるんで着崩れ、大刀が縦にズレ落ちてしまうことはない」

 そして、

「江戸期の武士は着流しでも、平素であれば特に問題なく刀・脇差の二刀を帯刀して生活をしていた」

 ということである。



■着装という点からの考察

 私は普段から主に着流しで生活しているが、そもそもこの画像での角帯のしめ方は、いかにもゆるすぎるように見えるのが気になる。

 また、この動画の方が締めている角帯の素材はつまびらかではないが、化繊(ポリ)や正絹の角帯はよくすべる。

 このため帯刀以前に、普通に長着を着ていても、特に化繊の角帯の場合はすべってすぐに着崩れてしまう。ましてやそこに重い両刀を手挟めば、帯は容易にゆるんでしまうのである。

 正しくは、滑りやすい化繊や絹ではなく、重さがかかるほどしっかりと締まる綿の角帯を用いるのが一番良い。

 そして、下丹田を基準に角帯を前下がり後ろ上がりできっちりと締め、なおかつ帯刀しても緩みにくい「片挟み」等でしっかりと結ぶ。

 こうしておけば、一般的な大刀と脇差を正しく帯びる限り、二里も三里ものっしのっしと速足で歩いたのでもない限り、こんなに帯はゆるまないし、大刀が縦にズレて落ちてしまうこともない。

(ただし、帯に手挟む両刀が極厚の重ねで身幅が鉈のような異常ななりの刀で、脇差と大刀を合わせての重量があまりにも重すぎるような場合は、どんな着装でも帯がゆるんでしまい、刀がズレ落ちてしまうのは言うまでもない・・・・・・)

 さらに、往時の武士であれば帯刀した際、

「腰のかがまざるように腹をはり、くさびをしむるといひて、脇差の鞘に腹をもたせて、帯のくつろがざるやうに、くさびをしむる」(『五輪書』水の巻より)

 ようにしているので、着流しであろうと袴を着けていようと、やはりこの動画のような状態にまで帯が伸びてゆるみ、帯刀した状態が崩れるということはない。

 一方で、この動画のはじめの部分をよく見ると、帯の締め方が緩いだけでなく、大小の刀の帯刀の仕方についても、しっかりと大刀と脇差が左の前腰のあたりで十字に交差するように帯刀していないのが分かる。

 このような差し方では、着流しでも袴を着けていても、閂差しだろうと鶺鴒差しだろうと落差しだろうと、数歩も歩けば、はなから大刀がズレ落ちてしまうだろう。

 つまり、この動画の着装をいささか意地の悪い視点で見ると、

「着流しで両刀を差すと、帯がゆるんで大刀が縦にズレ落ちてしまう」

 という、あらかじめ想定された結論を前提に、

「なるべくそうなるように、帯はゆるく、大小の差し方もズレやすくし、しかも往時の武士が通常手挟んだ大小以上に重たい両刀を差した上で撮影をしている」

 というようにも、捉えられかねない。

 万が一そうだとすれば、それは一般的な意味での「着流しでの二本差し」という歴史的事象を考察するための、公正な論考や検証のための資料となる動画とは成り得ないだろう。



 以上が、かれこれ15年ほど普段から和服で生活をしており、一方で37年ほど剣術や居合、抜刀術などの稽古をしている者の立場から、上記の動画をじっくりと確認した上での考察である。


1907_着流し帯刀
▲普段着の太物の着流しに滑りにくい木綿の角帯を締め、「突袖で雪駄チャラチャラ」という風情で、稽古に使っている刀と脇差の両刀を差してみた。なお、大刀は二尺三寸五分、脇差は一尺五寸である。
(鏡に映った姿の自撮りなので、左右が反転していることに注意)。
 この状態でその場で跳躍したり、(字の)隣町までと同じくらいの距離を歩いても、帯はそれほどゆるまないし、大刀も縦にはズレ落ちない。
 ただし、走ったり激しく動きまわり続けたりといった特殊な状況では、当然、大刀が落差しになったり縦にズレ落ちたりもする。そのような場合、突袖でも手を袂から出していたとしても、左手を大刀の柄頭に軽く添えて大刀がズレ落ちないようにするのは、武術・武道人であれば知っておくべきたしなみである



■有職故実からの考察


 まず、「江戸期の武士が着流しでおる」という状況を考えてみよう。

 そもそも士分の者が着流しでいるということは、町方などの特殊な役儀の場合を除けば、その者は自宅でくつろいでいるか、あるいはお忍びで奥山あたりの盛り場を微行しているなど、私的な時間を過ごしている状態である。

 そのような場合、武士は常寸の脇差ではなく、「平生差(ふだんざし)」と呼ばれる、軽くて短い脇差を帯びていた。

 江戸から明治にかけて生きた根来百人組の与力で、幕府講武所で武芸を学び、後に文学者となった塚原渋柿園(1848-1917)は、往時の武士の脇差には「社裃差(かみしもざし)」と「平生差」の2種があったと記している。

 社裃差はいわゆる武士のフォーマルウエアであり、寸法や拵が公儀等の掟で定められているのに対し、平生差については寸法や拵の様式に決まりはなかったという。

 その上で、江戸後期文久・元治の頃の武士は多くの場合、社裃差にせよ平生差にせよ、

「並みが一尺から一、二寸で、短いのはただの八、九寸」

「講武所以来流行(はや)ったのは柄のごく短い、ほとんど手一束」

 の脇差を差していたと述べ、この時代、武士の脇差が全体的に短く軽いものであったことを証言している。

 それどころか、

「慶應の初年までは短刀を差して居りましたが、それも鍔の附いた脇差では無く、もし鍔を附ければ極めて小さいハミダシという鍔であって、その多くは『千葉作り』と申した短刀の一種の作り、それを腹の方へぴったりと寄せて差しまして、刀の方は緩くグラグラと、鞘手の自由の利くように指して居た」

 と、脇差よりもさらに短く軽い短刀を差し添えにしていたとも述べている。

 つまり江戸後期の武士は、フォーマルな場でない限り、袴をつけた場合でも着流しでも、いずれの場合も脇差は軽くて短いものを差すのが一般的であった。

 そうなると、上記動画のような常寸あるいはそれ以上の長脇差+大刀の二本差しに比べると、同じ二本差しでも帯にかかる重さは相当に軽くなる。

 このため同じ二本差しでも、上記動画のように帯がゆるみ大刀が縦にズレ落ちてしまうことは、少なかったと考えられる。


 実際、江戸後期・幕末の幕臣においては、役儀の際の服装は裃ではなくより略装である羽織袴が一般的となっていたが、町方の与力(同心ではない)は、

「定廻り臨時廻りなどといって市中を巡回するような役についている時は、白衣(びゃくえ)といって着流しの事もある。急ぐ時は羽織のすそを内側に折り込んで、すッすッと雪駄を鳴らして通る(昭和時代まで生きた、最後の南町奉行所与力である原胤昭翁談)」。『戊辰物語』東京日日新聞社会部編)

 というわけで、着流しに二本差しでも特段着崩れたり帯がゆるむこともなく、江戸三男の筆頭として粋を謳われた「八丁堀の旦那衆(町方与力)」は、江戸市中をさっそうと闊歩していたのである。 

 さらに、町方与力のようないわゆる「不浄役人」だけでなく、士分の者を対象にした評定所の役人や御勘定方などその他の武家の一般職でも、特別に許された者は裃や羽織袴ではなく、黄八丈の着流しに黒羽織、雪駄といういで立ちで役儀に出仕することができた。

 しかもそれは、たいへんに名誉なことであり、幕臣たちの多くが憧れた粋な姿であったのだという。

 このような公儀公認の武士の着流しでの外出姿は、「旅形(たびなり)」と呼ばれていた。

 その場合、

「極(ご)く短い大小を前の方に差し雪駄チャラチャラで歩いて」

 いたのだと、塚原渋柿園は語る。

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▲渋柿園が自ら描いた、着流しにごく短い二本差しという「旅形」で出仕する武士の姿(『幕末の江戸風俗』より)



 これらの証言から分かるのは、

・江戸後期において、着流しの際に帯刀する大小はごく短いものであり、また社裃差でも平生差でも脇差は八寸から一尺一~二寸と、常寸やそれ以上の長脇差に比べて短く軽いものであった

・江戸の武士の中には、着流しで二本差しという服装で市中を巡回し、あるいは出仕して役儀に従事する者が少なからずいた

 という事実である。

 このような点から考えると、同じ着流しに二本差しでも、上記動画のように極端に帯がゆるんで着崩れ、大刀がズレ落ちてしまうというのは、かなり不自然なことであるのが分かる。

 そこで改めて上記の動画を見ると、さすが試斬を積極的に行っている現代の抜刀術流派だけに、大刀と共に帯刀している脇差は、見るからに長くて重そうな長脇差である。

 また脇差と共に差している大刀も、いかにも重厚そうだ。

 このように長く重い脇差に、さらに長く重い大刀を加えた二本差しで、しかも比較的ゆるめの帯の締め方をした着流しでは、そこに両刀を帯に手挟めば、二刀の重さで帯が伸びて着崩れ、大刀が縦にズレ落ちるのは当然であろう。

 一方で、実際に江戸時代に着流し二本差しで歩いていた武士は、ごく軽く短い脇差と大刀を帯に差し、雪駄の金具をチャラチャラ言わせながら、粋ななりで江戸市中を歩いていたわけだ。

 つまり、上記動画での着流しの二本差しと、江戸の武士が実際にしていた着流しの二本差しでは、その実態=着流し二本差しの在りようが、相当に異なっているのである。



 以上、和服の着装、大小の帯び方、江戸期の有職故実、文献に基づいた歴史的事実という4点から総合的に考えると、

「江戸後期の武士は着流しで二本差しであっても、当該動画のように著しく帯がゆるんで着崩れ、刀がズレ落ちるようなことは無かった」

 と判断できる。



 また蛇足だが塚原渋柿園は、幕末も極まって「ズボン指」(いわゆる突兵拵)が行われるようになってからは、「最(も)う小を差す人は無い」と述べた上で、

「それから、後には刀をただ一本指したのであります」

「すでに『だん袋』を穿かぬ人までが脇差は邪魔な物、不要な物として、慶應の改元頃から大の刀を一本ぶち込むという風俗になりました」

 と記している。

 つまり慶應4年の江戸では、もはや与力レベルの武士においても二本差しが一般的ではなくなり、「大の刀を一本ぶち込む」という状況であったわけだ。

 そうなると武士が着流し角帯で帯刀していても、大刀一口であれば両刀に比べてより軽いわけで、帯が緩んで着崩れてしまい、刀がズレ落ちるようなことは、さらに無かったであろうと思われる。



■結語

 上記ツイッターの動画とそのコメントの論旨は、現代の抜刀術流派の立場からの経験的な考察として、

「着流しでの二本差しはできない」

 と主張しているものである。

 それに加えて、文言上明言はしていないが、

「着流しでの二本差しは、衣装さんの努力によるもの。つまり創作(?)」

 と、示唆しているようにも読み取れる。

 しかし、伝統的な和服の着方、武人としての帯刀の仕方、江戸の武家の有職故実、史料にみる歴史的事実などを勘案すると(急ぎの考察のため、エビデンスとなる事例の「n」は少ないが・・・)、上記のような本件動画の主張の根拠は、意図的か意図的でないのかは別にして、かなり特殊な状況設定(着装がゆるく、両刀が重すぎる)から導き出されていることが分かる。

 ゆえに、「着流しでの二本差しはできない」というその主張は、実証的にも歴史的事例からも、正しくはないと考えるのが妥当であろう。



 結びとして、

「平生差などの比較的短く軽い脇差はもとより、一般的な寸法・拵の脇差でも、滑りにくい角帯をしっかりと締め、大刀と脇差を正しく帯に手挟めば、日常的な生活動作をしている範囲内では、着流しで二刀を帯びても、当該動画のように激しく着崩れして帯がゆるみ、大刀がズレ落ちるということはない」

「往時の武士が、着流し二本差しの姿で普通に日常生活動作を行い、巡回や出仕などの社会活動をしていたことは、時代劇等の創作ではなく歴史的な事実である」

 という2点について、ここで明確に指摘しておく次第である。



■引用参考文献
『五輪書』(宮本武蔵/岩波書店)
『幕末の江戸風俗』(塚原渋柿園/岩波書店)
『戊辰物語』東京日日新聞社会部編/岩波書店)
『刀の明治維新 「帯刀は武士の特権か?」』(尾脇秀和/吉川弘文館)


 (了)

9月の三宅坂/(身辺雑記)

2019年 07月03日 01:27 (水)

 柳剛流長刀(なぎなた)の稽古の後、岡田鉄(十内の妻)が創始した柳剛心道流の伝書を読む。

 その上で、ちょっと確認をしたいことがあり、パソコンを立ち上げてつらつらと調べもの。

 ついでに、国立劇場のページへ寄り道をしてみたところ、年に4回のお楽しみである文楽の、9月公演の演目が発表されていた。

 今回は、一部が『心中天網島』で、二部が『嬢景清八嶋日記』と『艶容女舞衣』。

 配役を見ると、呂勢大夫と清治は一部、蓑助は二部に出演。

 となると、やっぱ両方行くしかないか。

 小遣い、貯めなきゃ(苦笑)。

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 (おしまい)

柔らかな拳/(古流柔術)

2019年 07月02日 00:56 (火)

 いつものごとく、エアロバイク&筋トレの後、今晩は柳生心眼流の稽古。

 「表」、「中極」、「落」、「切」の素振二十八ヶ条の後は、小手返の七ヶ条をおさらい。

 さらに「天の振り」から「横周転の振り」までの単独素振り、そして実践応用稽古。

 特に、山勢厳流しと巻中勢巌について念入りに繰り返す。

 同じ当身主体の柔術(やわら)でも、柴真揚流が楊心流系の接触技法の面影を色濃く残しているのに対し、柳生心眼流はどこまでも徹底的に柳生心眼流だ・・・(笑)。

 稽古のしめは、当身台への打ち込み。

 心眼流独特の柔らかい拳での当身は、柴真揚流の拳での当身とは、当てるための体の使い方も、当て方も、まったく異なるものだ。

 同じ日本の古流柔術、そして同じ拳の当身でも、ここまで違うのものなのかと、当身好きとしてはたいへんに興味深い。



 仙台藩登米伝の柳剛流を代表する剣客である沼倉清八師範(1888~1959)は、柳剛流に加えて柳生心眼流の柔術も免許皆伝であったという。

 偉大な先師方に比べれば、私など柳剛流も柳生心眼流も未だくちばしの黄色いヒヨコのような業前だが、自分なりに生涯をかけて、研鑽を積んでいこうと思う。
 

1907_柳生心眼流
▲松代文武学校武道会にて、師に受をとっていただき、柳生心眼流の素振組形を演武する



 (了) 

「侘び者」として/(武術・武道)

2019年 07月01日 00:40 (月)

1906_茶碗


 室町時代の茶人である粟田口の善法は、飯や汁を煮炊きする燗鍋ひとつで、生涯、食事も茶の湯も行ったという。

 茶聖・千利休の高弟であった山上宗二は、この善法のように、高価な名物道具を1点も持たず、「胸の覚悟(胸中の決心)のみ」、「作分(創意工夫)のみ」、「手柄(功績)のみ」という3つの条件を満たした茶人を、「侘数寄者」と呼んだ。

 また大名茶人としても名高い井伊直弼は、そのような茶湯者を「侘者」と記している。

 そもそも語義をたどると、「侘」というのは手元不如意、つまり「貧乏」の意であったとか。

 そういう意味では木太刀一口、稽古着ひとつで、高価な武具などなにひとつ持たず、雨露をしのげる稽古場もなく、己の覚悟と工夫、経験とささやかな武歴のみという、市井の貧しい武術・武道人もまた、ある種の「侘び者」なのかもしれない。



 柴真揚流柔術の稽古では、とある形で茶碗を使う。

 毎日の食事では飯茶碗として使い、茶を服する際には抹茶椀として使っている、愛用のかいらぎ茶碗を用いて柴真揚流の稽古をしていると、何やら粟田口の善法になったような心持ちだ。

 侘び者。

 なかなか、よい響きだと思う。

 ま、「持たざる者」のやせ我慢かもしれないがね・・・(苦笑)。


 (了)