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野暮と修羅/(身辺雑記)

2019年 05月07日 09:08 (火)

 いまに始まったことではないけれど、ツイッターやフェイスブックなどのSNS、あるいはウィキペディアのノートなどをつらつらとみていると、「修羅の巷だなあ・・・」としみじみ思う。

 社会問題にしても、趣味の世界の話にしても、また武術・武道界隈のことについても、おそらく互いに顔も知らないであろう人たち同士が、いわゆる「クソリプ」というやつを送り合いながら、たたき合い、そしり合い、あるいは承認欲求全開でマンティング合戦を繰り返しているのは、まさに21世紀の地獄絵図だ。

 一方でSNSでは、日常生活では巡り会えないような慧眼の士や、博覧強記な専門家の考えや見立てを見聞することができ、学ぶことも少なくないので、なかなか「もう二度と見ない!」とまでは割り切れない。



 つらつら思うに、ネットの修羅場というのは、結局各人の価値観の押し付け合いであり、自我のマウンティング合戦なのだろう。

 どんなに言葉を飾り立てても、その本質は、

 「もっと僕を見て!」

 「もっと私を大切にして!」

 「もっとオレを尊敬しろ!」

 「もっとアタシをもてはやして!」

 といった、まともな躾と教育を受けた人なら10代後半~20代前半位でしっかりと落とし前をつけているはずの、こっぱずかしい承認欲求や全開の自我である。

 そういうものを、分別盛りの大人がむき出しにしている様子を見るのは、なんとも痛ましい。

 「恥を知ること」

 廉恥心は、いつの時代も不易の美徳だ。



 ありていに言えば、個人の価値観を他人様に押し付けるから争いになる。

 しかもその押し付けの動機が「利得」ならまだしも、その人個人の「正義感」に基づいているから、さらに厄介なのだ。

 「自分の価値観で、他人をはからない」

 というのは、たぶん高校生くらいで感得すべき最低限の社会性だと思うのだが、実際はなかなかそういうわけにはいかない。

 自分自身を振り返っても、

 「なにやってんだ、オレは・・・」

 と思うことはいまだにあるし、たとえば本ブログでも、過去の記事を読み直していて、

 「ああ、恥ずかしい・・・」

 と思い至り、修正したり取り下げることもある。

 いやまったく、お恥ずかしい限りです。



 だからこそ、個人的に心がけているのは、

 「野暮なことはしない」

 ということ。

 あるいは、

 「野暮だねえ・・・」

 と言われないように、身を処したいということだ。

 面識もない相手にいきなりクソリプを送って悦に入るとか、マウンティングやパワハラ・モラハラを繰り返すなどというのは、まさに人として野暮の極みそのものであろう。

 一方で、野暮の対極にあるのが「粋」。

 そして、「粋」は「意気」だ。

 しかし他人様から、

 「あの人は、粋だねえ」

 と言われるほど格好よくは、なかなか生きられないというのも、50年もニンゲンをやっていると、だんだん分かってくる。

 何しろ「粋」というのは、「行き」があっても「帰り」がないので、勇み肌のおあにいさんたちならまだしも、私のような市井の凡人には、そうそう容易に体現できない「道」なのである。

 だからこそ、せめて他人様から、

 「野暮な奴だ」

 などと言われないように、清々しく身を処し、人に優しく自分に厳しく、爽やかでありたいものだと、しみじみ思う。

 そしてまあ、いざという時には、気っ風のいい啖呵のひとつやふたつ、さらっとぶてたら最高だ。

  
「なにをぬかしやがるんだ、この丸太ん棒め! てめえなんざあ、丸太ん棒にちげえねえじゃあねえか。血も涙もねえのっぺらぼうな野郎だから丸太ん棒てんだ。てめえなんざ人間の皮を着た畜生だ。呆助、ちんけいとう、株っかじり、芋っぽりめ! てめえっちに頭をさげるようなおあにいさんと、おあにいさんのできがすこうしばかり違うんだ。分かったかあ、このF*ck!」


 なんてね。

 (了)
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