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秋日山陽行~瑠璃光寺/(旅)

2018年 10月31日 11:05 (水)

18010_瑠璃光寺1


 webに掲載する旅行記事の取材で、山陽道へ。

 生まれて初めて山口県を訪ねた。

 山口出身の親しい人から常々、「瑠璃光寺はいいよ」と聞いていたのだが、うれしいことにたまたま今回の取材対象に入っていた。

 寺には日没直前に到着したのだが、私を含め旅慣れたディレクターやカメラマンがみな一様に、この五重塔を見た瞬間、「おおっ!」っと唸った。

 これまで私が旅の折りに見きてた数多くの中でも、最も趣きのある侘びた風情の五重塔であった。

 この五重塔については作家の司馬遼太郎も、

長州は、いい塔をもっていると、ほれぼれするおもいであった。長州人のやさしさというものは(中略)大内文化を知らねばわからないような気もする。



 と、『街道をゆく』の「長州路」で記している。


 ま、シバリョウは柳剛流の敵(かたき)なわけだが、瑠璃光寺五重塔のすばらしさに免じて、この一文は認めてやろう・・・(苦笑)。


1810_瑠璃光寺2


 (つづく)
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柔(やわら)は楽し/(古流柔術)

2018年 10月28日 00:48 (日)

 昨日は翠月庵の定例稽古。

 ・・・だったのだが、珍しいことに土曜の昼だというのに県立武道館の第一道場(柔道場)が空いていたので、急遽、行田稽古場での稽古は中止とし、県立武道館の柔道場で、柔術を集中的に稽古した。

 前半は、甲陽水月流の中伝逆投げをおさらい。

 後半は、柳生心眼流の表の片衣から打込までを指導・稽古した。

 Y氏は、心眼流の表の素振がある程度打てるようになったので、今回、初めて私が受となり、相対での素振を行った。

 これは、「受」としての私の稽古でもある。

 久々に「返し」(ムクリ・マクリとも称す)を行って、私も存分に返しの稽古をすることができた。

 できればもう少し、ふわっと軽く回りたいものだが、なかなかまだ、「一生懸命回ってます」感がぬぐえない(苦笑)。

 いずれにしてもこの調子で、Y氏の心眼流の稽古が進んでくれると、私も自分の稽古がさらに充実できるのでありがたいところだ。

 ゆくゆくは、取返をばんばんとれるくらいにまでなれるとよいなあと考えている。

 なにしろ柔(やわら)は、剣術や居合と違って、相手がいないと稽古ができないものだからネ。

 それにしても、柔の稽古は楽しい。

 (了)

サポーター/(武術・武道)

2018年 10月27日 01:16 (土)

 ハタチになる前、まだくちばしの黄色いヒヨコだった私が、とある場所で自主練として居合を抜いていた時のこと・・・。

 私はその当時から、居合を遣う際には必ず膝のサポーターをつけていた。

 膝を壊して稽古ができなくなるのが嫌で、旧師からもそういう理由からサポーターを使うことをすすめられていたからだ。

 しかし、たまたまそれを見ていた他流の若い師範が、

 「居合をするのにサポーターをつけるなど、邪道で未熟だ。サポーターなしで膝が痛いのは、きちんと体が使えていないからだ」

 と、彼の弟子でもない私を面罵した・・・。

(その場でその後、どのようなことが起きたのかについては、今回のブログの論旨に関わらないので略す。なおちなみに、10代の頃、私は道場の先輩や同輩から「狂犬」というあだ名で呼ばれていたわけで……、お察しくださいm(_)m)

 あれから30年以上が過ぎたつい最近、その師範が結局は50代になってから膝を壊し、武術の世界から離れてしまったという話を旧友から聞いた。

 さすがに、「ざまあみろ」とまでは思わない。

 けれど、圓朝作『真景累ヶ淵』の結びではないが、「因果はめぐる小車の・・・」というやつであるなと、しみじみ思う。

 かわいそうだが、「苦行」と「鍛錬」の違いの分からない未熟な武術・武道人は、結局、このようにして自らの武術人生を縮めてしまうのだ。

        *  *  *  *  *  *

 他人様はどうあれ、私は生きている限りできるだけ末永く、武芸の鍛練を続けていきたいと思う。

 そのために、自分の心身と環境をできるだけ大切にしていきたいし、門人たちにもそのようにするよう折にふれて指導している。

 なぜなら、畢竟、勝負に勝つのは最後まで立ち続けている者なのだから。


 立って、そして闘いなさい。(エディ・タウンゼント)




 (了)

流祖の御霊に/(柳剛流)

2018年 10月26日 11:07 (金)

 流祖祥月命日であった昨夜の稽古は、柳剛流のおさらい。

 流祖の御霊に捧げるべく、剣術、居合、突杖、長刀(なぎなた)の形を打つ。

 次いで小刀伝や二刀伝、組打伝など、口伝の内容を確認。

 さらに伝書から考証・復元した殺活の当てに至るまで、現在、私が習得・稽古している全ての柳剛流の業をおさらいした。



仙台藩角田伝 柳剛流兵法

切紙
一、剣術
備之伝/上段、中段、下段、向青眼、平青眼、斜青眼、中道、右陰、左陰、下陰、八艸、頓保、丸橋、右車、左車
形  /右剣、左剣
一、居合
向一文字、右行、左行、後詰、切上
一、突杖
ハジキ、ハズシ、右留、左留、抜留

目録
一、剣術
備十五ヶ條フセギ秘伝
当流柳剛刀/飛龍剣、青眼右足頭(刀)、青眼左足頭(刀)、無心剣、中合剣(刀)、相合剣(刀)
一、小刀伝
一、二刀伝
一、鎗・長刀入伝

免許
一、長刀秘伝
一、組打
一、一人ノ合敵
一、法活


柳剛流殺活(伝書からの考証・復元)
一、殺法(天道、面山、虎一点、二星、剛耳、玉連、雁下、骨当、水月、心中、明星、村雨、松風、右脇、稲妻、玉水、高風市、虎走/仙台藩角田伝)
一、五ヶ所大当(天見、人中、秘中、水月、気海/武州岡安英斎伝)

                                        以上




 流祖の没後192年の時が過ぎた現在、このかけがえのない「術」と「理」の体系を練磨し、伝承していくことに、大きな誇りと重い責任を感じている。

1805_柳剛流_青眼左足刀
▲柳剛流剣術 「青眼左足頭(刀)」


 (了)

平成30年度 柳剛忌/(柳剛流)

2018年 10月25日 00:15 (木)

 柳剛流祖・岡田惣右衛門が逝去した文政9(1826)年の9月24日を新暦にあてると、10月25日となる。

 つまり、今日が岡田惣右衛門の祥月命日であり、没後192年となった。

 微力ながらも、流祖の編み出した「断脚之術」を絶やすことなく、今後も粛々と練磨をし、その妙術を次代に繋いでいきたいと思う。

 多忙のため、本日墓参をすることはできなかったが、来月に入ると仕事も落ち着きそうなので、改めて流祖の墓前に線香を手向けにお邪魔するつもりだ。


  1810_柳剛流浅間神社頌徳碑


柳剛流  岡田惣右衛門奇良 東武の人なり。始めに心形刀流を習い、後に諸州で修行、而して脚を撃つことの妙を得る。潜して柳剛流という。文政九戌年九月死す。門人多し(『新撰武術流祖録』より)



  (了)

覚悟と心映え/(武術・武道)

2018年 10月24日 02:00 (水)

「花というものは自然に咲いておってきれいなものだと思いますが、やはり葉は切らねばならぬものですか」
 と聞いた。千鶴はにこりと笑って、
「源五殿は、人は皆、生まれたままで美しい心を持っているとお思いですか」
「いや、それは……」
 源五が頭をかくと、
「人も花も同じです。生まれ持ったものは尊いでしょうが、それを美しくするためにはおのずと切らねばならないものがあります。花は鋏を入れますが、人は勉学や武術で鍛錬して自分の心を美しくするのです」
 千鶴は静かに石蕗に鋏を入れながら、
「花の美しさは形にありますが、人の美しさは覚悟と心映えではないでしょうか」
 と言うのだった。

 (葉室麟/『銀漢の賦』より)





 武術の鍛練は、「自分の心を美しくする」ためのものであるべきだ。

 武人の心の美しさ=覚悟と心映えとは、弱きを助け、強きを挫き、人に優しく、己に厳しく、義を重んじ、そして恥を知ることだと、私は思う。

 こうした「美しい心」を磨くための、武術の鍛練の場を穢すようなふるまいや、流儀とその先人たちの名誉を傷つけるような行為は、絶対にあってはならない。

 我々、武術・武道に携わる者は、こうした覚悟と心映えを胸に、己を律していかなければならぬ。

      *  *  *  *  *  *  *

 柳剛流祖・岡田惣右衛門の、没後192年の祥月命日を明日に控えた秋の朝、ふとそんなことに想いを致した次第。


 (了)

演武を振り返って/(柳剛流)

2018年 10月23日 00:42 (火)

 先の日曜に参加した「松代藩文武学校武道会 第25回  秋の武術演武会」は、私にとっては平成30年度最後の演武となった。

 今回は数か月前に師より、「次の松代の演武では、柳剛流居合をやるように」との言葉をいただき、以来、居合の鍛練に集中してきたのである。

 柳剛流居合は、折敷いた姿勢から跳び違いながら斬撃を行うのだが、その際の胴造りについては、特に留意して稽古を重ねてきた。

 また、柳剛流居合では長尺刀での鍛錬が奨められるため、今回も2尺8寸の居合刀で演武をした。

 そこで自宅では、手製の紙鞘を使いながら、4尺4寸2分(刃長3尺3寸)の木太刀で、抜付と納刀を徹底的に繰り返してきた。

 このため演武本番では、2尺8寸の居合刀をスムーズに操作することができたかと思う。

 一方で課題としては、自分の演武動画を確認すると、抜付けの後の袈裟斬りの刀勢が、やや弱いように感じられた。

 この袈裟斬りは、跳び違いながら相手を10万由旬の地獄の底まで斬り伏せるような、激しい気勢での斬撃にしたいものだ。

 また、納刀の際、まだ若干上体がブレるところがあるのも、次の課題である。

1810_柳剛流居合_演武1
▲柳剛流居合は、折敷いた姿勢から跳び違いながら斬撃を行う



 心法としては、いつもと同様に、

夫(それ)剣術は敵を殺伐する事也。其殺伐の念慮を驀直端的に敵心へ透徹するを以て最用とすることぞ(平山子龍『剣説』より)



 ということで、待中懸の気勢を満たして演武に臨んだ。

 分かりやすく超訳すると、「ここにいる全員ぶっ●す!」という旺盛な闘争心を心の中一杯に満たし、しかしその意識を一切に外に出さず、闘争心の「色を消す」のである。

 こうすると、不思議なほどに緊張をしない。

 私のように、「懸待一如」といった高い剣の境地には程遠い凡夫俗物は、試合や演武の際には、このような野蛮な「待中懸」の心法で臨むのが一番であると、体験的に思っている。



 フィジカル面では、今回は体重を落として演武に臨んだが、最終的には演武前の10日間で、ぴったり4㎏体重を落とすことができた。

 糖質制限とカロリー制限、有酸素運動と筋トレの組み合わせで、筋力を落とさずに減量の目標値をクリアすることができ、自分としてはたいへん軽やかに跳び違いをすることができたと思っている。

 せっかくなので、このままもうしばらく減量を続け、できればあと10キロくらい落としたいなと思っているのだけれど、飲酒の誘惑に勝てるかどうかが課題であろう(苦笑)。

1810_柳剛流居合_演武2
▲柳剛流居合 「右行」


 さて、次の演武は、来年4月の苗木城武術演武会である。

 この演武は、例年、手裏剣術がメインとなる。

 まだ本番までは半年もあるけれど、ぼちぼちと準備をしていきたいと思う。


 そして、いつもの如く、演武の後は、大体2~3日はバーンアウト(燃え尽き症候群)である・・・。

 演武を終えて日曜の午後に帰宅したのだが、その日の夜はもちろん、原稿がたまっている月曜も、ほとんど筆が進まずになんとなく、ぐったりとしていた・・・。

 明日(というかすでに今日だが)からは、気を取り直して、日常に戻らねばなるまいね。

 (了)

松代藩文武学校武道会 第25回  秋の武術演武会/(柳剛流)

2018年 10月22日 07:57 (月)

 去る10月20日(土曜)は、長野県長野市松代町にある松代藩文武学校にて、「松代藩文武学校武道会 第25回 秋の武術演武会」が開催された。

 私も、国際水月塾武術協会一門のひとりとして参加させていただき、午後からの師範演武にて、柳剛流居合を披露した。

 今回も演武を通じて、手ごたえを感じた部分もあり、また今後の課題を改めて見いだすこともできた。

 翌日曜は、文武学校の槍術所にて水月塾一同での稽古。

 私は、師と兄弟子である関西支部長のY師範にご指導をいただき、水月塾制定柔術の段取を稽古した。

 心地よい秋晴れの信州でたっぷりと汗を流し、午後、武州への家路についた。


1810_松代演武_柳剛流居合
▲柳剛流居合 「向一文字」


 (了)

「五省」~漢(おとこ)として、武人として/(箴言集)

2018年 10月21日 20:30 (日)

一、至誠に悖るなかりしか

 (真心に反することはなかったか)

一、言行に恥づるなかりしか

 (言葉と行いに恥ずかしいところはなかったか)

一、気力に欠くるなかりしか

 (気力が欠けてはいなかったか)

一、努力に憾みなかりしか

 (努力不足ではなかったか)

一、不精に亘るなかりしか

 (不精になってはいなかったか)




 (了)

Respect The Night /(身辺雑記)

2018年 10月19日 01:07 (金)

 慌ただしい毎日の中で、打ちひしがれるような悲しいこともあれば、心浮きたつようなうれしいこともある。

 半世紀ほど生きてきてしみじみ思うのは、誰もがみな、それぞれの「場」で何かを乗り越えながら、この過酷な世界を懸命に生きているということだ。

 群像劇の映画とそのエンドロールのように、100人には100通りの人生の物語があり、その100通りの物語がある時に交わり、ある時は離れ、そしてまたある時に再び交錯したりするのだろう。



 さて、明日は今年最後の演武。

 流祖と流儀の先人、そして師の名に恥じぬよう、人事は尽くした。

 後は天命を待つのみ。




 (了)

足るを知る男/(身辺雑記)

2018年 10月18日 10:55 (木)

 ここしばらく、結構きつい鍛錬をしている。

 今週末、松代で演武があり、普段から演武の前はそれなりに節制して稽古も普段より入念にするのだけれど、今回はそれ以外の個人的な理由もあって、8日前から稽古に加えて、かなり厳しい食事制限とフィジカル面でのハードなトレーニングをしているのである。

 「個人的な理由」などと書くと、なにやら意味深に聞こえるが、ようするに最近、太りすぎているのだ(爆)。

 とはいえ、すでに老子云うところの「足ることを知る」に十分な歳を重ねた五十路を目の前にして、いまさら自分のメタボ体型が気になるというわけではない。

 たとえば、市川実日子や栗山千明から面と向かって、「このデブ! チビ! クソジジイ!」と罵倒されても、「あははは・・・、返す言葉もございません」と、苦笑いで済ませる程度には、49年の人生を経て、すでに枯れた諦念を会得している。

 そんなことより、ひとり暮らしの侘しいオッサンには、夕暮れ時に楽しむ旨い酒と旬の肴の方がはるかに大切なのだ。



 それにしても、思い起こせば前世紀、ハタチの頃は2段蹴りどころか3段蹴りができた。

 ところが平成もあと1年で終わろうという約30年後の今、空手の稽古で「観空大」の形を打ち最後の2段蹴りをやろうとすると、まことに不本意ながら、1段半蹴りにしかならない・・・。

 あるいは、「燕飛」の形で転身しながら跳躍しても、それはどうみても「燕」の飛翔ではなく、自分で言うのもなんだが「子熊」の転倒だ・・・。

 ま、30年前に比べて体重が20キロも増えれば、そりゃあ飛び蹴りも跳躍もできなくなるというものである。

 しかしダイエットなどというのは、科学的に考えれば、食事制限と有酸素運動と筋トレをやれば良いだけのことなので、なんのことはない、いたって簡単なことだ。

 簡単なこと。

 簡単な・・・。

 ・・・。

 ダイエット道は、厳しい。

 そして、アルコホルの誘惑は耽美だ。

 おかげで、一応自分基準として「最大でも体重は●●キログラム以内で維持しよう!」という目標数値があるのだけれど、今月に入ってその数値を2キログラム以上も肥えて・・・ではなく超えてしまったのである。



 とまあ、そんなわけで、先週の水曜から、1日の摂取カロリーは1,800kcal以内(基礎代謝+300kcal)で、糖質は可能な限りカットし、普段の稽古に加えて有酸素運動と筋トレを行っている。

 このため仕事を終えてからの深夜、エアロバイクで汗だくになり、ツイスト・クランチやベント・ニー・シットアップの苦しさに思わず呻き声を挙げつつ、

 「オレはなんで、夜中に一人でこんなことやってんだろう・・・。ああ、米食いてえ!」

 と自問自答しつつ、その後から稽古着に着がえて武芸の鍛練に励んでいるわけだ。

 しかし、厳しいトレーニングと食事制限の結果はあまり思わしくなく、今朝の時点でなんとか自分基準の「最大でも体重は●●キログラム以内で維持しよう」という数値はクリアしたのだが、総体としては食事制限開始から9日間で2.6㎏しか体重が減っていない。

 代謝が悪くなったのも、加齢のせいであろうか。

 おまけに糖質を制限しているせいか、昼間、仕事をしていると眠くて眠くてしようがない。



 演武当日の土曜までに、あと1キロ以上は体重を落としたいんだけれど、厳しいかなあ。

 体が重いと、柳剛流で「スパッ」と跳べないんだよねえ・・・。


1810_剣の9
▲減らない体重に苦悩する剣客の図


 禁煙なんて簡単さ。私はもう何千回もやめてきたよ。(マーク・トウェイン)




 (おしまい)

流祖・岡田惣右衛門の貌/(柳剛流)

2018年 10月16日 18:50 (火)

 柳剛流祖・岡田惣右衛門奇良(よりよし)とは、如何なる人物であったのだろうか?

 文献での最も古い史料のひとつは、天保14(1843)年刊行の『新撰武術流祖録』であり、そこには、

「柳剛流  岡田惣右衛門奇良 東武の人なり。始めに心形刀流を習い、後に諸州で修行、而して脚を撃つことの妙を得る。潜して柳剛流という。文政九戌年九月死す。門人多し」

 とある。

 しかしこの記述は、流祖の没後17年が過ぎた時ものだ。

 現在、私が知る限り、流祖の履歴を記した最も古い史料は、『奉献御寶前』という古文書である。

 これは、流祖存命中の文政3(1820)年に作られた奉納額の写しであると伝えられる。

 しかし、そもそも写しの元となった奉納額が何処に奉納されていたのか、奉納額が現存するのかなどが定かではない。

 そういう意味で、今も実物が現存しており、だれもが確認できる、最古の岡田惣右衛門の事績を伝える史跡・史料が、石巻市大門崎にある「柳剛流祖岡田先生之碑」という頌徳碑だ。

 しかもこの碑は、柳剛流二代宗家で仙台藩角田伝柳剛流の祖である岡田(一條)左馬輔が、流祖・岡田惣右衛門を顕彰するために、師の逝去から22年後の嘉永元(1848)年に、自ら建立したものである。

 つまりこの頌徳碑は、岡田惣右衛門から直接薫陶を受け、師の苗字を賜り2代目を継承した人物が、直接知る師の遺徳を偲んで建立し、その功績を後世に伝えたという意味で、たいへんに貴重なものなのだ。

 そこに刻まれている岡田惣右衛門の事績を抜粋すると、次ように記されている。


 先生は江戸の人、諱は奇良(よりよし)、総右衛門と称す。初め伊庭直保に従い、心形刀流を学び、つとに其奥を窮む。

 而して未だ自ら慊(あきた)らず、遂に海内を経歴してあまねく時の名家に問う。輙(すなわ)ち、往きて其技を較べ、又従いて其理を講究す。

 資性の美、加うるに積累の功を以てして、変動すること神の如く。

 独得の妙、一世勍敵無し。

 顧みておもえらく、諸家の法は観る可しと雖も、要は皆議す可く有り。吾は我を愛するによらざるを得ざる也と。

 因って一家の法を立て、命(なづ)けて柳剛流と曰う。

 蓋し剛柔偏廃する可からざるならん。

 既にして誉望益々震い、四方の士争いて其門に造るは、百川の巨海に帰するが如し。

 而して伊勢三河の両国、即ち先生淹留すること年有り。故を以て門人尤も多し。

 脚を斫(き)る之術、是より先の諸家未だ嘗て講ぜざる所にして、先生意を以て之を剏(はじ)め、特に其妙を極む。

 文政丙戊九月、享年七十。病にて家に於いて終わる。

 爾後、海内其遺法循習する者、日増月盛。嗚呼、亦偉なるかな。

 (「柳剛流祖岡田先生之碑」より、一部抜粋)




 以上の碑文を見ると、4つの大きな誤りが見られる。

 1.流祖の名前が総右衛門になっている(正しくは、惣右衛門)。

 2.流祖の生誕地が「江戸」となっている(正しくは、武州葛飾郡惣新田〔現在の埼玉県幸手市〕)。

 3.流祖の師を伊庭直保としている(正しくは、直保の弟子である大河原右膳)。

 4.逝去時の年齢を70歳としている(正しくは62歳)。

 しかし、直接流祖から薫陶を受け、しかもその後継者に指名され、師より苗字までも受領した弟子である岡田左馬輔が、自ら建立し、当然ながらその際に撰文について直接校閲したであろうことから、この碑文に記された岡田惣右衛門の姿や人となりは、現存している記録の中では、最もその実像に迫ったものといって過言ではないだろう。


 この碑文では特に、

1.当時から柳剛流の興隆地が伊勢・三河と認知されていたこと(※伊勢では現在も紀州藩田丸伝柳剛流が、養心館道場・三村幸夫先生によって伝承されている)

2.「斬足之法」「断脚之術」、いわゆる脚斬りについて、明確にそれが流儀の真面目であることを明言していること

3.「柳剛流」という流儀名の由来について、巷間に流布されている誤った言説(「根をしめての古歌、云々」「柳の枝が川面を打つ、云々」)に関連する記述が一切ないこと

 以上の3点に注目をしたい。



 1点目について。

 私たちが稽古・継承しているのは、岡田左馬輔からの伝承を受け継ぐ仙台藩角田伝の柳剛流であり、左馬輔以後、仙台藩筆頭家老であった石川家中の剣術流儀の第一は柳剛流となり、あるいは石川家の領地であった丸森一帯では、集落ごとに柳剛流師範家がいるほどの興隆をみせた。

 また江戸府内や武州では、当時すでに複数の柳剛流師範家が、「門人数千余人」と言われるほどの教線を張っていた。

 にもかかわらず、この頌徳碑では、

而して伊勢三河の両国、即ち先生淹留すること年有り。故を以て門人尤も多し。



 と、あえて記している。

 それだけ伊勢や三河は岡田惣右衛門にゆかりの深い地域であり、柳剛流が盛んであったということだろう。

 私自身は、東海地方の柳剛流についてはほとんど知見を得ていないのだが、江戸府内や武州、角田・丸森以上の興隆というのであれば、相当な史料や史跡、口承などが残されているのではなかろうか?

 この部分のフィールドワークは、今後の課題の一つである。



 2点目について。

 柳剛流の術技の真骨頂が脚斬りにあることは言うまでもない。当時からそれを、柳剛流の伝承者や修行人たちが、誇りを持って自覚していたということが、この碑文の、

脚を斫(き)る之術、是より先の諸家未だ嘗て講ぜざる所にして、先生意を以て之を剏(はじ)め、特に其妙を極む。



 という一文から、強く感じられる。

 剣技としてあるいは武技として、「断脚之術」は、なんら恥じるものではない。

 脚斬りの技を「卑怯な技である」とか、「喧嘩剣法」などと揶揄するのは、司馬遼太郎の創作物語を歴史的事実と勘違いしている粗忽者か、あるいは剣の理・武術の理を知らない未熟者である。

 我々、現代の柳剛流修行者も誇りを持って、この流祖直伝の「斬足之法」を練磨し、後世に伝えていかなければならない。



 3点目について。

 これは本ブログでこれまでもたびたび指摘していることだが、柳剛流の流儀名の由来について、「根をしめて~」の古歌がどうだとか、「柳の枝が川面を打つ様子を見て~」などといった情報は、この碑文には一切記されていない。

 ただ、

顧みておもえらく、諸家の法は観る可しと雖も、要は皆議す可く有り。吾は我を愛するによらざるを得ざる也と。因って一家の法を立て、命(なづ)けて柳剛流と曰う。蓋し剛柔偏廃する可からざるならん。



 と、端的に叙述されているのみである。

 少なくとも私が知る範囲内では、「根をしめて~」の古歌云々、あるいは柳の枝が川面を打つの様子云々といった記述は、この碑文はもとより、その他の信頼のおける一次史料では、一切見たことがないことは、ここで改めて、そして何度でも強調しておきたいところだ。

 それにしても、一度世間に広まってしまった誤りや誤解は、容易には訂正することができないものだと、しみじみ思う。

 しかし可能な限り、こうした誤りを訂正するよう努めるのも、今の世で柳剛流を継承する者の重要な使命のひとつだと言えるだろう。


1706_柳剛流「右剣」
▲仙台藩角田伝 柳剛流剣術 「右剣」



■引用・参考文献
『日本剣道史 第十号 柳剛流研究(その1)』森田栄/日本剣道史編纂所(1973年)
『一條家系譜探訪 柳剛流剣術』一條昭雄/私家版(1996年)
『幸手剣術古武道史』辻淳/剣術流派調査研究会(2008年)
『増補・改訂 宮城県 角田地方と柳剛流剣術-日本剣道史に残る郷土の足跡-』/南部修哉/私家版(2016年)


 (了)

秋の翠月庵/(手裏剣術)

2018年 10月15日 11:30 (月)

 先週末の翠月庵の定例稽古では、ひさびさに門下全員の参加となり、稽古前半は手裏剣術、後半は柳剛流の稽古に専念した。

 「門下全員」などいうと大層なことに聞こえるが、実際にはわずか3名であり、当庵で稽古しているのは、私自身を含めてたった4人である。

 しかし、これを「4人しかいない」ととるか、「4人もいる」とするのかは、気の持ちようだ(苦笑)。

 一方で3名の門人は、全員が何らかの武芸(手裏剣術、居合道、杖道)の師範であり、そういう意味では精鋭ぞろいということで、指導する私としても充実した稽古ができるのがうれしい。

(もちろん当庵では、武術・武道未経験者の入門も随時受け入れており、武芸の初歩から懇切丁寧に指導するので、そこんとこヨロシク)

            *  *  *  *  *  *  *

 手裏剣術は、入門2年目のS氏、3年目のU氏の両名が、なんとか3間順体(歩み足)直打での、威力のある的中(単なる刺中と的中は異なることに注意!)がぼちぼち出始めたので、本日から順体(送り足)と逆体での打剣を指導する。

181013_151513.jpg
▲間合い2間半~3間から順体(送り足)直打での打剣の稽古。江戸期に興隆した知新流は、こうした順体送り足での打剣を採用していた。順体(歩み足)や逆体に比べると力を乗せにくいが、それでも4間直打程度までは威力のある打剣が可能である。

 
 その後、刀法併用手裏剣術の形を一本目の「先」から七本目の「前後敵」までおさらい。

 刀法併用の手裏剣術は、根岸流のほか最近では立身流や現代忍者(?)の方々も、演武や動画を公開しているようである。

 古流の知新流(すでに失伝)でも、刀法併用手裏剣術は重要視されていた。また、現代手裏剣術の代表である明府真影流でも、先代の染谷親俊師範は香取神道流仕込みの見事な刀法併用手裏剣術を、その著作で公開されている。

 特に、私は個人的には、染谷師範の座業による刀法併用手裏剣術(明府真影流では「刀術併用業」と称する)に、古流の素養に裏打ちされた深い趣きを感じる。

 翠月庵流の手裏剣術の教習体系では、刀法併用手裏剣術が自在に使えることが技術的な最終目標であり、心法としての最終目標であり極意が「生死一重の至近の間合からの、渾身の一打」である。

 こうした領域を目指して、私自身もさらに精進していかなければならない。


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▲翠月庵流の刀法併用手裏剣術一本目「先」の形。知新流の形を復元したもので、相手が刀の柄に手をかけた瞬間、先をとって順体で相手の顔面に打剣。すかさず抜刀して真っ向正面斬りとなる。きわめてシンプルな形であるが、これが当庵における刀法併用手裏剣術の初学であり、極意でもある

            *  *  *  *  *  *  *

 後半は、柳剛流をじっくりと稽古。

 剣術では「右剣」、「左剣」、「青眼右足頭(刀)」、「青眼左足頭(刀)」について、突杖では「抜留」での杖の操法について、居合は運足と胴造りについて、先の水月塾本部稽古で師より手直しをいただいた点を、門下に細かく伝達・指導する。

 一同、特に柳剛流居合の胴造りと運足に苦心していたが、正しい動きの規矩を理解した上で、コツコツと稽古しながら身体に沁み込ませていきたいものだ。



 秋らしい武蔵野の風を感じつつ、3時間の稽古はあっという間に終了した。

 ああ、やっぱり稽古は楽しいねえ。

 (了)

岡田惣右衛門が志した「剣」を想う/(柳剛流)

2018年 10月10日 03:50 (水)

 今晩も深夜、丑三つ時から柳剛流居合を抜く。



 わずか5本の地味な形だが、そこには流祖・岡田惣右衛門が志した「剣」の思想が、たいへんに色濃く込められているように思えてならない。

 これは以前も本ブログで記したが、柳剛流剣術は、切紙で学ぶ剣術形が伝系や伝承された時代によっての差異が少なく普遍的であるのに対し、目録で学ぶ剣術形は伝系や時代によって、その内容や本数が大きく異なる。

 これに対して柳剛流居合は、切紙で学ぶ剣術形の「右剣」や「左剣」と同様に、伝系や時代による違いがほとんどない。

 いずれの伝系でも、また流祖直門の時代から我々現代において柳剛流を学び伝承する9代、10代の世代に至るまで、ほぼ全ての柳剛流において、居合形は「向一文字」、「右行」、「左行」、「後詰」、「切上」の五ヶ条となっている。

 こうした点で柳剛流居合は、柳剛流剣術の「右剣」や「左剣」と並び、流祖の編み出した「斬足之法」と「跳斬之妙術」という業の原型を最もよく留め、そのエッセンスを驀直端的に伝えているのではないだろうか・・・?



 流祖の祥月命日である旧暦9月24日(新暦10月25日)を間近に控え、稽古後、刀の手入れをしながら、そんなことをつらつらと考えた秋の夜長であった。

切紙3

 (了)

拍子が肝心/(身辺雑記)

2018年 10月06日 12:01 (土)

 昨日は連載している医療・介護系業界誌の仕事で、芝公園でインタビュー取材。

 約1時間、全国老人保健施設協会のH会長に話を聞く。

 先月号は日本医師会のY会長の単独インタビューで、2号続けて日本の社会保障政策に影響力のある医療・介護業界のキーパーソンへの取材が続いたが、いずれも恙無く済みほっとする。

 インタビュー取材の仕事をはじめてから、もう20年以上たっているが、毎回が真剣勝負だ。

 特に、医療や介護関連の取材は、社会的な影響が大きく、あるいは臨床に関するものでは人の命も関わってくるので気が抜けない。

 ま、こだわりのラーメン屋のおやじとか、気鋭のITベンチャーの社長へのインタビューとかも、また違った意味で気を使うのだが。

  *  *  *  *  *  *

 取材後、神保町が帰り道だったので、古書街に立ち寄る。

 お約束の高山本店でざっと店内を見回すが、これといったものはなく、『秘伝』のバックナンバーで柳生心眼流と神道一心流の特集記事が載っている号を購入。
 
 さらに、これもまたお約束である、高山本店の隣にある原書房(神田を代表する占い専門古書店)で、ワゴンセールで売られていた田中洗顕『現代の易』(紀元書房)を500円(!)で購入。

 昭和の易聖・加藤大岳師が起こした紀元書房も、昨年廃業。

 紙の出版物はまったく売れず、易学という東洋古典の英知に関心を寄せる人も、めっきり少なくなってきたということか。

 大岳師直筆サイン入りの『真勢易秘訣』が1,500円で投げ売りされていたのだが、購入は見送る。

 が、やっぱり買っておけばよかったかなと、帰路の電車内で激しく後悔・・・。

 ま、書物との縁も、人との縁と同様に、タイミング(拍子)が肝心だ。

  *  *  *  *  *  *

 帰宅早々、本日のインタビューのテープ起こしに着手。

 雑誌の締め切りの関係で、日曜までに6,000文字のインタビュー原稿を仕上げなければならないので、土曜の翠月庵の定例稽古は休み。

 しかし、思うようにテープ起こしが進まず、結局、丑三つ時に業務終了。

 そのあと稽古着に着がえたのだが、何となく今晩は武具を手にとる気分ではないので、柳生心眼流の素振二十八ヶ条を打ち、さらに単独基本や応用実践を復習。

 小半刻ほど稽古をし、入浴後、就寝。

 さて、日曜までに、この原稿仕上がるかねえ・・・。

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 (おしまい)

秋日迷想/(身辺雑記)

2018年 10月04日 12:24 (木)

 インバウンド向けの旅行記事を書きまくっている。

 昨日は箱根の見どころ紹介を30本、今日からは東京の天ぷら屋の紹介記事を30本。

 その合間に高齢医学関連の単行本のゴーストライティングをしつつ、明日は連載している医療経営者向け月刊誌の巻頭インタビューで都内に行かねばならぬ。

 再来週からは、毎年やっている書店売りの温泉旅館のガイドブック原稿の執筆が始まり、月末には旅行記事関連の仕事で関西方面に2泊3日の取材・・・。

 仕事はたくさんあるのだが、実は9月からこのかた体調が思わしくなく、結構しんどい。

 まったく、歳はとりたくないものだ。

  *  *  *  *  *

 昨晩は日付が変わるころに仕事が終わり、そのまま寝てしまいたいのはやまやまだが、稽古はさぼれない。

 毎日稽古をすることを心掛けているが、それでも仕事が遅くまでずれ込んだり、疲れてどうにも稽古をする気にならない日、泥酔して寝てしまう日などもあり、年間で平均すると毎月18~20日間くらいしか稽古をしていない。

 この程度の稽古量では現状維持すら心もとないのだが、今の自分の体力と集中力で、しかも日々の仕事をしながらだと、これがいっぱいいっぱいである。

 稽古を続けるというのは、なかなかに難しいものだ。


 ここしばらく、稽古では柳剛流居合に専念しているのだが、昨晩はちょっと気分転換がしたいと思い、柳剛流剣術と突杖の稽古とした。

 まずは突杖。「ハジキ」「ハズシ」「右留」「左留」「抜留」と5つの形を丁寧に繰り返す。

 次いで剣術は備之伝、フセギ秘伝から、「右剣」「左剣」「飛龍剣」「青眼右足頭」「青眼左足頭」「無心剣」「中合剣」「相合剣」と、8本の形をおさらい。

 剣術も突杖も、なんというかよい意味で「楽に動けるな」と感じられるのは、最近ずっと座技の居合という、身体の動きに負荷のかかる業を鍛錬していたからだろうか?

 逆に言えば、座った状態で刀を抜き指しする居合というものは、「座る」という行為そのものが、身体の動きを制限し鍛練のための負荷になるのということだ。

 例えば手裏剣術でも、正座での2間座打(跪坐ではないことに注意!)は、立打ちでの3間に相当する鍛錬になる。

 剣術にしても突杖にしても、二本の足で立って動くというのは、座技の居合に比べると、より重力から解放された自由さがあるようだ。

 稽古が終わり入浴後、しばし仙台藩角田伝柳剛流の伝書を味読。

 「術は心に属し、業は四躰に属す」(柳剛流免許之巻より)。

 深夜2時過ぎ、就寝。

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  *  *  *  *  *

 朝起きてニュースを読むと、新しく就任した文科相が教育勅語などという腐儒の妄言をまたぞろ持ち出したり、科学技術担当大臣がニセ科学のEM菌擁護者であったりと、相変わらず常軌を逸した政治が続いている。

 首相を筆頭に公職に就く者が平気で嘘をつき、それを指摘されても居直り、資本家は私利私欲に走り、企業は空前の内部留保を記録しながら、子どもの6人に1人が貧困状態にあって、月末になると炭水化物以外の栄養を摂ることのできない児童もいる。

 どんどん、どんどん、世の中が生きづらくなり、社会的弱者に対して過酷で無慈悲になってきているように思えてならない。

 嫌な渡世だなあ・・・。

 (おしまい)

「邪魔しやつたら蹴殺す」/(古流柔術)

2018年 10月02日 00:00 (火)

 人形浄瑠璃文楽の演目である『摂州合邦辻』は、安永2(1773)年、大坂での初演以来、今も受け継がれ上演されている名作である。

 最近では今年2月の国立小劇場での、竹本織太夫による「合邦住家の段」の語りがたいへんに印象的であった。

 この物語は、主人公の玉手御前が義理の息子である俊徳丸に邪恋をしかけ、最後には自ら命を捨てるというもの。

 なかでも、道ならぬ恋を非難する俊徳丸の許嫁・浅香姫に対して玉手御前が、

恋の一念通さでおかうか。邪魔しやつたら蹴殺す(文楽床本集より)



 と追いまわし、踏み退け、蹴り退け、玉手が浅香姫に襲い掛かる様は、実に鬼気迫る名場面である。

 ここで、流れ武芸者たる私が個人的にたいへん興味深いと思うのは、玉手は「殴り殺す」や「絞め殺す」、あるいは「叩き殺す」ではなく、「蹴殺す」と呼ばわることだ。



 ご案内の通り、日本の伝統的武芸である古流柔術の当身は、拳による水月や鳥兎などへの当て、あるいは手刀や背手での当て、または肘当てなどあくまでも手技が中心であり、一部の特殊な流派を除けば足による蹴当ては、当身技の主ではない。

(古流柔術の殺法を代表する当身を1つだけ挙げろというなら、拳による水月の殺がそれであろう)

 武技ではなく日常における一般的な暴力沙汰でも、多くの場合、つかみ合いや殴り合いとなることがほとんどであり、打撃系の武術・武道や格闘技をやっている人でもないかぎり、昔も今も日常的ないざこざにおいて、「蹴り合いをする」「蹴りを入れる」という人は、あまりいないだろう。

 にも関わらず、江戸時代における人形浄瑠璃の主人公として造形された玉手御前は、修羅場において殴るのではなく「蹴殺す」と言うのである。



 思うに、古流柔術や空手、拳法やキックボクシングといった武道や格闘技を嗜んでいない普通の人が、何らかの事情で「人を蹴る」という場合、その形態は相手を足の裏全体で踏み倒すような形の、いわゆる「ケンカキック」と呼ばれる素朴な動作での前蹴り。あるいは単純な「踏みつけ(踏みつぶし)」となるであろうことは、容易に推測できる。

 そして、こうした蹴りは、武芸や格闘技における洗練された蹴り技に比べると力の加減がしにくく、ある意味で武術・武道や格闘技の蹴り技以上に危険であるともいえる。

 例えば『日本書紀』において、野見宿禰が当麻蹴速の腰を踏み折って蹴殺したというのも、まさにこういった踏みつけやケンカキックであったのだろう。

 相手を「蹴倒す」「踏みつぶす」という行為は、ある種、獣(けだもの)としての人間の、非常に原初的な行動だ。

 その点で、拳で殴る、平手で打つといった行為は、蹴倒し踏みつぶすというような行為に比べると、理性の階梯が一段上にあるように思える。

 逆に言えば、拳で殴ったり平手で打つといった行動に比べると、蹴倒す・踏みつぶすという行為は、より原初的かつ衝動的なだけに、そのような行為に至る場合は、相手が本当に死んでしまうまでに蹴り倒し、踏みつぶしかねない。

 つまり、手で叩く・殴ることに比べると、蹴倒し踏みつぶすというのは理性による抑制が効かず、オーバーキルとなってしまう蓋然性が高いと言えるのではないか?

 だからこそより殺意の高い、理性の崩壊した行為の表現として、「殴り殺す」や「絞め殺す」よりも、「蹴殺す」という言葉の方が、古の人たちにとってはより具体的で切実、あるいは日常的であったのかもしれない。

 一方で、こうした危険な「蹴る」という行為を、神武不殺・活殺自在の「術」の境地にまで止揚した、古流柔術における当身殺法の術理の深さを、改めてしみじみと思う。



 ・・・と、こんなことをつらつらと考えたのは、蹴当て(蹴足)を重視する古流柔術としてその名を知られた柳生心眼流を私が稽古をしていることに加え、先日の本部稽古でご指南をいただいた柴真揚流の、あまりに猛烈な蹴当てにすっかり度肝を抜かれたからだ。

 当身殺法が大好きな私としては、次の本部での柴真揚流の稽古が、今から実に待ち遠しい。


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▲「玉手はすつくと立ち上がり・・・」


 (了)