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謎の統成会伝柳剛流(前編)/(柳剛流)

2018年 06月27日 12:28 (水)

 現代になってからの紙の刊行物で、柳剛流に関する実技の具体的な解説あるいは写真が掲載されているものは、私の確認しているところでは以下の4点がある。

1.『月刊空手道 2月号別冊 極意』(「古流武術・空手家たちの裏芸 第1回藤本貞治
  《前編》」、福昌堂/1997年)
2.『古流剣術概論』(「柳剛流の秘剣・二刀と脛斬り」、田中普門/愛隆堂/2000年)
3.『月刊秘伝 2016年12月号』(「秘伝ジャーナル レポート4 第10回幸手市
  「武道館まつり」に柳剛流」、BABジャパン/2016年)
4.『徳江正之写真集 剣道・伝説の京都大会(昭和)』(「各種の形」/体育とスポーツ出
  版社/2017年)

 これら以外の雑誌や書籍等で、柳剛流の「実技に関する具体的な解説や画像」が掲載されているものをご存知の方がいらっしゃれば、ぜひご教授をいただければうれしく存じます。



 さて、上記資料の中で、1.の『月刊空手道 2月号別冊 極意』(「古流武術・空手家たちの裏芸 第1回藤本貞治《前編》」)では、タイトルの通り、国際空手道尚武会の藤本貞治先生が修行したという柳剛流が紹介されている。

 この記事には、

 「統成会伝 疋田陰流剣術・柳剛流剣術・制剛流柔術」

 という見出しが付けられているが、実際には柳剛流剣術の実技解説はなく、そのかわりに長刀(なぎなた)の実技が写真付きで解説されている。

 藤本貞治先生といえば、伝統派空手道を稽古した人間であれば、その雷名を知らない者はいないであろう。

 私は30代の頃、都空連の大会で何度かお姿を拝見したことがあり、また、例の伝説的な試割りの演武も間近で拝見させていただいたことがある。

 その藤本先生が、古流武術も深く修められていたとは、恥ずかしながらつい最近まで全く知らなかった。

 しかも、制剛流を修められていたという話は、ちょっと前に聞いていたのだけれど、よもや柳剛流も稽古されていたというのは、先月までまったく知らなかったのである。

 いやまったく、これは本当に不覚の至りであった・・・・・・。

 そこで、押っとり刀でアマゾンで同誌を入手、興味深く拝読した次第である。



 本記事によれば、藤本先生は昭和20年代から30年代にかけて、複数の古流師範が集まった古武道統成会という団体で柳剛流を学んだという。

 しかしこの統成会という団体、『極意』の記事にも書いてあるように、まったく情報の少ない組織であり、ほとんど資料がない。

 私も試みに、web検索はもとより国立国会図書館でも調べてみたが、「古武道統成会」も、その会長であった「堀田一心」という人物についても、まったく何ひとつ資料が見当たらないのである。

 その上で『極意』誌の記事によれば、この団体は昭和15~35年にかけて活動していたということで、「様々な流派を伝承する師範がいて、希望すれば何流派でも教えてくれる場所でした」ということだ。

 そこで藤本先生は、初めに制剛流、次いで柳剛流、疋田陰流、合気体術等を学んだとのことである。

 記事には、この古武道統成会から藤本先生に授与された、柳剛流と疋田陰流の免状の写真が掲載されている。

 柳剛流の免状は、伝統的な巻子本ではなくいわゆる一枚免状だ。年記は昭和32年吉月で、伝授者は個人の師範名ではなく、「柳剛流師範会」となっている。

 またこの免状で認可されている資格は、免許や目録といった柳剛流の伝統的な位階ではなく、「六段位」となっている。

 せめて、印可をした師範の個人名が掲載されていれば、何らかの手がかりになるのだが、「師範会」ではどうにもならぬ。

 また、記載されている藤本先生の話によれば、

 「疋田陰流と柳剛流は、戸田先生という方から習いました」

 とのことで、柳剛流の指導を受けた師範について、苗字のみで名前が明記されていないのも、これまた非常に残念だ。

 なお、これは藤本先生による談話ではなく、この記事の筆者である帯刀智という人の地の文の部分であるが、柳剛流の流祖・岡田惣右衛門の諱が、「吉良」と表記されている。

 これは間違い。

 正しくは「竒良(よりよし)」である。

 その他、柳剛流に関する帯刀氏の記述は、概ね間違いのないものとなっていた。



 本記事で特筆したいのは、藤本先生が学ばれたという柳剛流長刀の実技が写真と文で解説されていることだ。

 柳剛流の長刀は免許秘伝となっており、その実技の解説と写真が活字媒体で公開されたのは、おそらくこの『極意』誌の記事が、本邦初だったのではないだろうか。

 これを詳しく見ていくと、非常に興味深く、また謎が深まる内容となっている。

 藤本先生の解説によれば、先生が学んだ統成会伝柳剛流では、なんと一般的な長刀ではなく「柳剛流独自の薙刀」を使うというのである。

 より正確に引用すると、

藤本師範が手にした薙刀は、通常の薙刀よりは刃が長く、逆に柄が短い形状をしている。柳剛流独自の薙刀ということだが、薙刀と長巻の中間的な印象を受ける



 とのことだ。

 私はこれまで、柳剛流の各種伝書や添え書き、手控え、碑文等の一次史料を50点以上確認し、柳剛流の関係者や先行研究をされてきた先生方などにも直接・間接に、できるだけお話を聞いてきた。

 しかし、柳剛流における免許秘伝の長刀について、「薙刀と長巻の中間のような独自の武具を使う」という話は、寡聞にして知らない。

 私たちが伝承する仙台藩角田伝の柳剛流でも、免許秘伝の長刀で扱うのは一般的な長刀(なぎなた)であり、長巻ではない。

 また私の手元には、紀州藩田丸伝柳剛流の先代師範・清水誓一郎先生直筆による流儀解説の資料があるのだが、そこにも「長巻様の武具である」といった記述はなく、長刀(薙刀)と記されている。

 当然ながら、柳剛流において長刀の技法は免許で伝授される最高秘伝であり、岡田十内系統の免許之巻以外では、技法のよすがを感じさせる記述どころか、形名すら記載されていない。

 このため柳剛流の長刀が、実際にどのような武具を使うどんな業なのかについては、同じ柳剛流の免許皆伝者同士でも、師伝が異なれば互いにまったく分からないものとなっている。

 こうした点で、藤本先生の学んだ統成会伝柳剛流では、一般的な長刀ではなく長巻のような「独自の薙刀」を使っていたという事実は、(おそらく)師伝の異なる系統の柳剛流を伝承・稽古している私からすると、実に興味深いことだ。

 では、その長巻のような独自の薙刀を使う具体的な業とは、どのようなものか?

 長くなってしまったので、稿を改めて報告したいと思う。

1806_柳剛流長刀_レトロ
▲仙台藩角田伝 柳剛流長刀 「切上」(打/小佐野淳師 仕/瀬沼健司)


 (つづく)
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いつもの日曜日/(身辺雑記)

2018年 06月24日 23:49 (日)

 週明けからまた、そうとう忙しくなりそうで、嵐の前の静けさといった感じの日曜日。

 昼前までゆっくりと寝て、もさもさと起床。

 ひと風呂浴びてから、鯒の刺身と蚕豆で昼酒。

 ケーブルで『サンシャイン2057』を見ながら、うとうと。

 そのまま寝てしまい、夕方5時過ぎに目覚め、再びひと風呂浴びてから、県立武道館へ。

 今、自らの課題となっている、柳剛流剣術の「青眼右足刀」について、形だけでなく打ち込み台へ実際に打ち込んだりなどもしつつ、稽古を重ねる。

 最終的には、だいぶ手之内も締まり、太刀筋もしっかりとしてきたようだ。

 武道場がかなり蒸し暑つかったからか、1時間半ほどの稽古が終わると、いつになくぐったりと疲労感を感じる。



 帰宅後、残りの鯒の半身で晩酌をしつつ、Eテレで『仮名手本忠臣蔵 祇園一力茶屋の場』を鑑賞。

 仁左衛門と玉三郎の妙技に、唸る。

 しかし、なんだかえらく疲れた。

 早くも夏バテだろうか? 歳はとりたくないもんである。

 補中益気湯を飲んで、今晩は早めに寝よう。

 (おしまい)

雨の翠月庵/(武術・武道)

2018年 06月23日 22:10 (土)

 この季節、野天道場たる翠月庵は、どうしても雨天休となることが少なくない。

 それだけに、なんとか天気が持ちそうなら、できるだけ稽古は実施する。

 本日も、天気予報は雨であったが、実際には今にも降り出しそうな曇天ながら、雨はまだ降っていなかったので稽古を行った。



 まずは久々に、屋外稽古場ならではの十分な間合で手裏剣術の稽古。

 自宅では2間でしか稽古ができないが、ここでは最大7間までの距離で、存分に手裏剣が打てる。

 個人的には、直打・順体で4間前後の間合いが、手裏剣を打っていて一番気持ちが良い。

 今日は順体だけでなく、逆体での打剣も織り交ぜて打ち込んでいたところ、4間半から逆体で、板金を打つ心(フルパワー)で打った剣が、久々にウレタンマット3枚+コンパネの的を貫通した。

 順体でも逆体でも、このレベルでの威力ののった打剣を常に心掛けたいものだが、自分自身、なかなかできないものだ。

 これでも一応、10年以上も「手裏剣屋」を表看板にしているわけで、この夏はもうちょっと手裏剣術の稽古にも力をいれなければと反省した次第・・・・・・。

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▲間合4間半、逆体、板金を打つ心で、ウレタンマット3枚+コンパネの的を、25年式翠月剣(短刀型手裏剣)で打ち抜く。もっとも、以前からの稽古でかなりウレタンマットやコンパネが脆くなっていたから貫通できたものだ



 手裏剣に続いては、八戸藩伝神道無念流立居合十二剣。

 次いで水月塾制定日本柔術(甲陽水月流)の稽古は、中伝逆取を1本目から5本目まで。

 指導しながら受けを取るので、なんどもなんども弟子に投げ倒され、極められ、締められる。

 しかも、教わる弟子の側は習うのに一生懸命で手加減をしてくれないので、肘とか喉とか本気で極められすぎて、実に痛い(苦笑)。

 いやまったく、柔(やわら)を教えるというのはたいへんなのだと、しみじみ思う。

 次に、これは直伝ではなく当庵での研究・復元なのだが、柳剛流殺活術における殺の当てについて、門人に解説をしつつ実際に検証をする。

 仙台藩角田伝の柳剛流では、活法は伝承されているが殺法は失伝しているので、角田伝の柳剛流殺活免許の伝書や、岡安貞助伝の柳剛流殺活術の伝書や添え書きなどを元に、他流の殺法の資料なども参照しつつ、部位や当て方などについて門下と共に検証し、実際の当て方などを稽古をする。

 ところが残念ながら、この段階で雨が本降りに!

 この後1時間ほどかけて、柳剛流剣術・突杖などを稽古する予定であったが、泣く子と雨にはかなわない。

 そこでやむなく、いつもよりも1時間早く定例稽古を終了。

 ま、梅雨まっさかりの季節、こんな日もある。

 (おしまい)

「下陰」からの運刀を錬る/(柳剛流)

2018年 06月22日 00:46 (金)

 昨晩の稽古では柳生心眼流に集中したので、今晩もつづけて・・・と昼から考えていたのだが、2日以上も柳剛流の稽古をしないと、なにやら身体も心も柳剛流の稽古がしたくてムズムズとしてくる。

 我ながら、病膏肓に入るといったところだ(苦笑)。

 そこで今晩は柳剛流の稽古。

 備之伝から備十五ヶ条フセギ秘伝、そして「右剣から「相合剣」まで、剣術の形を丁寧に錬る。

 特に、前回の本部稽古で師より手直しをいただいた「青眼右足刀」については、正しい太刀筋と手之内を、じっくりと跳び違いの体動になじませていく。

 たしかに今までよりも、師に手直ししていただいた手之内の方が、はるかに太刀筋が引き締まるように感じられる。

 加えて、最近重点的に鍛練している下陰の構えからの運刀について、さらに検討しながら木太刀を振う。

 この構えから、「青眼右足刀」や「青眼左足刀」、「無心剣」や「中合剣」といった目録で学ぶ一連の形(これらを総称して、柳剛流剣術目録之巻では「当流極意柳剛刀」と称する)の太刀筋への連接を心掛けて、何度も繰り返す。

 柳剛流剣術における、「下陰」からの運刀の「術」と「理」については、今後もさらに掘り下げていきたいと思う。

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▲柳剛流剣術 「相合剣」(仕太刀:瀬沼健司 打太刀:小佐野淳師)


 (了)

深夜、柳剛流突杖の稽古/(柳剛流)

2018年 06月20日 03:18 (水)

 早めの晩酌で飲み過ぎて、そのまま寝てしまい、目覚めれば深夜1時過ぎ・・・・・・。

 いかんいかん、今日は稽古していないではないかということで、おっとり刀で稽古着に着がえて稽古を始める。

 今晩は柳剛流突杖。

 鏡に写った我に対面しながら、「ハジキ」「ハズシ」「右留」「左留」「抜留」と、5本の形を丁寧に繰り返す。

 柳剛流の突杖(杖術)は、おそらく流祖・岡田惣右衛門が学んだ三和無敵流から来ているのだと思われるが、剣術~居合~長刀(なぎなた)と柳剛流の諸術に共通する術理である「跳び違い」を用いない、いささか異色の「術」だ。

 形はわずか5本。

 「突杖」という名称の通り、全て相手を突いて勝つ。

 このため、別名「突之刀法」(中山柳剛流)とも呼ばれ、あるいは「乳根木」(房州古川伝)とも称する。

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▲仙台藩角田伝 柳剛流突杖(杖術) 「ハジキ」(仕杖:吉松章、打太刀:瀬沼健司)


 いずれも非常にシンプルな形=業であり、杖を専科とする流儀を稽古している人からすると、業としてのあまりの簡素さに物足りないとすら感じるかもしれない。

 しかし私の様に、杖や棒を専門としてこなかった者からすると、非常に学びやすく、しかも簡素ゆえに実践的な「術」だなあと感じている。

 また、これは柳剛流の突杖に限ったことではないかもしれないが、杖の業は体術への展開が非常にしやすく、ほぼそのままの体動で、徒手の業となることも非常に興味深い。

 中でも「ハズシ」という形は、ほとんどそのまま柔(やわら)の業となるうるもので、個人的にたいへん気に入っているというのは、以前も何度か本ブログに書いた。



 自宅での突杖の稽古では的への刺突も折々に行い、「実際に相手を突く感覚」を錬るよう心がけている。

 幸い拙宅の稽古場には手裏剣の的が設えてあるので、これが杖の刺突鍛練にちょうど良いのだ。

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▲壁に設えた手裏剣の的(畳2枚重ね+ウレタンマット)で、杖の刺突を鍛錬する。ウレタンマットに記したバッテンは、手裏剣を打つ際の顔面部の目安。突杖では相手の咽喉部(柳剛流殺活術における「玉連の殺」)を突くので、バッテンの直下を形の動きに従って繰り返し刺突鍛練する



 剣術や居合、長刀などは、今の時代に実際にその術を直接用いるようなことはありえない。

 しかし杖や柔といった武芸は、現代でも護身術としての有効性を失っていない。

 つらつら思うに、これは実は近世の社会でも同様ではなかったかと思う。

 江戸の世とはいえ、武士や百姓が日常生活の中で、そうそう簡単に打刀や脇差を抜いて振り回すようなことはなかったわけで、しかし一方で日常的ないざこざや争いごと、暴力沙汰というのは、これまた今の世と同じように、江戸時代の生活でもたびたびあったであろう。

 そういう場合に、「神武不殺」の理に則った杖や柔の術が役立つのは言うまでもない。

 剣術や居合とは異なり、あくまでも相手を殺傷することなく制することのできるこれらの「術」は、捕方はもとより、旅にでも出ない限り脇差を帯さない百姓・町人にとっては非常に有効で有用、そして身近な「業」であったのだろう。

 こうした点で、武士はもとより百姓・町人にも広く稽古された、「農民剣法」たる柳剛流においては、突杖の術はたいへんに大きな意味を持つものだったのではなかろうか。

 ちなみに突杖に関する柳剛流の逸話としては、、幕末から大正にかけて日光御成道に教線を張った柳剛流深井派の3世・深井源次郎は、平素から常に3尺ほどの杖を常に手にして離さず、眠るときも寝具に忍ばせていたという。



 突杖の稽古後、深夜3時。

 そんなことに想いを馳せつつ、キーボードを叩いている次第。

 さて、夜が明けたら本日は、盆栽の体験取材だ(笑)。

 (了) 

レバーブロー/(古流柔術)

2018年 06月19日 12:22 (火)

 歳をとったなあ・・・と実感するのは、筋肉痛などの身体の痛みが、稽古の翌日ではなく、翌々日以降に出てくることだ。

 先週は土曜に翠月庵の稽古、日曜は原稿の締め切りがあったので稽古は休みにしたのだが、月曜になって身体がだるい。特に右脇に、結構な違和感というか痛みを感じる。

 日曜はなんともなかったのだが・・・・・・。



 土曜の稽古では、柳剛流殺活術における「右脇」の急所(いわゆる「電光・稲妻の殺」)に当身を加える業の指導を、特に重点的に行った。

 その際、当たり前だが指導する私が打太刀・受けをやるわけで、「こういう風に当てるんだよ」と、何度も実際に当ててもらうわけデス。

 当然ながら、全力本気で当てられたらこちらが悶絶してしまい、そもそも稽古にならないのだが、さりとてまったく当てないと、「どの辺りに」「どの角度で」「どのように」当てるのかを相手が習得できないので、「確認のために、軽めに当ててネ♡」ということで、形の動きの中で実際に当ててもらうわけだが、これが結構痛い(苦笑)。

 特に当身を当て慣れてない人の場合、加減が分からないので(まあ、その加減も含めて学んでもらうために、実際に当ててもらうわけだけれども)、結構、当てられる方は痛いのである。

 しかも、なにしろ当てる場所が殺活の部位なので、ことのほかよく効くわけだ。

 この急所への当身は、ボクシングでいうところのレバーブローである。

 その名の通り、肝臓への打撃だ。

 私のように、常にγGTPの値の高い人は、特に要注意である(・・・・・・嘘です)。

 ところでレバーブローというと、右脇の肋骨の無い脇腹下部だと勘違いしている人が時々いるけれど、正しくは肋骨のある部分に当てるのが本当のレバー(肝臓)ブローであり、「電光・稲妻の殺」である。



 稽古の際や当日はほとんど気にならなかったのだが、月曜になって朝起きると、右脇がなんとも痛い。

 当然ながら当身としての「殺」は、瞬間的、電撃的な効果を狙って当てるわけだけれど、今回の稽古のように、軽めにコツコツという感じで当てられても、翌日以降、結構ダメージが残るのだなあと、しみじみ実感した次第である。

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▲先日の水月塾本部稽古の際に拝見した塚原卜伝流の殺活の伝書。ここには電光・稲妻(右脇)や月影(左脇)といった体幹部側面の急所は記されていない。ちなみに柳剛流の殺法でも、岡安貞助伝の「五ヶ所大当」では、体幹側面の急所は全て省略され、正中部分の急所のみが記されている

 (了)

梅雨寒むの中での野天稽古/(身辺雑記)

2018年 06月16日 21:45 (土)

 本日は翠月庵の稽古。

 梅雨寒むのいまにも降り出しそうな曇天ながら、野天道場とはいえ降るまでは稽古をする!



 まずは八戸藩伝神道無念流立居合十二剣。

 荒川沿いの田園に、裂帛の掛け声が響き渡る。

 ひとしきり剣を振るったあと、先日の本部稽古に参加できなかったY氏に対して、柳剛流剣術切紙之巻の伝授式を行う。

 古式に則って切紙之巻を伝授し、Y氏も、また彼の師たる私も、柳剛流を受け継ぎ伝承していくことの責務をあらためて感じた次第である。

 式の後は、水月塾制定日本柔術(甲陽水月流)の稽古。

 野天に茣蓙をしいての稽古にも、ずいぶん慣れてきた。

 激しく叩きつけるような投げ技以外の形であれば、ほとんどの形稽古はこの状態でできるようになった。

 幸い、稽古場の地面は草地で柔らかいので、各種の逆取の形はもちろん、丸く投げるような投げ業による形もまったく問題はない。

 それどころか野天での柔術稽古のおかげで、畳での稽古が実に楽になった今日この頃である。

 本日は、初伝逆取10本と逆投10本を丁寧に復習。さらに中伝逆取の最初までを指導する。

 稽古の〆は、柳剛流剣術。

 「右剣」から「相合刀」までをおさらいしたあと、 「青眼右足刀」の脚斬りと「相合刀」での体術的接触技法について、じっくりと指導を行った。



 それにしても柔術をみっちり稽古すると、家に帰ってからも、やっぱり体に堪える・・・・・・(苦笑)。

 しかたがないので、お神酒の余りで晩酌をしながら、山下達郎が自ら歌う名曲『硝子の少年』で癒される。

 静かな土曜日の夜。


▲梅雨時になるとヘヴィーローテーションで聴きたくなる、山下達郎の名曲。なぜか画像は、『BLACK LAGOON』?


 (おしまい)

6月の水月塾本部稽古~柳剛流、甲陽水月流柔術・短棒/(武術・武道)

2018年 06月13日 18:01 (水)

 先の日曜は、朝から水月塾本部での稽古であった。

 午前中、まずは師に打太刀を執っていただき、柳剛流剣術の稽古。

 残心についてと、「青眼右足刀」について、手直しをいただいた。



 その後、午前の稽古後半と、昼食をはさんで夕方まで、水月塾制定日本柔術(甲陽水月流)の太刀捕りと短棒を稽古する。

 本部師範代のO氏、柴真揚流を専科とするN氏、そして埼玉支部のU氏の3名と共に、師よしご指導をいただきつつ、受けと捕りを交代しながら形を繰り返す。

 甲陽水月流の太刀捕りは、「引倒」「屏風倒」「足捻」「巻締」「外無双」「車投」「小手返」「負投」「体落」「獅子洞入」の10本。

 いずれの形もシンプルかつ強烈な投げや当身等で構成されており、稽古はなかなかに激しいものとなる。

 なかでも「車投」は、斬り込んでくる相手に巴投げをかけ、そのまま相手の上に馬乗りになり、両足で相手の両腕を固めつつ襟締めで極めるという豪快な業だ。

 それだけに、受けでも捕りでも、非常にフィジカルに堪える。

 おまけに私は、本日の稽古者中の最年長であり(涙)、あと1年で知命之歳を迎えようという老兵なわけだが、ここで若い武芸者たちに弱みを見せるわけにはいかぬ。

 「どんどん、やりましょう!」と、相手をとっかえひっかえして形を打つ。

 おかげで稽古から2日が過ぎた今日になっても、全身が痛い(苦笑)。

 そろそろ、アラフィフとしての自覚を持たねばなるまい。

 なにしろ江戸時代なら、もう隠居する歳なのだ。

 しかし、柔術の稽古はやっとうとはまた違った楽しさがあり、厳しくも心地よいものだ。



 その後の短棒の稽古は、いつものことながら、いやまったく本当にすごく痛い。

 どれくらい痛いかというと、翠月庵でも時折短棒の稽古をするのだが、そのたびに武道歴何十年という古強者の門人たちが、「ぐぇぇ」とか「ぎゃっ」とか、「うおぉ」とかいう呻き声を出すほど痛いのである。

 このため普段の定例稽古で、「今日は短棒の稽古をするよ」というと、皆の顔が一瞬曇るのがなんともいえない。

 当然のことながら、本部で短棒の稽古をする時には、私自身も受けをとる際に、「ぐぇぇ」とか「ぎゃっ」とか「うおぉ」などと、心の底から呻き声をあげているのは、言うまでも有馬温泉・・・・・・。

 それくらい短棒の稽古は痛いのだが、一方でまた、実に楽しい。

 我ながら武芸バカだなあと、しみじみ思う(苦笑)。
  


 稽古後はいつもの通り、師に同道させていただき小宴。

 最高の馬モツや馬刺しと、灘の旨酒を心ゆくまで楽しんで、武州への帰路についた。

 (了)

柳剛流剣術切紙之巻の伝授/(柳剛流)

2018年 06月11日 23:47 (月)

 昨日、国際水月塾武術協会本部にて、埼玉支部門人の吉松章氏と宇田川浩二氏へ、柳剛流剣術切紙之巻が伝授された。

 伝授式では仙台藩角田伝柳剛流兵法8代師範の小佐野淳先生より、古式に則って宇田川氏に巻物が伝授され(吉松氏は所用にて欠席)、不肖私も9代師範として伝書に花押署名・押印の上、式に立合わさせていただいた。

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 こうしてまた新たに、柳剛流を後世に伝えるための伝承がなされたと思うと、流儀を愛する者のひとりとしてまことに感慨深いものがある。

 流祖・岡田惣右衛門以下、角田伝の祖である二代・岡田(一條)左馬輔から歴代先師の方々も、きっと泉下で喜んでくれているのではないだろうか。

 吉松・宇田川両氏の、さらなる柳剛流の研鑽に期待すると共に、私もまた柳剛流師範の名に恥じぬよう己の業を磨き、さらにひとりでも多くの有為の人士に、今後も柳剛流を広く伝えていきたいと気持ちを新たにした次第である。

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 習へ遠く心や雲となりにけり
            晴てそたたぬ有明の月(柳剛流 武道歌)


 (了)

伝蔵伝説/(時評)

2018年 06月09日 23:00 (土)

 このブログでは、あまり政治的な話題は書かないようにしている。

 今の時代、SNSでは右も左も百家争鳴であり、私如き街の片隅でひっそりと生きる低所得階層の流れ武芸者が、いまさら言うこともあるまいと思っているからだ。

 私は、雨露がしのげて3度の食事がとれ、たまさかには晩酌をし(ま、実際には毎晩だが・・・)、ときには伝統芸能を鑑賞し、図書館で読みたい本が借りれ、日々武芸の稽古ができる程度のささやかな暮らしが送れれば、それで十分に満足だ。

 にもかかわらず、昨今の新聞やニュースを目にすると、この国と社会の毀れっぷりに、さすがに唖然とする。



 数年前、子供の貧困問題に関する取材をしたことがあるけれど、今この時点でも、月末になると米やパン、パスタなどといった最低限の主食以外、おかずを食べることができない子どもたちがいる。

 先進国でござい、経済大国でございといいながら、今、日本の子どもの6人に1人が貧困にあるのだ。

 その一方で企業の内部留保は、史上最高額を記録しているという。

 あるいは過労死が大きな社会問題になるなか、定額働かせ放題を実現させる悪法が平然と可決されようとしている。

 役人は平気で公文書を改ざんし、大学スポ―ツの監督は生徒とコーチに責任をなすり付けて自らの保身に走り、総理大臣はお友達たちの利益誘導に余念がない。

 責任ある大人たちが平気で嘘をつき、金儲けや地位のために強者が、社会の片隅で生きる弱い人たちを平然と踏みにじるのが、今のこの国のあり様なのだ。



 かつて井上日昭が唱えたように、「一殺多生」が実現可能であれば、これほど腐りきった政治と経済が弱者を踏みにじるなかでは、テロルもまた1つの意味を持つであろう。

 クセルクセスやネロ、始皇帝の時代であれば、「個」としての強者を殺害することで、社会の不条理や矛盾を解決することも可能であったかもしれない。

 しかし、今のこの社会の矛盾や不条理は、政治家や資本家といった個人ではなく、彼ら強者たちの集合である社会のシステムそのものが、弱者を搾取し踏みにじるようになっており、収奪する「個」の命を奪っても、社会全体の矛盾や不条理を解決することはできない。

 だから我々「持たざる者」たちは、ただ頭を低くし、社会の片隅で日々を生き抜くのみである。

 ときに、明日の新潟県知事選はどうなることか?

 願わくば、落下傘よりもおっかさんの方が良いのではないかと、埼玉県民の私は思う。



 今から134年前、武州・秩父では、政府の悪政と高利貸したちの収奪によって、数多くの養蚕農家が身代限り(破産)に追い込まれた。

 困窮からの救済を求める人々に対して、明治政府は「貧乏人は死ねばよい」とした。

 これに対して秩父の農民たちは、抜刀隊約200人、鉄砲隊約300人、竹鎗隊その他、合わせて約3,000人の「革命軍」を編成。自由自治を目的に決起し、政府と資本家たちに叛旗を翻す。

 世にいう、秩父事件である。

 結果的に、叛乱は政府軍に鎮圧され、主な指導者たちは即決裁判で死刑に処せられ、生き残った者たちも徹底的に断罪・弾圧され、持たざる農民たちによる自治を目指した義挙は、「暴動」として記録され辱められた。

 しかし、農民軍リーダーのひとりであった井上伝蔵は、ついに官憲の追求を逃れ続けて、その天寿を全うした。

 その後、秩父地方では、世が乱れると再び井上伝蔵が現れて世直しをしてくれるという、「伝蔵伝説」が伝えられるようになったという。

 なお秩父地方は、言わずと知れた武州の名流・甲源一刀流剣術のおひざ元である。

 この秩父事件にも、有名無名の甲源一刀流剣士たちが農民軍に参加し、政府軍の銃火に対して、鍛えに鍛えた剣技と伝来の秋水を以て立ち向かったという。



 さて、明治から大正、そして昭和をへて、いよいよ来年で平成も終わる。

 しかし相も変わらずこの国は、弱者が収奪され、嘘と世渡りの旨い者たちだけが肥え太る、「仁」も「義」もない不徳の国のままのようだ。

 いやそれどころか、社会的弱者の置かれた状況は、むしろ年々、悪化しているように思えてならない。

 今、武州の山並みの間では、再び「伝蔵伝説」が囁かれているだろうか・・・・・・。


圧制を変じて良政に改め、自由の世界として人民を安楽ならしむべし(秩父事件を好意的に記録した、秩父下吉田村貴布祢神社の神官・田中千弥の日記より)




 (了)

明日は三重へ/(身辺雑記)

2018年 06月06日 23:59 (水)

 明日からは2日間、旅行雑誌の取材で三重県某所の老舗リゾートホテルに滞在する。

 そして三重県といえば、言わずと知れた紀州藩田丸伝柳剛流のお膝元である。

 時間と金に余裕があれば、ホテルの取材後、1~2日かけて玉城町周辺の柳剛流関連の史跡を巡ったり、図書館で郷土史料などを調べたいのであるが、まことに残念なことに、私には時間も金にもまったく余裕がない。

 三重からとんぼ返りで金曜夜から土曜午前まで原稿執筆、そして土曜の午後からは翠月庵での指導、さらに日曜は水月塾本部で稽古、週明けも月曜からビジネス関連のインタビュー原稿や医療雑誌の締め切りが続く。

 月給なし、ボーナスなし、雇用保険なし、退職金なし、厚生年金なし、貯金なしの貧しい零細個人事業者は、ただひたすら働いて日銭を稼がねば、武芸の稽古を続けることすらままならないのである。


 「人生は過酷だ。生きていくためには金がいる」(byサム・ペキンパー)




 とまあそんなわけで、今晩は(も)、いつもの通り柳剛流の稽古に気を入れる。

 剣術、居合、突杖、長刀について、仕太刀に加えて打太刀も丁寧に繰り返す。

 稽古の〆は、殺活の当て18カ所の鍛練で終了。


 
 さて、こからひと風呂浴びたら、先日入手した『極意』1997年冬号に掲載されている、藤本貞治先生の柳剛流の記事を再読しながら休むとしよう。

 明日は始発で出発だ。

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 (了)

初夏の文楽/(身辺雑記)

2018年 06月05日 23:00 (火)

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 先月の国立小劇場では、文楽「本朝廿四孝」と「義経千本桜」を鑑賞。

 5代目吉田玉助襲名披露の口上も行われた。

 咲太夫、寛治、清治、簑助、和生といった、重鎮たちの至芸を堪能。

 個人的には、呂勢太夫を贔屓にしたい。

 さて、次の三宅坂での公演は9月。

 3か月のおあずけは、長いのう・・・・・・。

 (おしまい)

下陰からの太刀筋と運刀-上川原神道香取流からの示唆/(柳剛流)

2018年 06月02日 12:30 (土)

 翠月庵の稽古場の最寄り駅は、JR高崎線の行田駅である。

 このため便宜上「行田稽古場」と呼称しているからか、稽古場が行田市にあると誤解されることが多い。

 実のところ行田市の中心は秩父鉄道の行田市駅周辺であり、JR行田駅は行田市の端っこに位置しており、うちの稽古場の所在地は行田市ではなくその隣の市なのだ。

 さらに蛇足ながら、私の住まいは稽古場から徒歩と電車で約1時間ほど離れたところにあり、週末ごとに稽古場まで、武具をかかえて通っている。

 もっとも7年前までは、練馬の自宅から行田稽古場まで2時間かけて通っていたので、随分と楽になったものだ。

 ・・・・・・とまあ、そんな話は世間の皆さまにはどうでもよいことであろうし、なにより県外の方はもとより埼玉県民でも、高崎線沿線に住んでいる人でないとピンとこない話題であろう。



 ところでJR行田駅の隣にあるのが、日本有数の酷暑地・熊谷市の玄関口であるJR熊谷駅だ。

 こちら熊谷市の上川原地区には、室町時代から続き、今もその地域の相続人(長男)にしか伝授されない秘剣である「神道香取流」が伝えられている。

 現在は「上川原神道香取流棒術」として市の指定文化財になっているが、実際には剣術であり、形は表12本・裏12本の合計24本。

 一般に公開されているのは表の形だけで、裏の形は修行者以外には非公開なのだという。

 いわゆる古武道に比べると、こうした村落共同体で伝承されている「芸能武術」は、武術・武道関係者からは、やや低く見られがちかもしれない。

 しかし、こうした芸能武術には、ときとして一般的な古武道以上に、昔ながらの身体や武具の使い方が色濃く伝承されていることがあるので、予断を持たずに拝見するよう心掛けている。



 過日、youtubeにて神道香取流の動画を見ていて、ふと柳剛流備之伝における下陰の構えからの動きに関連する強い示唆を感じた。

 そこで先日来、自宅での稽古ではその動きを確認することに専念していたのだが、たいへん大きな新しい気づきを得る事ができた。

 なお、こうした工夫はあくまでも私個人としての剣技・剣理の探求であり、それを伝来の形の動きや理合に混同させるようなことは、厳に慎まなければならないのは言うまでもない。

 しかし、自分なりの工夫伝として鍛錬し、技として磨くことは、ひとりの武術修行人として、たいへんに重要なことであるとも思う。

 今回、このように神道香取流の太刀筋から、柳剛流の下陰の構えからの太刀筋や運刀について新たな知見を得る事が出来たわけだが、一方で4尺4寸2分の柳剛流の長木刀でその動きを過度に繰り返すと、左手首に非常に大きな負担がかかるようである。

 おかげで昨日、左手首を痛めてしまった・・・・・・(爆)。






 上川原神道香取流は、毎年春と夏の2回、表の太刀のみが公開されるという。

 機会があればぜひ、現地でその妙術を拝見したいと思う。


■参考URL
上川原神道香取流棒術
http://www.city.kumagaya.lg.jp/kanko/rekisi/bunkazai/mukeiminzoku/boujutu.html

村落における武術伝承組織の検討:神道香取流を事例として
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjpehss/62/2/62_16102/_article/-char/ja

 (了)