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静かな日曜/(身辺雑記)

2018年 04月29日 23:51 (日)

 世間様は今日からゴールデンウィークらしいが、私には普通の日曜日。

 午前中、伊豆の温泉宿の原稿を1本執筆。250文字プラスデータ入力で4,000円ナリ。

 本日の業務はこれにて終了。

 夏野菜の揚げびたしと肉の天ぷらをちゃちゃっと作って、真澄の純米酒で昼から一人酒。

 先日録画しておいたBSの『鳴門秘帖』を鑑賞しつつ、つらつらと飲む。

 早見あかりが、イイネ。

 二合半(こなから)ほど呑んで、良いころ加減になってからひと風呂浴び、そのまま昼寝。

 夜から県立武道館が空いているとのことで、7時頃から一刻ほど武道場で柳剛流の居合と長刀(なぎなた)を稽古。

 帰宅後、残りの揚げびたしとサメの煮付けを肴に呑みつつ、Eテレで『八代目竹本綱太夫五十回忌追善・豊竹咲甫太夫改め六代目竹本織太夫襲名披露公演から「口上」と文楽「摂州合邦辻~合邦住家の段」』を鑑賞。

 昨日、住太夫死去のニュースを聞いたこともあり、織太夫の浄瑠璃がいちだんと染みる。

H30-2bunraku-dan-omote.jpg


 ひとしきり呑んだあと、どういうわけか無性にアイスクリームが食べたくなったので、歩いて5分ほどの場所にあるコンビニへ。

 木綿の一重の着流しに下駄履きで夜道を歩けば、夜風と月光がなんとも心地よい。

 なにはともあれ、私の世界は今日も平和だ。

 (おしまい)
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演武前の定例稽古/(柳剛流)

2018年 04月28日 23:59 (土)

 本日の定例稽古では、今週末の演武に向けて、みっちりと柳剛流の組太刀を行った。

 剣術では、特に「右剣」と「左剣」を何度も繰り返す。

 打太刀を執りながら、門人にポイントや修正点を1つずつ指導していると、

 「この2つの形は、柳剛流の初学の門であり、極意でもあるのだなあ」

 と、しみじみ思う。

 柳剛流といえば、「断脚之術」(脚斬り)と「跳斬之術」(跳斬り)であるわけだが、そのエッセンスのすべてが、この2つの形に凝縮されている。

 しかもそれだけでなく、脚斬りの弱点といわれる上段からの斬撃への対応、拍子の位、入り身の体捌き、受け流し、(受け技としての)抜き、正面斬り、袈裟斬り、小手斬りなど、柳剛流剣術の基本的な技が、この2つの形に全て組み込まれているのだ。

 往時の稽古では、切紙の許しを目指す初学者は、ひたすらこの2つの剣術形を鍛錬したというのも、実感として納得できる。

 剣術の次は、突杖(杖術)。

 柳剛流の突杖は、別名「突之刀法」とも呼ばれ、杖術の専門流派の形などに比べると、極めてシンプルで単純な技法となっている。

 打太刀の斬撃に対して、弾き、外し、留め、押さえ、そして突く。

 こうした簡素な業の体系に、私は柳剛流という「農民剣法」ならではの、質実剛健な勁(つよ)さを感じる。



 ひとしきり門人を相手に打太刀を執った後は、小半刻ほど柳剛流居合を抜く。

 先のブログでは、「最近はそこその間、稽古を続けられるようになった」、などとと書いたけれど、わずか30分間ながら、黙々と5本の形を抜き、飛び違いを続けていると、やはり結構な負担が足にかかるものだ・・・・・・(苦笑)。

 その後、再び打太刀を執り、さらに神道無念流立居合も指導する。

 こうして3時間の定例稽古は、あっという間に終了。

 心地よい疲労を感じながら、帰路についた。

 (了)

柳剛流居合と荒木流抜剣/(柳剛流)

2018年 04月27日 12:26 (金)

 今週は、もっぱら柳剛流の居合と長刀(なぎなた)の稽古に専念している。

 演武に向けて酒食を控えているからか、(ほんのちょっと)体が軽くなったこともあり、居合の体捌きがしやすくなったように思えるのは、気のせいではないと思う・・・・・・、多分。

 柳剛流の居合は、低い姿勢での飛び違いを用いながら斬撃を加えるため、下肢にたいへん大きな負荷がかかる。

 このため、師より初めて伝授していただいた際には、15分と続けて稽古をすることができなかったのだが、最近はそこその間、稽古を続けられるようになった。

 とはいえ、やはり下肢への負荷は大きく、翌日になるといささか足がつっぱる。

 それにしても面白いもので、柳剛流居合の稽古をしていると、どういう訳か無性に荒木流抜剣を抜きたくなる(苦笑)。

 これはまあ、典型的な自己逃避感覚というか、たとえば受験勉強で深夜に数学をやっていると、無性に古文の課題にとり組みたくなるようなものなのかもしらん。



 柳剛流居合も、荒木流抜剣も、いずれも最も難しいのが1本目の形だ。

 動作や形而下の術技としては、必ずしも1本目の形が複雑で難しいというわけではない。

 むしろ1本目の形は、両流ともにシンプルなものである。

 しかし、それぞれの流儀の居合に対する考え方、ある種の「信念」や「思想」というものが、最も色濃く形に秘められているのが、それぞれの一本目、柳剛流居合であれば「向一文字」であり、荒木流抜剣では「落花」であるように、私には感じられる。

 また、相対稽古が基本である剣術に比べ、ひとりで行う形稽古が主体である居合は、稽古をしていると自然に自己の内面に、意識が沈潜していく。

 これは居合ならではの心地よさであり、一方その心地よさに溺れてしまうと、武芸として片手落ちになってしまうところが難しいところだ。

 その点柳剛流は、表芸としてまず相対稽古を通して学ぶ剣術があり、剣術の鍛錬として居合を修練し、即応的な護身技として突杖(杖術)を会得し、最終的な極意として長刀があるという、総合武術である点に大きな魅力があるといえるだろう。

1804_柳剛流居合_向一文字
▲柳剛流居合 「向一文字」

 (了)

心技体を整えて/(柳剛流)

2018年 04月24日 10:46 (火)

 昨日は、真岡鐡道のSLもおかの原稿を執筆。

 入稿を済ませたのが夜9時すぎだったので、10時から柳剛流の稽古。



 まずは久々に真剣で、居合を30分ほど抜く。

 その後、剣術の稽古。しかし思った以上に「左剣」の跳び斬りの精度が悪く、いささか難儀をするが、なんとか小半刻ほどかけてきちんと跳べるように修正する。

 適切に跳べない原因は、腕で木太刀を振ろうとすることだ。

 それは頭で分かっているのだが、ここしばらく柳剛流の稽古がやや手薄だったこともあり、ついつい木太刀を腕で振って跳ぼうとしてしまうのである。

 柳剛流特有の「跳斬之術」においては、剣(木太刀)を腕で振るのではなく、剣そのものに導いてもらうように振らなければならない。

 それでは、どのようにして剣に導いてもらうか? 

 これについては実伝ゆえ、門人以外には内緒である。詳しく知りたい人は、ぜひ翠月庵に入門されたし(笑)。

 次は長刀(なぎなた)の形。

 過日、師より稽古用に、時代の物の木製の男長刀を譲っていただいたので、これを存分に振るう。

 それまでは、なぎなた連盟の稽古用薙刀を使っていたのだが、重量も太さも全く異なり、たいへんに重厚なものだ。

 しかし絶妙なバランスで、しばらく使っていると重さはさほど気にならない。また、時代の物特有の使いこまれた木の質感が、手になんとも心地よい。

 稽古の〆は、殺活術の穴所の確認。

 天道から虎走まで、18の殺点への当身をひとしきり単練し、稽古を終えた。



 その後入浴を済ませ、新たに入手した柳剛流の史料に目を通しつつ、軽く梅酒を3杯(飲み過ぎ・・・)。

 本日からは、来週末の本部での演武に向けて、少し体を絞っていくつもりだ。

 このため食事は、お粥を中心とした一菜一汁とし、平日の晩酌は止めよう・・・、と思っているのだが、晩酌の代わりに寝酒に梅酒をガブガブ飲んでしまうところに、己の精神力の弱さを実感する(苦笑)。

 なにはともあれ、演武に向けて心技体を整えていこう。

 (了)

柳剛流特有の鍛錬法「備十五ヶ条フセギ秘伝」/(柳剛流)

2018年 04月22日 22:57 (日)

 本ブログでは、すでに何度も触れていることだが、 「備之伝」とは柳剛流剣術における構え方についての教えであり、入門者に最初に伝授される基本の教えである。

 その上で目録の段階になると、この切紙で伝授された「備之伝」に対する勝口(かちくち/勝ち方)としての構えである「備十五ヶ条フセギ秘伝」という口伝が授けられる。

 これにより、彼我二人で相対し、一方の備之伝の構えに対して、一方はフセギ秘伝の構えで応じるという、相対稽古が行われる。

 これは、柳剛流独自の稽古法であり、他流には類をみない非常に珍しい稽古法のひとつだといえよう。



 昨日の稽古では、ある門人がケガで左ひじを痛めていたことから、組太刀の稽古はせず、もっぱらこの「備之伝」と「フセギ秘伝」の相対稽古を行った。

 この稽古を繰り返し、相手の千変万化する構えに対して、頭で考えることなく、体で反射的に応ずる構えをとれるようにならなけばならない。

 加えてそのフセギの構えで、どのように相手の太刀筋を制するかを吟味していかなければならない。

 その上で最終的には、単に相手の構えにフセギの構えで表面上応じるだけではなく、全ての構えにおいて相手の「正中」を制し、我の「位」で彼の意図を未発のうちに制する(先々の先)という、心法を錬らなければならない。

 これは、ある意味で打ち合いの無い彼我の自由攻防であり、形と撃剣の間を結ぶ、重要な鍛錬法である。

 実際のところこの稽古を繰り返すと、思った以上に内面的に負荷のかかる鍛錬であることが実感できる。

 稽古においては、まずは順序を追った相手の構えにそれぞれ応じる構えをとることを繰り返し、次いで相手が任意にとる構えに応じる稽古を積み重ね、最終的には相手がどのように構えを変化させようと自在に応じ、常に相手を制することができる「位取り」を得ることを目指さなければならない。

 単独稽古の場合も、鏡に写る己の構え、あるいは虚空に相手の構えを想起し、それに応ずることを繰り返す鍛錬を積み重ねる。

 こうしたメソッドが流祖以来、口伝として代々伝承されていることは、仙台藩角田伝 柳剛流の大きな魅力であり、文化的な意義でもあるといえるだろう。

1709_松代演武_柳剛流剣術

 (了)

次の「場」へ/(柳剛流)

2018年 04月19日 10:56 (木)

 苗木城での演武が終わり、次は、来月に行われる国際水月塾武術協会本部の演武だ。

 岐阜での演武に向けて3月下旬からは、神道無念流立居合と手裏剣術の稽古に専念してきたが、今週からは再び柳剛流の稽古に主眼を戻す。

 また昨年までは、本部の演武は私のみの参加であったのだが、今年は師の御許可の下、翠月庵門下のY氏とU氏も参加させていただき、柳剛流の演武を奉納させていただく予定である。

 このため私は、自分の演武では師に打太刀を執っていただくのだが、門下に対しては自分が打太刀を務めなければならない。

 演武において打太刀を執るというのは、仕太刀を務めるのとはまったく違った心持ちであり、ある意味で自分が仕太刀を執る以上に厳しいものが問われる。



 私は演武イコール(形而上的な)真剣勝負であると捉えているが、それはあくまでも日常の稽古の延長線上にあることもまた、ゆるぎのない事実だ。

 ゆえに、演武があるからといって、特段、いつもと違った稽古をするわけではない。

 これまで通り粛々と、流祖・岡田惣右衛門が編み出した剣を振るい、居合を抜き、杖を突き、長刀(なぎなた)を執るのみである。

 では、次の「場」へ向けて、稽古を続けよう。

1705_演武_柳剛流長刀
▲柳剛流長刀 「右首巻」
 

 (了)

平成30年度苗木城武術演武会/(武術・武道)

2018年 04月17日 07:51 (火)

 先週末に行われた「平成30年度苗木城武術演武会」は、つつがなく終了した。

 今回、演武した内容は以下の通り。

1.手裏剣術/3間打ち
2.同/4間打ち
3.同/運用形
4.同/刀法併用手裏剣術
5.八戸藩伝神道無念流立居合十二剣


 当初、手裏剣術は3間打ちと刀法併用手裏剣術のみを披露する予定であったが、演武時間が予想以上にとれることになったため、急遽、4間打ちと運用形(突進)を披露。

 最初の3間打ちから刀法併用まで、個人的には「まあまあ」の出来であった。

 つまり、まだまだ百発百中には及ばないということである。さらに精進せねば。

 手裏剣術の後は、八戸藩伝神道無念流立居合十二剣を披露。

 こちらは最初の刀礼から12本の形、そして終わりの刀礼までを全て行った。

 神道無念流立居合を演武で披露するのは初めてだったこともあり、やや硬いところがあったかもしれない。これもまた、今後に向けて精進していかなければならぬ。

 自分の演武後は、戸山流居合抜刀術美濃羽会中津川稽古会の皆さんの演武。

 基礎居合から斬り、小太刀、鎗などの妙技をじっくりと拝見させていただいた。



 こうして、今年の苗木城での演武も無事終了。

 来年に向けて、再び稽古を積み重ねていこう。

 (了)

西へ/(武術・武道)

2018年 04月14日 03:50 (土)

 本日は毎年恒例となっている、岐阜県中津川市にある苗木城での演武だ。

 今回は諸般の事情で、翠月庵/国際水月塾武術協会埼玉支部としては、私ひとりでの参加である。

 演武は年間で4回ほどあるが、手裏剣術を披露するのは、この苗木での演武のみだ。

 考えてみると、演武で初めて手裏剣を披露したのは今から11年前、2007年の香取神宮における奉納演武であった。

 この時はまだ、手裏剣屋としてはひよっこだったので(笑)、間合2間からの逆体の打剣と刀法併用手裏剣術を披露した。

 今思えば、間合い2間からの打剣など、手裏剣術者としてひと様の前で披露するようなレベルのものではないのだが、それでも50人以上の他流武術家の前で行う手裏剣の演武の緊張感は、なまなかなものではなかった。

 以来、10年が過ぎ、手裏剣術の演武は何度も行ってきたけれど、何回やっても緊張することに変りはない。

 これまで苗木での演武では、4間打ちや脇差を打つ飛刀術なども披露してきたけれど、今日は原点に還って基本のシンプルな3間打ちを行うつもりだ。



 手裏剣の演武に加え、昨年は柳剛流の剣術や突杖、居合を演武したのだが、今年は私ひとりでの参加ということから、八戸藩伝神道無念流立居合十二剣を披露する。

 神道無念流の立居合は、柳剛流に次いで師に伝授していただいたものだ。

 柳剛流には居合があるけれど、立合での抜刀術がないので、両者の併修はバランスもよいだろうとのことで、以来、柳剛流の稽古と合わせて取り組んできた。

 逆袈裟の抜打ちと袈裟斬りの二の太刀を中心に構成される、八戸藩伝の神道無念流立居合は、他系統の神道無念流の立居合とは、かなり趣きが異なるという。

(実は私は、他系統の神道無念流の立居合を拝見したことが無いので、どう違うのかあまり実感していないのであるが・・・)

 いずれにしても師伝に恥じない演武を披露すべく、ここ数週間は門人に柳剛流を指導する以外、自分の稽古では手裏剣と神道無念流の稽古に専念してきた。

 すでに手裏剣の切先は研ぎあげ、刀の目釘も打ち換えた。



 では、西へ向かうとしよう。


 切り結ぶ太刀の下こそ地獄なり
             踏み込んでみよ極楽もある(柳剛流 武道歌)



140106_円明流手裏剣1


 (了)

柳剛流、海を渡る ― ハワイの柳剛流剣術師範・古山伴右衛門/(柳剛流)

2018年 04月10日 23:00 (火)

 柳剛流は流祖以来、全国各地に伝播したが、大正時代には遠くハワイにまで、その教線が広がっていた。

 大正5(1916)年、ハワイの日本人移民に対する剣道指南役として、柳剛流剣術師範であった古山伴右衛門(1857-1924)が宮城県庁から派遣され、ハワイ島で400人におよぶ日系移民に指導をしていたという。

 古山伴右衛門は、仙台藩南西部にある白石の人で、ハワイに渡る時点で58歳、宮城県警の剣道師範であった。

 伴右衛門の御令息で、大正10(1921)年にハワイへ渡った古山忠一氏は、当時の稽古を振り返り、次のように語っている。

私の父が指導していたのは柳剛流剣術で、最後は相手の足を打つものです。小手を打ったあと足を打ち、胴を打ったあと足を打つものですが、今のなぎなたとはスタイルが違います。(『剣道日本』1992年3月号)




 古山伴右衛門の出身である刈田郡白石は、同じ仙南の伊具郡角田に隣接しており、伴右衛門が12歳のときには仙台藩の分割によって、白石も角田も共に白石藩(県)となっている。

 こうしたことから想像の翼を広げると、古山伴右衛門が学んだのは仙台藩に伝わった柳剛流の中でも、仙北で興隆した登米伝ではなく、伊達家筆頭家老である石川家に伝わり成教書院(石川家の師弟を教育する文武学校)で代々稽古されてきた、岡田(一條)左馬輔直系である仙南の角田伝柳剛流だったのではないだろうか?

 だとすれば、この時期であればおそらく、泉冨次師範やその高弟たちの薫陶を受けた可能性が高い。

古山伴衛門
▲『図説ハワイ日本人史』に掲載されている、古山伴右衛門の写真と履歴(注)


 以上、少ない史料からかなり想像を広げたけれど、平成の今も私たちが伝承し稽古を続ける仙台藩伝の柳剛流剣術を修めた先人が、およそ100年前に58歳という高齢ながらも海を渡り、異国の地で柳剛流の剣技を指南していたというのは、柳剛流史の一端を彩る浪漫あふれるエピソードのひとつといえるだろう。



(注)1985年発行の『図説ハワイ日本人史』では、古山伴右衛門の名前が「半右衛門」となっているが、1992年発行の『剣道日本』に掲載された古山忠一氏の記事では、「伴右衛門」と表記されているので、本記事では「伴右衛門」とした。
 また没年についても、『図説ハワイ日本人史』では、大正11(1922)年となっているが、忠一氏は『剣道日本』の記事の中で「父が死んだのは大正13年」と発言しているので、本記事では没年を大正13(1924)年とした。



■引用・参考文献
『増補・改訂 宮城県 角田地方と柳剛流剣術-日本剣道史に残る郷土の足跡-』/南部修哉/私家版/2016年
『剣道日本』1992年3月号
『日本剣道史 第十号 柳剛流研究(その1)』森田栄/日本剣道史編纂所/1973年
『図説ハワイ日本人史』ビショップ博物館/1985年
ブログ『楽園ハワイ島in2017/柳剛流剣道指南』
(https://blogs.yahoo.co.jp/aiexem/45318911.html)
ブログ『楽園ハワイ島in2017/柳剛流 剣道師範 「古山半右衛門」さん-100年前の足跡を求めて-』
(http://strobila57.rssing.com/chan-30680166/all_p1.html)

 (了)

古の有様に心安くてこそあらまほしく侍れ/(武術・武道)

2018年 04月08日 11:46 (日)

 ネットで武術関係の書き込みや記事などを読んでいると、本当にいろんな人がいるなあと、しみじみ思う。

 私など、せっかく江戸時代から続く武芸を稽古しているのだから、できるだけ流派の史実についても知りたいと思うのだが、「自流の歴史には、まったく興味がない」と断言する人がいる。

 また、古流武術というのは近代よりも前の社会の有職故実、動作や慣習などと密接な関係にあり、業はもとより流儀固有の礼法や作法も貴重な無形文化・身体文化だと思うのだが、「流儀の礼法や作法には関心がない」と明言する人もいる。

 あるいは、流儀の「業」には関心があり稽古はするが、伝承や普及、後進の育成はどうでもよいという者もいる。己の上達にしか関心が無いというタイプだ。

 当然ながら、稽古をする動機は人それぞれなので、流儀の事績に関心がないのも、礼法・作法に興味がないのも、伝承や普及はどうでもよいと考えるのも、ひとりひとりの自由だ。

 しかし、古流武術を指導する立場から言えば、もし自分の弟子にこうした考えを持つ者がいたとすれば、その者の師としてまことに残念であるし、流儀を愛する者としてたいへんに悲しく思う。



 たとえば柳剛流にも、固有の礼法がある。

 それに対して、関心が無いと心の中で思うのは自由だが、(他者の内心は規制できないし、内心の自由は誰にも侵されるべきものではない)、指導者は稽古においてそれを弟子に尊重させなければならないし、流儀の礼法を正しく行ずることのできない者には、どんなに「業」が上手かろうと、稽古年数が長かろうと、切紙や目録、免許といった伝位を与えないのは当然のことだ。

 そして古流の武術では、伝位ごとに学ぶことの許される「業=形」が決められているのが一般的であり、伝位が与えられないということは、実際の稽古において初心者向け以上の上級の形や業、口伝が伝授されないということである。

 つまり、流儀の礼法や作法を重んじない者は、少なくとも柳剛流の先人が云うところの“吾が党”においては、永遠に初歩の稽古しかできないということだ。



 根源に「制敵」という大目的がある武芸の修行が、「業」や「術」の鍛錬に偏るのはある意味で仕方がないことである。自分自身を振り返っても、若い頃から流儀の作法や礼法、有職故実や事績を、今ほど重んじてきたわけではない。

 また、どんなに作法や礼法が(一見)見事であり、事績に関する蘊蓄が豊富であっても、肝心の「業」や「術」のレベルが低く、武人としての「肚」が錬られていない者は、他流に侮られるどころか、素人の粗野な暴力にすら圧倒されてしまうだろう。

 それでは到底、武人とは言えまい。

 武術における礼法や作法、知識というのは、あくまでも根底に武力による「威」があってのものだ。

 だからこそ古流武術の指導者は、門人に対して、武術として通用する「業」と「肚」を練り上げさせると同時に、流儀における礼法や作法の意義、事績を学ぶことの大切さ、伝承し次代に伝えることの重要性を、折に触れて言い聞かせ、啓発していかなければならない。



 業や術に偏った指導は、「規範意識の低い反社会的人物」を生み出すことになりかねない。

 一方で作法や知識に偏った指導は、「見かけ倒しの橙武者」を育てるだけだろう。

 反社会的人物も、橙武者も、いずれも“吾が党”には不要である。

 武術・武道に携わる者は、「事」と「理」に対する中庸の徳を、能々吟味するべきであろう。


1804_柳剛流礼法2
▲仙台藩角田伝 柳剛流の礼法。形を行ずる際には、所定の動作をもって必ず股立をとる


 (了)

あざみの如く刺あれば/(身辺雑記)

2018年 04月07日 22:45 (土)

 本日は、翠月庵での稽古。

 5月の水月塾本部での演武に向けて、門下に柳剛流と神道無念流を特訓。

 一方で私も、来週末に岐阜での演武があるため、3間打ちと神道無念流に集中する。

 演武前の、この緊張感が、厳しくも心地よい。



 帰宅後、独り草庵で、献杯。

 明日で父の1周忌である。

 昨年、父死亡の連絡を聞いたのは、演武のために前泊していた岐阜であった。

 翌日が野辺の送りであったが、それらは兄妹に任せて立ち合わず、私は演武で手裏剣を打ち剣を振るっていた。

 もともと、幼少の頃から故あって離れて暮らしていたこともあり、縁や情の薄い父と子であった。

 このため、父親らしいことをしてもらったことはなく、また子供としての親孝行もしようとは思わなかった。

 あれから1年がたち、今思えば火葬に付す前に、死に顔くらい見ておけばよかったかなとも思うが、48年に渡る恩讐は、センチメンタルに水に流すにはあまりに重い。

 とはいえ、死んでしまえばみな仏様である。

 大鹿歌舞伎の景清の台詞ではないが、

 「仇も恨みも、是まで、是まで」

 ということか。

 来月は母の2周忌なので、母の墓参の際に、“ついで”に親父の墓にも線香ぐらいあげてやろうかと思う。



 (了)
 

翠月庵のメールアドレスを変更しました/(身辺雑記)

2018年 04月05日 00:01 (木)

 翠月庵のメールアドレスについて、以前から変更しなければと考えていた。

 これまでのアドレスは、当庵の前身である旧武学倶楽部の名称が入っていたり、アンダーバーが入力しづらい、「j」が「i」のように見えて紛らわしいといったご意見もいただいていたからだ。

 そこで、年度も新しくなったことであり、思い切って変更した次第。

 新しいアドレスは、

 suigetuan2007-mail@yahoo.co.jp

 です。

 ちなみに、ホームページアドレスの一部は「suigetsuan」とヘボン式表記ですが、メールアドレスは「suigetuan」と訓令式にしておりますので、お間違えなく。

 また、新しいメールアドレス宛にメッセージを送信したのに、1週間以上返信がないという場合は、翠月庵HPの掲示板にその旨をかき込んでいただければ幸いです。

 なお、私個人のメールアドレスは変わっておりませんので、今までそちらのアドレスでやり取りをさせていただいていた皆さんについては、特に変更はありません。

180401_093056.jpg


 (了)

改めて、「柳剛流」の正しい読み方について/(柳剛流)

2018年 04月04日 12:15 (水)

 少なくとも、仙台藩角田伝や武州系統の柳剛流は、

 「Ryûgô Ryû」

 ではなく、

 「Ryûkô Ryû」

 である。

 角田伝および角田地方での複数の口承、武州系の代表的師範家である岡田十内の末裔岡田家における口承、石川家文書として伝えられている『柳剛流目録』に記された振り仮名、大正2(1913)年発行の『至誠・第5客/海上胤平翁』に記された振り仮名のいずれにおいても、

 「りゅうごうりゅう」ではなく「りゅうこうりゅう」

 と、されている。

 このため、江戸期の武術関係の英名録などでは柳剛流の当て字として、

 「流行流」や「柳行流」

 といった表記で記されている古文書(埼玉県越谷市の福井家文書など)も残されている。



 柳剛流を修行し継承する者のひとりとして、世間に広く流布してしまった流儀名や流祖名の誤りは、看過することができない。

 正しい伝承を、できるだけ広く啓発して行きたいものだ。


180404_114437.jpg
▲宮前華表太の流儀を継承した、石川良助の末裔・石川家に伝わる、振り仮名を記した『柳剛流剣術目録』


■参考文献
『浦和における柳剛流』山本邦夫/「浦和市史研究」第2号
『幸手剣術古武道史』辻淳/剣術流派調査研究会
『戸田剣術古武道史』辻淳/剣術流派調査研究会
『柳剛流剣術古武道史 千葉・東金編』辻淳/剣術流派調査研究会

 (了)

残花を賞す/(身辺雑記)

2018年 04月03日 01:01 (火)

 今年度から毎月第一月曜の夜に、県立武道館で空手の月例稽古が行われるというので参加する。

 初回である今回は、師範4名に生徒4名という、なんともゴージャスな組み合わせでの稽古となった。

 私はマスターズ全国大会の組手優勝者であるK先生に、久々にマンツーマンで打ち込みの相手をしていただいた。

 初心に帰って基本のワン・ツーから、相手の前拳を捌いての右逆突き、同じく前拳を捌いての左逆突き、さらに組手時の痛め受けや、ちょっとここでは書けない裏技などをご指導いただく。

 この痛め受けと内緒の裏技、昨日の短棒術の染み入るような痛みとはまた違った、いかにも空手らしい「どつかれて痛い」技であった。

 これを試合組手で使うというのは、なかなかにワイルドだと思う(苦笑)。

 打ち込みの後はミット打ち、そして糸東流のA先生にセイエンチンの形を指導していただく。

 稽古の〆は、セイエンチンにある繰り受けからの猿臂打ちについて、分解を解説していただいた。こうした肘の使い方は、柳生心眼流と共通する点もあり、たいへん興味深いものであった。
 


 帰宅後は名残りの桜と共に、今晩は酒ではなく茶を服す。

 たまには飲まない夜もある。

 それにしても、もう花も終わりだねえ・・・・・・。

1804_桜



花下に酔う
      李商隠

 芳を尋ねて 覚えず 流霞に酔う
 樹に倚り沈眠して 日 已に斜めなり
 客散じ 酒醒む  深夜の後
 更に紅燭を持して残花を賞す



 (おしまい)

4月の水月塾本部稽古~渋川一流、柳剛流、甲陽水月流/(武術・武道)

2018年 04月02日 10:57 (月)

 昨日は、水月塾本部での稽古。

 数日前から、ドイツ・ベルリン支部長のカルステン師範が2名の門下の方々とともに本部に来訪しており、今回は私も共に稽古をさせていただいた。

 午前中は、カルステン師範と門下のS氏が学んでいる渋川一流の稽古に、私も加えていただく。

 渋川一流の形を学ぶのは初めてであったが、古流ならではの質実剛健な業の趣きを感じることができた。



 昼食後は、一同で近隣にある富士山眺望の名所へ。

 300数十段の急階段の上り下りは、ちょっとした鍛錬である。

 こちらの展望台から稽古場への帰路、清流沿いに青々とした見事な柳の木があり、「ああ、柳剛流だ・・・」としみじみ思う。

 我ながら、本当に物狂いである(苦笑)。

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 午後は、師に打太刀を執っていただき、柳剛流の稽古。

 剣術、突杖、長刀をみていただいた。

 また、本部師範代のOさんに2尺8寸の差料をお借りして、柳剛流居合を抜く。

 柳剛流の居合の稽古は、やはりこれくらいの長さの刀で行わないとしっくりこない。頑張ってお小遣いを貯めて、私も2尺8寸の居合刀を作らねば。

 稽古の〆は、師より甲陽水月流短棒術の奥伝を2手、御指南いただく。

 これがまた、実に痛い。

 いつもながら、骨に染み入るような痛さであるだけでなく、技法としてかなり危険なものであり、「奥伝の業はすさまじいなあ」と、しみじみ思った次第。



 稽古後は、師やベルリン支部の皆さんなどに同道させていただき小宴。

 いつものごとく、私は酩酊。しかし、酔っ払っても英語はなかなかうまくならないものだ。

 ディファレントとディフィカルトの違いが・・・・・・。

 ひとしきり酒宴を楽しんで、良い頃加減に酔っ払いながら武州への帰路についた。

 (了)