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皆既月食/(身辺雑記)

2018年 01月31日 22:10 (水)

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 見えた!

 (おしまい)
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指南する者の覚悟/(柳剛流)

2018年 01月30日 23:00 (火)

 先日の水月塾本部稽古では師に打太刀を執っていただき、埼玉支部門下一同、一人ひとり丁寧に稽古をつけていただいた。

 水月塾の稽古では、現代武道に見られるような集団指導は一切なく、稽古者が何人いようと、門人に対して師が打太刀や受けを執ってくださり、個別指導での形の修行を通じて古(いにしえ)を稽(かんがえ)る。 

 このため今回の稽古では、自分が直接師より指導をしていただくのはもちろん、当庵門下のY氏やU氏が指導を受けている様子についてもしっかりと見取り稽古をさせていただき、普段の自分の指導の至らなさや業前の不足について、改めて反省することしきりであった。

 それでも稽古後に師より、「埼玉支部は皆、しっかりと柳剛流の稽古をしているようだね」とのお言葉を賜り、支部を預かり柳剛流を指導する者として、なんとか胸を撫でおろすことができた。



 門人を受け入れて武芸を指導する以上、必ず彼らの業前を上達させなければならない。

 これは、指南をする者の責務である。

 しかもその上で、自分自身もひとりの武芸者として、稽古を積み重ねていかなければならない。

 武芸を指南する者は、単に己だけが上達すればよいというものではないのだ。

 その覚悟と責任感が無いのなら、弟子など取らず、ただ己を叩きあげていけばよいのである。

 しかしそれでは、流祖以来脈々と続いてきた流儀の道統を、次代につなげることはできないだろう。

 流祖・岡田惣右衛門が編み出した、柳剛流というかけがえのない古流武術を次の世代に伝えるために、門下の上達を促し、己自身の業前もより見事なものとするよう、さらに精進をしていかなけばならない。

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▲柳剛流剣術の神髄である、流祖・岡田惣右衛門伝来の「断脚之術」

 (了)

1月の水月塾本部稽古~柳剛流、甲陽水月流/(武術・武道)

2018年 01月29日 21:33 (月)

 昨日は水月塾本部での稽古であった。

 今回は埼玉支部の門下として、当庵のY氏とU氏も参加し、午前中は柳剛流の稽古。

 師に打太刀をとっていただき、Y・U両氏は剣術を、私は剣術・突杖・長刀をご指導いただく。

 昼食後は伝書講義。今回は柳剛流を剽窃した流儀である加賀の水野一傳流をはじめ、中将流、さらに姫路支部長の西躰師範が持参された各種の伝書類も拝見させていただく。

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▲柳剛流をほぼそのまま剽窃している水野一傳流の初伝伝書



 午後は、水月塾制定の日本柔術(甲陽水月流)の稽古。中伝逆取を復習する。

 稽古後は、師に同道させていただき、居酒屋にて皆さんとの小宴。

 全員うわばみの埼玉支部一同は、いつものごとく鯨飲馬食し、千鳥足で武州への帰路に着いた。

 (了)

土曜の夜/(身辺雑記)

2018年 01月28日 00:02 (日)

 かつて芭蕉は、道祖神のまねきにあいて取るもの手につかず、股引の破れをつづり、笠の緒付かえ、三里に灸すえて、おくのほそ道に向かった。

 いま流れ武芸者は、稽古のまねきにあいて取るもの手につかず、古袴の破れをつづり、柳剛流の長木刀を持ち、右ひじと膝にサポーターをつけて甲州へ向かう。

 それにしても、裁縫は苦手だ・・・・・・。

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  ~落武者の明日の道問う草枕(翠桃)~



   (おしまい)

柳剛流の目録にみる、形名の異字・当て字/(柳剛流)

2018年 01月25日 10:24 (木)

 伝書のような古文書を読んでいて悩ましいのが、読み方や意味・意義などが同じながら漢字の一部が異なる、異字や当て字だ。

 昔の人はかなり文章における文字の表記統一に大らかだったようで(苦笑)、現代人としては戸惑うことが少なくない。

 柳剛流の伝承についても、こうした異字や当て字がみられる。



 たとえば東日本に伝播した大多数の柳剛流(武州系・仙台藩伝など)では、多くの場合目録の階梯において、「当流之極意」と称する柳剛刀という剣術形6本が伝授される。

 それらの名称は一般的には、以下の通りである。

・飛龍剣
・青眼右足刀
・青眼左足刀
・無心剣
・中合刀
・相合刀


 一方で、我々が稽古している仙台藩角田伝柳剛流の佐藤健七先師系統の伝承では、これら6本の形の表記は、以下のようになっている。

・飛龍剣
・青眼右足頭
・青眼左足頭
・無心剣
・中合剣
・相合剣


 つまり、青眼右足刀と青眼左足刀については「刀(トウ)」という文字の代わりに「頭(トウ)」という文字が当てられ、また中合刀と相合刀ではぞれぞれの「刀(トウ)」の文字が「剣(ケン)」という文字に置き換えられているのである。

 しかし、同じ仙台藩角田伝の柳剛流でも、明治末から昭和の初めにかけて、角田中学校剣術師範を務めた斎藤龍三郎先師が、大正13年に南部雄哉氏に伝授した目録を見ると、「青眼右足刀」「青眼左足刀」という一般的な書き方で、トウという読みに「頭」という文字は当てられていない。

 また、中合剣ではなく中合刀、相合剣ではなく相合刀と、佐藤健七先師系とは異なり、これら2つの形名では「剣」ではなく「刀」となっている。

 武州系各派の柳剛流伝書を見ても、このように「刀」を「頭」という文字で当てた伝書はまったく見当たらず、また中合刀・相合刀の2つについて「刀」ではなく「剣」として表記しているものも見当たらない。

 ところが武州系の柳剛流の中でも、柳剛流と天神真楊流を合わせて創始された中山柳剛流の目録では、青眼右足刀(頭)は「青眼右足剣」、青眼左足刀(頭)は「青眼左足剣」となっているのも興味深い。

 その上で、現在唯一確認されている流祖直筆という柳剛流目録の表記、佐藤健七先師系の仙台藩角田伝柳剛流、武州系および齊藤龍三郎先師系の仙台藩角田伝柳剛流、中山柳剛流、そして紀州藩田丸伝の5つの目録の表記を比較すると、次のようになる。


柳剛流各派における、目録剣術形名の異字・当て字の例

※流祖直筆(A)、佐藤健七先師系(B)、武州系・齊藤龍三郎先師系(C)、中山柳剛流(D)、紀州藩田丸伝(E)

青眼右足刀(A)/青眼右足頭(B)/青眼右足刀(C)/青眼右足剣(D)/青眼右足刀(E)
青眼左足刀(A)/青眼左足頭(B)/青眼左足刀(C)/青眼左足剣(D)/青眼左足刀(E)
中合刀(A)/中合剣(B)/中合刀(C)/なし(D)/ 中合刀(E・ただし切紙で伝授)
相合刀(A)/ 相合剣(B)/相合刀(C)/なし(D)/相合刀(E・ただし切紙で伝授)





 古流の伝書類におけるこうした異字・当て字は、武芸としての「業」や「術」の本質にはあまり関わりのないところであるが、近世における日本の技芸の伝承や文化を考える上では、とても興味深い点ではないかと思う。

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▲明治38(1905)年9月に、今井(林)右膳系の師範である古山半右衛門が、笹谷源四郎に出した「柳剛流剣術目録」。ここでは、「頭」の当て字、「刀」の「剣」という字への置き換えはなく、最も一般的な武州系の柳剛流目録に見られる表記となっている

 (了)

初春歌舞伎公演「通し狂言 世界花小栗判官」/(身辺雑記)

2018年 01月24日 08:26 (水)

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 今年の初観劇。

 国立劇場は新春らしく、たいへん華やいだ雰囲気であった。

 今回の小栗判官は、立ち回りあり、ロマンスあり、人情あり、笑いあり、涙あり、そしてオカルトありと、実に歌舞伎らしい楽しさにあふれる演出が印象的だ。

 歌舞伎は、いいなあ。


 (おしまい)

空手道寒中稽古/(武術・武道)

2018年 01月20日 09:50 (土)

 今週は、私が所属している県連の空手教室の寒中稽古・・・だったのだが、仕事が忙しくて結局昨晩の稽古のみ参加。

 県立武道館の主道場で、みっちり絞られる。

 私は、今年初めての空手の稽古でもあったので、いやはやなんともフィジカル的にきつかった。

 移動基本は堪えるネ(爆)。



 現在の住まいに転居した際、それまで所属していた流派を退き、たまたま見つけたこの空手教室に参加するようになって早や6年。

 そもそもが県連のアンテナショップ的な位置づけの教室であり、初心者向けの稽古会だったため、私が参加し始めた当初、一般部の参加者は全て初心者だった。

 それから時は流れ、昨晩の寒稽古ではこの空手教室生え抜きの黒帯が2人、他流・他会派から稽古に来る黒帯が2人、そして万年弐段(もう15年近く昇段審査を受けていない・・・)の私を含め、一般部に参加する有段者の数は5人となった。

 やはり、大人の黒帯がある程度の人数いると、稽古が引き締まるというものだ。

 以前も書いたが、この教室は県連主催のため、糸洲流、玄制流、剛柔流、糸東流など様々な流派の先生方が指導に当たることから、自分の学んだ流派以外の形や業を学ぶことができるのが魅力だ。

 昨晩は、糸洲流のN先生に平安をご指導いただくが、私が学んできた玄制流の平安とは大きく異なるので、戸惑いが大きく、しかし楽しい。

 またN先生は、古いスタイルの形の分解についても丁寧に指導してくださるので、私のような、もう競技に出場しない(最後に組手と形の試合に出たのは、もう7年前か・・・)市井の中年空手愛好家にとっては、たいへんモチベーションの高まる稽古となる。

 今回の稽古では猫足立ちからの隠し技としての下段前蹴り、上段突きの際の正拳と縦拳の使い分け方、空手道の基本的な呼吸法と組手時の呼吸の読み方などについてご指導をいただき、たいへんに勉強になった。



 空手道の修行について、私はもう昇段や競技会出場を目指すつもりはない。

 なぜなら私の今、そしてこれからの武術人生の本義は、あくまでも柳剛流を中心とした古流武術だからだ。

 しかし市井のいち愛好家として、空手道の稽古はこれからも細く長く続けていくつもりである。

 思い切り突き、存分に蹴り、自由に体と体がぶつかり合う空手の稽古は、本当に爽快で楽しい!

 (了)

必勝を求めずして、自然に勝つべきに於いて勝つ/(柳剛流)

2018年 01月19日 09:33 (金)

 日々の暮らしの中で行き詰まることがあると、そこに何かの啓示がないかと柳剛流の伝書を味読する。

 こうなるともう私にとって柳剛流は、ある種、宗教のようなものであるけれど(苦笑)、流儀の修行に専心するというのは、そういうことではなかろうか。



 一般的に、武州系の各派、そして明治以降の仙台藩角田伝の柳剛流では、切紙、目録、免許のいずれも、おおむね同様な文面になっており、たとえば目録の前文は親流儀である心形刀流の伝書文面とほぼ同じである。

 ところが、流祖・岡田惣右衛門の直門である2代岡田左馬輔直筆の、初期の仙台藩角田伝柳剛流の伝書は、切紙、目録、免許の何れも、武州系の各派や明治以降の角田伝の伝書類と大きく異なる文面となっているのが興味深い。

 この点については、稿を改めて考察してみたいと思う。



 仕事で理不尽極まりないたいへん不愉快な出来事があり、先夜、思うところあってつらつらと角田伝系の柳剛流伝書を読んでいたところ、以下の一文が心に留まった。

 曰く、

敵の盈虧(えいき)を察し、必勝を求めずして、自然に勝つべきに於いて勝つ。何を以てか之を譬えん。其の際に髪を容れるべからず。



 必勝を求めずして、自然に勝つべきに於いて勝つ。

 勝とう勝とうという我執を棄て、天地の道理に従うことでおのずから勝ちを得る。

 周易でいえば、「无妄」ということか。

 たしかに道理に従ってやるべき事をやり遂げれば、有象無象に惑わされることなく、成果はおのずから得られるというものだ。

 道理に沿った「道」を行くことで、自然に勝つべきに於いて勝つ。

 先人の教えをかみしめながら、また今日を生きよう。

180119_柳剛流目録

 (了)

柳剛流剣術における「太刀の道」/(柳剛流)

2018年 01月16日 00:00 (火)

 この季節の、凛とした寒気の中での稽古が好きだ。

 今晩も柳剛流剣術の稽古を通じて、「太刀の道といふ事」を考える。



 「右剣」や「左剣」、「青眼右足刀」や「青眼左足刀」といった、柳剛流ならではの跳斬之術を伴う激しい動きの中で、

あげよき道へあげ、横にふりては、よこにもどりよき道へもどし、いかにも大きにひぢをのべて、つよくふる事(『五輪書』 水之巻より)


 を心掛ける。



 たとえば、柳剛流に欠かせない飛び違いながらの斬撃において、下半身の安定が崩れてしまう場合は、腕力で不自然に太刀を振り回していることが多い。

 逆に「太刀の道」に正しく従えば、4尺4寸2分の長木刀でも腕力に頼らず振るうことができ、足で地を蹴ることなく飛び違いができる。

 こうした点に留意しながら、風のない澄んだ真冬の星空の下、小半刻ほどの短い時間であるが存分に木太刀を振るった。

1801_柳剛流目録



 さて、明日も書かねばならぬ原稿が山積だが、頑張ろう。

 (了)

茶の湯の極意から~『山上宗二記』より/(武術・武道)

2018年 01月14日 17:40 (日)

 知命之年まで、あと2年となり、最近はこれからの自分の武術人生について、ふっと想いを致すことが少なくない。

 何歳まで稽古ができるのか?

 どこまで上達ができるのか?

 どれだけの後進を育てていけるのか?

 そもそも、なぜ、武芸に打ち込むのか?

 いずれにしても、稽古と思索に与えられた時間には限りがあり、しかもそれはけして長く無尽蔵なものではない・・・・・・。

 だからこそ今は、一度一度の稽古を大切に、実のあるものにしていかなければならない。



 千利休の高弟であった山上宗二は、茶の湯の極意を次のように語っている。

常の茶湯なりとも、路地へはいるから立つまで、一期に一度の参会の様に、亭主をしっして威づべきとなり。公事の儀、世間の雑談、悉く無用なり。



 武芸の修行も同様に、その日その時の稽古を「一期に一度」のものとして深く心を注ぎ、「術」と向き合い、修行に無用な雑事雑念を日々そぎ落としてゆくことが、極意への道なのであろう。


 山上宗二は、茶湯者の至高の在り様について、

 「枯れかしけ寒けれ」

 「極月冬木の雪、遠山に似たるか」

 とし、師である利休については、

 「宗易茶湯も早、冬木なり」

 し評している。

 壮年期の武芸者の在り様も、「冬木」のようでありたいと私は思う。

 
  ~住所もとめかねつつあづまじさして
            行くはこじきに猶もなりひら~(山上宗二)


  (了)

武具の安全管理/(武術・武道)

2018年 01月12日 12:37 (金)

 少数とはいえ、門下に武技を指導する以上、事故やケガの防止、安全にはできるかぎり配慮している。

 これは原則的に徒手で行う柔術はもとより、刀や手裏剣など殺傷力のある武具を扱う剣術や居合、手裏剣術の稽古においては、なおさらだ。

 たとえば手裏剣について、長年打っているとどうしても慣れが出てしまい、安全についての配慮がおざなりになってしまう傾向があるのだが、先端のとがった鋼鉄の塊を全力で的に叩きつけるのであるから、安全管理が大切であるのは言うまでもない。

 「人や生き物に向かって打たない」ことは当然だが、「(的の後方も含めて)射界に他者がいる場合は打たない」、「複数人で打っている場合、隣の的で剣を拾っている人がいる場合は打たない」、「手裏剣を打とうとしている人の後ろに接近しない」、「打剣距離が遠くなるほど、剣が失中して跳ね返ってくる距離も長くなる」、「失中して剣が跳ね返る場合、打剣距離の半分は危険範囲」などといった点に、十分に注意して指導することは、手裏剣術者の最低限の責務である。



 古流武術の稽古についても同様で、剣術にせよ居合にせよ、柔術もしかり、指導者が十分な安全管理をしないと、武術というものの性格上、いつなんどき、重大な受傷事故が起きてもおかしくはない。

 ゆえに、稽古場での所作や立ち居振る舞いへの指導はもちろん、稽古で使う武具にも十分な安全管理をしなければならない。

 例えば剣術の稽古では、木太刀が折れてしまうことは稀ではないので、指導者は己の武具はもちろん、門下の使っているものについても、常に目を配っておくことが重要である。

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▲相手の剣の棟を叩いて折るという理合の剣術形を稽古中、本当に折れてしまった白樫の木太刀


 ささくれだっていたり、ひびが入っているような木太刀を使っている場合(そういう人間は、当庵にはいないけれど)、すぐに交換させるか、替えの武具がないのなら稽古を中止させるべきだ。

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▲新品で購入して間もないにも関わらず、切先付近を叩き折られてしまったイチイ樫の小刀



 模擬刀や真剣についてはなおさら、厳格な管理と調整が必要だ。

 以前、稽古中にある門人が模擬刀で居合の稽古をしているのを見ていて、いつもより刀身が撓るなと違和感を感じたことがある。

 そこで、その模擬刀を手に取ってじっくり確認したのであるが、特段不具合はない。鍔も緩んでいないし、柄もしっかりとしていて、刀身にも傷などはなかった。

 しかし、やはりその後も、その門人が居合を稽古しているのを見ていると、どうにも違和感がぬぐえない・・・。

 そこで、当面は、その模擬刀で稽古をする際には、他者がいる方向に向けては振らないように申し付け、可能であれば早々に他の模擬刀を新調するように指導をした。

 そして、それから3カ月後の稽古中、件の模擬刀は、真っ向正面を斬り下げた瞬間、鍔元から折れてしまった。

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▲金属疲労からか、ハバキ元から折れた模擬刀


 手裏剣術の心得に、「刀の切先がちぎれて飛んでいくように」というのがあるけれど、稽古や演武中、振り下ろした瞬間にこのような折れた刀身が、他者に向かって飛んでいくようなことは絶対にあってはならない。



 模擬刀や真剣の不具合の最たるものといえば、鍔鳴りである。

 そんな武具を使っている者がいれば、すぐに稽古場から退出させて修繕させること、そしてその場で修繕ができないのであれば、武具の修繕ができるまで稽古を止めさせるのは、剣術や居合の指導者として最低限の配慮だ。

 たしか数年前だろうか、殺陣を稽古中の俳優が、自らが振るった模擬刀が刺さって死亡するという事故があった。

 この事案は、模擬刀が折れて刺さったという事ではなかったようだけれど、いずれにしても武具に関わるそのような事故が今後は起こらないことを心から祈る次第であり、そのためにも武具の安全管理には十分に留意しなければならない。

 (了)

ひさしぶりのヨコハマ/(身辺雑記)

2018年 01月11日 11:42 (木)

 最近は、アームチェア・ディクティブ的な仕事が多く、取材記者なのにあまり現場に出させてもらえないのが、いささか悩ましい・・・・・・。

 そんななか、昨日は今年の初取材で久々に横浜へ。

 今回は野毛の食べ物横丁とジャズ喫茶、関内のバーの取材&撮影である。

 15年来の知古であるカメラマン氏との現場なので、サクサクと仕事が進むのが心地よい。



 ハタチになるまで伊豆の山奥で生まれ育ったので、私は100%純正の田舎モンなわけだが、思春期となり同級生たちが東京への憧れを語るようになっても、特段、東京への興味や関心は無かった。

 (結果的には、これまでの人生で一番長く暮らしたのは東京なのだけれど)

 むしろ、伊豆から見ると東京よりも手前にある「横浜」への憧れが強かったのは、キャロルや横浜ケンタウロスの影響だったのだろう。

 ま、今となっては、それはそれでこっぱずかしく、俗っぽい話ではあるのだが(苦笑)。

 高校生になるとバイトで稼いだ金を使い、月に1~2回は東海道本線の各駅停車で横浜まで出かけ、中華街で怪しげな武具を購入したり(たしか、なんとかシンジケートとかいう店だったという記憶がある)、読めもしない中国語の人体急所図みたいなものを買いあさったり、山手や元町あたりを意味なくぶらついたものである。

 大人ぶって梅香亭やオリヂナル・ジョーズに入ったものの、緊張して食事の味など分からなかったことや、バイクの免許取り立てでケンタウロスを訪ねたものの、店頭で思いっきり立ちゴケをしてしまい、それを憐れに思ってくれたボスが2階のクラブハウスに招き入れてくれ、(「あの椅子」に座りながら)半日ほども話しをさせてもらったりしたことなど、いずれももう30年以上も前、遠い昭和時代の記憶だ。



 上京し、フリーの売文稼業で糊口をしのぐようになってからは、横浜の街歩き本などの仕事をよくやり、飲食店だけでも200軒以上は原稿を書いただろうか。

 企画に行き詰まって中華街を歩いていたところ、たまたま喫茶店で知り合った方が中国料理店のオーナーで、その店をメインに誌面を構成して本の巻頭特集を飾ることができた! などという、ちょっとドラマチックな出来事も懐かしい思い出だ。



 ここ数年、横浜を訪ねるのは年に1度、関内ホールで歌丸師匠の独演会を聞きに行く時だけだったのだが、久々にゆっくりと街を歩いて、「やっぱりヨコハマは、いいなあ」と、しみじみ思った次第。


▲昭和、横浜といえば、やっぱり『プロハンター』。ミズさんの、黄色いブルゾンにあこがれたもんである


 (おしまい)

径6分・乳切の長さの杖で、柳剛流突杖の稽古をする/(柳剛流)

2018年 01月09日 00:33 (火)

 昨晩は県立武道館に稽古に行こうと思ったのだが、家を出ようとするととたんに雨が降り始めた。

 我ながら、「翠雨」という雅号は伊達ではない(苦笑)。

 もっともこの時期の雨は、翠雨ではなく「寒雨」あるいは「凍雨」なのだが。

 私は、地球環境を守るための一環として自動車を持っていない・・・・・・というのは真っ赤な嘘だが、そもそも4輪の免許証がないので、雨の日の移動は何かと難渋する。

 武道館へは我が家から自転車で10分足らずなのだが、この雨の降り方では木太刀などの武具が相当濡れてしまいそうで、仕方なく今回は武道館での稽古を断念。自宅での稽古とする。

 当然ながら、屋内では4尺4寸2分の長木刀で剣術はできないので、2尺2寸の短い木太刀を執り、まずは柳剛流剣術の稽古。

 備之伝、フセギ秘伝、そして「右剣」から「相合剣」まで、8本の剣術形を丁寧に繰り返す。

 普段の長木刀の半分の長さの木刀では、むしろ「太刀の道」にしたがうことが難しく感じられるのだが、しばらく形を行ううちにキレのある運刀に近づいてゆく。

 次いで、先日武具店で誂えた、径6分・乳切の長さの杖で、柳剛流突杖の形を打つ。

 この径の杖は、一見華奢に感じられるが、別名「突之刀法」とも呼ばれる柳剛流突杖の業の特性上、遣うのに問題はない。

 むしろ、慣れてくると業のキレがよりシャープになるように感じられ、また形の中での「受け」について、よりシビアな遣い方が要求されることもあり、鍛錬にはたいへんに良いと感じる。

 これについてはもう少し稽古に使用して、使い勝手や手ごたえを確認していきたいと思う。



 稽古後、パソコンのメールに、飯箸鷹之輔の切紙のオークションで、他の入札者が高値を更新した旨の連絡がある。

 先日のブログを書いた後、誰も入札していなかったので、ダメ元で開始価格で入札していたのだが・・・・・・。

 ま、これ以上の予算は出せないので、やはり今回も諦めるとしよう。

 無念ナリ。

 (了)

飯箸鷹之輔筆の切紙/(柳剛流)

2018年 01月08日 12:38 (月)

 ヤフオクで、飯箸鷹之輔が慶應元(1865)年に記した、柳剛流の切紙が出品されている。

 掲載されている写真を見ると、東日本各地に伝承された柳剛流諸派共通の典型的な記載内容で、剣術形に「風心刀」がある以外、業の名称、本数、文面、道歌のいずれも、仙台藩角田伝や武州各地の柳剛流諸派と同一であることが分かる。



 飯箸鷹之輔は、文政11(1828)年に、二ツ沼村(現在の埼玉県吉川市二ツ沼)の農家の長男として生まれた。

 長じて江戸にて、柳剛流・岡田十内の門下となり、文久2(1862)年に免許皆伝。

 後に故郷の二ツ沼村に戻り、自宅に「柳武館」を開設し多くの門弟を育成、明治25(1892)年、64歳でその生涯を終えた。

 なお、鷹之輔が開いた「柳武館」には、同じ岡田十内門下で後に一刀正伝無刀流を開いた、山岡鉄舟が揮ごうした「柳武館」の額が掲げられ、それは今も、飯箸家に大切に伝えられているという。



 今回ヤフオクに出品されている切紙、ぜひ入手して実物を目にしたいと思うのであるが、残念ながら手元不如意である。

 ま、オークションである以上、入札競争は当然のことであるし、一方で日々、爪の先に火を灯すような清貧な暮らしゆえ、無念ながら入手できないのもやむを得ない。

 大切なのは、柳剛流の正しい実技を磨き、見事な業前を会得して、それを嘘偽りなく、余すところなく次代に伝える事だ。

 きっと流祖や流儀の先達方も、貧しい後輩の苦慮を、笑って許してくれることだろう。


  (了)

翠月庵の稽古始め/(武術・武道)

2018年 01月07日 00:10 (日)

 昨日は、今年の翠月庵の稽古始めであった。

 幸い風もない小春日和で、野天稽古場にとってはベストな陽気の中、まずは手裏剣を打つ。

 2間から5間までの基本打ちの後、本日は思うところがあり、3間打ちに集中。

 順体、逆体、歩み足の基本3種の打ち方で、4寸的を打つ。

 「置きに行く」打剣ではなく、その一打で相手の死命を制する気勢での打剣では、3間4寸的はなかなかに厳しい。

 また、ここ最近、打剣の際の呼吸にも思うところがあり、いかに無声の掛け声と呼吸に、手離れを合わせるのかを心掛けながら、一心に打剣に励んだ。



 手裏剣術の後は、柳剛流の稽古。

 まずは備十五ヶ条フセギ秘伝による相対稽古。これはいわば、自由攻防の静的・心的な稽古である。

 次いで形稽古では、当庵筆頭のY氏を仕太刀に、私は打太刀を執る。

 剣術では、基本かつ極意の形である「右剣」と「左剣」、そしてこの右剣・左剣の実践技法である当流極意柳剛刀のうちの二手、「青眼右足刀」と「青眼左足刀」の形稽古を通して、足で地を蹴ることなく「太刀の道」に従って行う、柳剛流ならではの「跳斬之妙術」を重点的に指導。

 さらに、これもまた当流極意柳剛刀の一手である「飛龍剣」では、五輪書でいうところの「かつとつといふ事」と同じ剣理を、じっくりと解説・指導した。

 突杖、そして居合についても、細かい点を手直ししながら、何度も形を繰り返す。

 こうしてアッという間に、定時の稽古が終了。

 今回は柳剛流長刀や制定柔術の稽古もする予定であったのだが、残念ながら時間切れとなってしまった。

 門下一同、業前が進むほど、稽古すべき内容と科目が増えてくるため、多くの場合、柳剛流と手裏剣術の稽古だけで時間切れになってしまい、柔術の稽古が十分にできないのが現状だ。

 当庵は、土曜の15時から17時までの2時間が定例稽古なのだが、今後は開始時刻を少し早めるなどして、全体の稽古時間を伸ばす必要があるかもしれない・・・・・・。

 いずれにしても、今年も真摯に、そして快活に、武術としての手裏剣術と、柳剛流をはじめとした古流武術の稽古そして指導に粛々と励んでいこうと思う。

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 (了)

打ち初め/(手裏剣術)

2018年 01月05日 00:00 (金)

 今晩の稽古は、手裏剣の打ち初め。

 屋内での打剣のため、間合2間、折敷ての座打ちである。

 はじめは久々に無冥流の軽量剣(といっても、全長180ミリ、重さ65グラム、特殊な加工で前重心にしている)を小半刻ほど、次いで25年式翠月剣でさらに小半刻ほど、折敷の状態で順体と逆体それぞれをとりながら、黙々と剣を打つ。

 最近はあまり根を詰めて手裏剣を打っていなかったこともあり、はじめはわずか2間という至近距離にも関わらず、尺的をはずすほどであったが、なんとか稽古終盤には4寸的に6~7割程度まとめられるようになった。

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▲翠月剣を2間から折敷て、渾身の気勢をもって打つ



 ここ最近、稽古の中心が柳剛流であることもあり、手裏剣の稽古はかなり予備的になっていたのだが、今年は原点回帰ではないけれど、もう少し打剣にも気を入れて稽古しようと考えている。

 また、ここ数年はもっぱら順体での打剣をメインとしてきたのだが、今年は思う所があり、逆体での打剣についても改めて稽古と研究をしてみるつもりだ。

 気・剣・体を一致させた、未発のうちにも相手の死命を制しうる、

 「生死一重の至近の間合からの渾身の一打」


 を目指し、さらに精進していこう。

 (了)

万延英名録にみる地元の柳剛流剣客/(柳剛流)

2018年 01月04日 10:27 (木)

 万延元(1860)年に刊行された『武術英名録』は、江戸末期の武州における剣術流派の興隆を知ることができる貴重な史料である。

 同書には合計664名の剣客が、名前と流派名、そして在所を併せて記載されている。

 なかでも柳剛流の剣客は149名と、北辰一刀流の136名を上回る最多数を誇っており、当時、いかに柳剛流が武州や房州で栄えていたのかを知ることができる。

 例えば、現在の私の住まいから最も近いところでは、

 柳剛流 大野豊吉 武州桶川宿在町屋村
 柳剛流 荒井又太郎 武州桶川宿在町屋村
 柳剛流 荒井太郎 桶川宿在町谷


 と、3名の柳剛流剣客が記載されている。

 ここでは荒井太郎のみ、在所は「桶川宿町谷」となっているが、これは上記2名の在所である「桶川宿町屋村」と同じであろうし、そうなると荒井又太郎と荒井太郎は親子あるいは兄弟だったのではなかろうか。

 また、このような英名録に名前が記載されているということは、この3名は少なくとも流儀の目録以上は得ているであろう、ひとかどの柳剛流の遣い手だったのだろう。

 こうした先人たちが、今からおよそ150年前に、現在の私の住まいから車でほんの数分のところで柳剛流を稽古・指南していた・・・・・・。

 拙宅でひとしきり稽古をした後、史料を見ながらつらつらとそんな事績に思いを馳せると、なにやら不思議な感慨を覚える。

 柳剛流の剣は、今もこの武州で、脈々と受け継がれている。

1706_柳剛流「右剣」
▲柳剛流剣術 「右剣」


 (了)

すでに平常運転/(身辺雑記)

2018年 01月03日 09:46 (水)

 世間様の多くはいまだお屠蘇気分全開のようだが、私は稽古も仕事も昨日から平常運転。

 2月末までに解剖生理学の単行本の原稿、約250ページを執筆しなければならず、粛々とキーボードを叩く。

 合わせて3月発行の旅行ガイドブック、医療法人・社会福祉法人向け月刊誌の連載インタビュー、外国人旅行者向けのwebの連載も同時に動いているので、今月はもう、あと2日しか休めないようだ・・・・・・。

 ま、今年は昨年以上にジャンジャン書いて、お金をいっぱい稼がねばならぬ。

 世の中はバブル期以降で最長の好景気だというが、私のような末端の売文屋には、その実感はまったくない。

 それどころか、たとえば今月で『剣道日本』が廃刊になったように、出版業界は完全に沈みゆく船なのだ。

 とはいえ、新年早々精神的に後ろ向きになっているわけにもいかないので、とにかく稼ぐ、それしかない。

 今年も、がんばろう!!



 稽古も昨晩から開始。

 とはいえ、まだ県立武道館は開いておらず、翠月庵の稽古始めも今週末からなので、夜半、拙宅にて半刻ほどの稽古。

 柳剛流剣術、突杖、そして長刀を振るう。

 どういう訳か、いつになく長刀の操作と体捌きがピタリとはまり、新年早々、たいへんに心地よい。

 ひとしきり柳剛流をおさらいした後は、柳生心眼流の素振二十八ヶ条でしめた。



 さて一夜明けて今日も、原稿書きに専念するとしよう。

 (おしまい)

当流を修めんと欲する者は、先ず心を正すを以て要と為すべし/(柳剛流)

2018年 01月01日 16:58 (月)


 夫レ剣柔ハ身ヲ修メ心ヲ正スヲ以テ本トナス。

 心正シクバ則チ視ル物明ラカ也。

 或ハ此ノ術ヲ以テ輙(タヤス)ク闘争ニ及ブ者有リ。

 此レ吾ガ党ノ深ク戒ムル所也。

 当流ヲ修メント欲スル者ハ、先ズ心ヲ正スヲ以テ要ト為スベシ。

 仮ニ稽古試合ノ如キモ亦、戦場ニ向ウガ如クシテ、

 必ズ忽(ユルガセ)ニスルベカラズ。~柳剛流殺活免許巻~




 喪中のため、お祝いの言葉は控えさせていただきますが、今年も翠月庵一同、柳剛流をはじめとした古流武術、そして手裏剣術の稽古に精進して参ります。

 本年も宜しくお願い申し上げます。

 翠月庵主/国際水月塾武術協会埼玉支部代表
 瀬沼健司 謹識 

 (了)