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平成29年を振り返って/(武術・武道)

2017年 12月30日 20:09 (土)

 門松は冥土の旅の一里塚、めでたくもありめでたくもなし。(一休宗純)


 さて、今年も残すところあと1日となった。

 この1年を振り返ると、4月には一昨年の母に続いて父が他界し、2年連続で喪に服することとなった。

 訃報を聞いたのは、演武のために滞在していた岐阜であった。

 48年間にわたる親子の関係は、あまりハッピーなものではなかったけれど、死んでしまえばみな仏様である。

 今思うと、死に顔くらいは見てやればよかったかなとも思う。

 父の死の前、2月には、およそ10年来の旧友であった無冥流投剣術の鈴木崩残氏が逝去。

 2年ほど前に、互いの手裏剣術や武芸に対する思いや考え方の違いについて、歩み寄りが不能なほどの溝ができてしまい、私の方から義絶を申し出た。

 しかし、これほど早く鬼籍に入ってしまうのであれば、そこまできっぱりと縁を切るのではなく、やんわりと少し距離を置くぐらいでよかったと思うのだが、それも後の祭りである。

 他界直前、崩残氏は自らのブログに私への謝罪の言葉を残してくれていたのだけれど、ならば直接連絡をくれれば、和解ができたのにと思うのは、こちらから絶縁を申し出た側の驕りであろうか・・・。

 いずれにしても、不世出の天才であった無冥流・鈴木崩残という人物が独力で編み出した打剣理論と教習体系は、100年後も、自ら手裏剣術を自得しようとする多くの人々の、貴重でかけがえのない道しるべになるであろう。



 武芸に関して、今年は個人的にたいへん大きな挑戦の年であった。

 まず4月8日の「平成29年度 苗木城武術演武会」では、翠月庵一門で手裏剣術と柳剛流の剣術・居合・突杖を披露。当庵として初めての、柳剛流の公開演武を行った。

 その後、師である小佐野淳先生のお引き立てにより、5月3日の「水月塾主催 第32回諏訪明神社奉納演武会」、同月28日の「松代藩文武学校武道会 第22回 春の武術武芸会」、そして9月23日の「第23回松代藩文武学校武道会 秋の武術武芸会」では、いずれも師に打太刀を執っていただき、私は仕太刀として柳剛流剣術と長刀を演武させていただいた。

 中でも5月の諏訪明神社奉納演武会は、柳剛流200有余年の歴史において初めてとなる、免許秘伝長刀の公開の場となった。

 これは柳剛流の歴史において、特筆すべき出来事であったといって過言ではないだろう。

 また、ひとりの柳剛流の修行人としても、今年の4回に渡る演武は、自らの業前を大きく飛躍させてくれる得難い経験となった。

 特に、春の松代での演武で感じた「跳斬之術」に関する課題について、その後の稽古で「太刀の道にしたがう」ということを感得し、その成果を秋の松代の演武で発揮することができたことは、実に貴重な学びであった

 この「跳斬之術」の感得=「太刀の道にしたがうこと」を知ることによって、ようやく自分が柳剛流修行における大道の真の関門をくぐったのだと思っている。

 そのような中で秋には師より、柳剛流剣術目録を賜ることができたのは、今年最大の喜びであった。

 一方で柔の稽古においても、師や兄弟子である関西支部長のY師範より、柳生心眼流、そして水月塾制定日本柔術のご指導を賜り、自分の身体能力では絶対に習得は無理だろうとあきらめていた柳生心眼流の「取放」についても、お2人のご指導とご協力でなんとか形を打つことができるようになったのは、これもまた本当に大きな喜びであった。

 このように今年も、武術修行に関しては実に充実した、実りの多い1年であった。

 その上で来年は、自らの業前を高める事は言うまでもないが、門下の術技の向上にもさらに意を砕いていきたいと思う。

 現在、当庵で柳剛流を学ぶ人々が、遠からずそれぞれ師範となり、各々が自分の稽古場を開いて、さらに多くの人に柳剛流を伝えてゆく。

 そのような「関東における柳剛流の復興」を、流祖・岡田惣右衛門や仙台藩角田伝の祖である岡田(一條)左馬輔の墓前に、いつの日かご報告したいと思う。

 加えて、手裏剣術と空手道について。

 手裏剣術や空手道の稽古は、ともすれば「華法」に陥りかねない自分の稽古に、武の「リアル」を突き付けてくれる大切なものだ。

 だからこそ、これは昨年の「振り返って」でも同じことを書いたけれど、手裏剣術も空手道も、古流の稽古と並行してこれからも粛々と続けていこうと思う。



 さて、平成29年も、たくさんの方のお世話になりました。

 まず、我が師である国際水月塾武術協会の小佐野淳先生には、今年も実技や有職故実について、惜しむことなく丁寧なご指導とご教授を賜り、本当にありがとうございました。来年も引き続きご指導をいただけること、うれしく存じます。

 また、水月塾の各師範方や本部の先輩方、遠く海の向こうから武者修行に訪れる海外支部の皆さんにも、たいへんお世話になりました。ありがとうございます。

 戸山流居合抜刀術美濃羽会中津川稽古会のO先生と同稽古会の皆さんには、今年も変わらぬお付き合いをいただき本当にありがとうございました。来る4月の演武会で、またお会いしましょう。

 柳剛流や武術史につきまして、剣術流派調査研究会の辻淳先生や武術研究家のS様、『増補・改訂 宮城県 角田地方と柳剛流剣術-日本剣道史に残る郷土の足跡-』の著者である南部修哉様、先日久々にお会いできましたKさんには、ご助言や貴重な史料のご提供などを賜り、ありがとうございます。

 手裏剣を存分に打て、腹の底から掛け声をかけて剣術の稽古が思い切りできる貴重な稽古場を提供してくださる家主様にも、心よりお礼申し上げます。

 そして、北は山形から南は沖縄まで(アクセス解析の結果デス)、ニッチで個人的な本ブログを読んでくださる数少ない読者の皆さんにも、感謝申し上げます。ありがとうございました。

 なかでも、直接お会いしたことはありませんが、SNSで私の拙い文章を好意的にご紹介してくださり、時に武人としての含蓄のある言葉でご助言をしてくださった周防の国のRさんには、ここで改めてお礼を申し上げます。ありがとうございました。

 そして最後に、いつも身近で私を支えてくれる「S」へ、今年も1年間、本当にありがとう。

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 それでは平成30年も引き続き、武術伝習所 翠月庵/国際水月塾武術協会埼玉支部を、宜しくお願い申し上げます。

 まずは皆さま、良いお年をお過ごしください。

 翠月庵主/国際水月塾武術協会埼玉支部代表
 瀬沼健司 謹識 

 (了) 
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県立武道館で今年のおさらい/(柳剛流)

2017年 12月29日 00:00 (金)

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 県立武道館の利用は年内は28日でおしまいということで、急遽、夜から一刻ほど稽古。

 柳剛流剣術・居合・突杖・長刀にじっくりと取り組む。

 さらに柳生心眼流素振二十八ヶ条、八戸藩伝神道無念流立居合、荒木流抜剣をおさらい。

 明けて、今日も明日も仕事だが、何となく年末気分が色濃くなってきた・・・・・・。

 (了)

柳剛流と『五輪書』~万理一空の剣理/(柳剛流)

2017年 12月28日 00:40 (木)

 翠月庵の稽古は先週末で稽古納めであったが、自分自身の日々の稽古は終わることはない。

 昨夜は、柳剛流剣術に専念。

 「右剣」と「左剣」、そして柳剛刀6本に集中する。

 当初、「左剣」と「青眼左足刀」の際に運刀と体捌きのブレが見られたのだが、「太刀の道」に従うことで、ブレを矯正する。

 理屈は分かっているのだから、その日の初太刀からブレなく剣を振るえなければならないのだが、特にシビアな身体の使い方を要求されるこの2つの形で、どうしても動きの雑さが出てしまうのだ。

 とにかく、木太刀を腕の力で振ろうとしたり、踏ん張って飛び違がおうとしてはならない。

 宮本武蔵が『五輪書』で教えているように、腕力や踏ん張りに頼った操刀は、特に柳剛流では「太刀の道さかいてふりがたし」、なのである。

 逆に言えば、「太刀の道」に従いさえすれば、柳剛流における「跳斬之術」でも、腕力や脚力はそれほど重要ではないのだ。



 稽古後、『五輪書』をひもとき、しばし味読。

 これまで何度も書いてきたことだが、これほど論理的かつ合理的な、流儀を超えた剣術の実践的戦闘マニュアルは無いとしみじみ思う。

 たとえば、「縁のあたりといふ事」の教えは、まさに柳剛流剣術の「右剣」や「左剣」、「青眼右足刀」や「青眼左足刀」の剣理そのものだ。

 あるいは、「かつとつといふ事」は「飛龍剣」の剣理がそのままに当てはまるし、「たけくらべといふ事」は「無心剣」の理合そのものである。

 また、「おもてをさすといふ事」や「心をさすといふ事」、「有構無構のおしへの事」などは、柳剛流の備之伝や備十五ヶ条フセギ秘伝を学ぶ上で、絶好の参考となるものだ。

 そのほかにも『五輪書』を読んでいて、柳剛流の「術」と重なる部分、学びに資する部分は枚挙にいとまがない。



 しかし、当然のことながら宮本武蔵は、柳剛流を意図して『五輪書』を書いたわけではない。

 また柳剛流祖・岡田惣右衛門も、『五輪書』の教えを念頭に置いて柳剛流剣術の形を編んだわけでもない。
 
 では、なぜこれほど『五輪書』の教えが柳剛流の剣理と一致するのか?

 それは、『五輪書』に記されたロジックかつ経験主義的な剣の理合と行動科学が、流儀の垣根を超えた剣術としての普遍性を持っているからだ。

 ゆえに、『五輪書』は二天一流の修行人に向けて書かれたものでありながら、他流である柳剛流の修行人たる我々にも、たいへん示唆に富んだ内容となっているのである。

 それはまさに、不世出の剣豪である宮本武蔵が到達した、「万理一空」という剣の理なのだろう。

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 (了)

歳末雑感/(身辺雑記)

2017年 12月27日 01:34 (水)

 クリスマスが過ぎると、一夜明けて、いきなり街は正月ムードに変貌する。

 多くの人は明日28日が仕事納めということで、なんとなくもう、「年内の仕事は終わったな・・・」感が漂っているのかもしれない。

 年明け早々の、野毛の飲み屋取材のアポイントメントを入れながら、そんな気配を濃厚に感じ取るのであるが、私は30日いっぱいまで、高齢者の生理学に関する解説本と、医療・介護施設経営者向けのインタビュー原稿を書きつつ、横浜の日帰り旅行本の編集作業も同時に進めなければならぬ。

 毎年のことではあるが、沈みゆく出版業界を底辺で支える、零細売文業の社長兼営業兼総務兼人事兼たった一人の社員である私には、正月休みなどないも同然だ。

 そういえば、ついに『剣道日本』も今日発売の号で休刊とのこと。

 この業界で「休刊」というのは、イコール「廃刊」ということであり、まことに寂しいかぎりである。

 ま、紙媒体の出版人などというのは、私も含めてもはや滅びゆく世界のあらまほしき一族なのだから、沈みゆくとなりの船も静かに見守るのみだ。



 そんなこんなで、昨日も朝8時から机について、仕事が終わったのは深夜24時。

 とっとと酒でも呑んで眠りたい所であるが、克己心を全力で振り絞り、小半刻ほど柳剛流居合の稽古を行う。

 向一文字、右行、左行、後詰、切上の5本の形を繰り返す。

 真剣をたばさみ5つの形を何度も繰り返すうちに、雑念は消え、ただただ柳剛流祖・岡田惣右衛門が編んだ形の世界に没入する。

 そしてどういう訳か今晩はいつも以上に刀が走り、稽古後はモヤモヤとした頭の疲れがすっきりとした。

 原稿書きで大脳辺縁系が疲弊しきったときは、居合の稽古が最高のリフレッシュになるようだ(笑)。

 さて、それではひと風呂あびて、早川文庫のカズオ・イシグロでも読みながら寝るとしよう。

 オヤスミナサイzzzzzzz。

1712_柳剛流居合「切上」
▲柳剛流居合 「切上」

 (おしまい)

柳剛流剣客たちの花押(その2)/(柳剛流)

2017年 12月26日 08:40 (火)

 先の記事では、仙台藩角田伝柳剛流の祖であり、流祖・岡田惣右衛門から2代宗家として指名され岡田姓を譲られた、一條左馬輔の花押をみた。

 左馬輔以降、仙台藩角田伝の柳剛流は、その本流として三代・斎藤数衛藤原清常、四代・泉錬蔵源冨次と受け継がれた。

 この四代宗家・泉冨次師は、幕末から明治にかけて活躍した仙台藩角田伝柳剛流を代表する剣客である。

 天保3(1832)年に生まれた冨次師は、17歳で角田・石川家の師弟に文武を教授する成教書院所長・宍戸貢の門に入り柳剛流の修行を開始。宍戸の死後は成教書院二代所長で角田伝柳剛流三代の斎藤数衛の門人となり、20歳で切紙を得る。

 切紙となってから4年後の安政元(1854)年、23歳の冨次師は江戸に出て、府内有数の勢力を誇っていた柳剛流の大剣客・岡田十内の門に入り、その年のうちに十内から目録を受ける。

 翌安政2(1855)年に故郷・角田に帰国し、斎藤数衛から免許の印可を受け、その後、仙台藩角田伝柳剛流四代となる。

 文久3(1863)年、32歳で石川家刀術惣(総)師範に、そして成教書院三代所長となり、戊辰の戦陣に参加。維新後の明治17(1884)年には角田本郷天神町に「角田撃剣社」を設立し、門下生は190名に及んだという。

 明治41(1908)年3月12日没。行年77歳。

 その道統は、井上三郎の次男で、剣術の技量抜群なことから後に冨次師の養子となった、五代・泉丁三郎師に受け継がれた。


 さて、この泉冨次師の花押がこちらである。

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 この花押は、嘉永7/安政元年に、岡田十内に弟子入りした際、「神文帳(門人帳)」に書かれたもので、花押と合わせて「閏七月廿二日 奥州仙台角田産 泉保 源冨次」との署名がされている。

 花押は簡潔な 「天平地平の明朝体」 で、どっしりとした安定感があり、「知福之点」がみられる。


  
 ところで岡田十内の「神文帳」には、数多くの花押を見ることができるのだが、中にはこんなシンプルなものもある。

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 これは、慶應2(1866)年に入門した尾花福七郎の花押だが、実にシンプル・・・というかあまりに簡便すぎるのではないかと思うのは私だけだろうか(苦笑)。

 花押というと、どうしても複雑で難しいものというイメージがあるが、岡田十内の「神文帳」をみると、尾花福七郎の花押のような非常にシンプルで簡単なものも少なくない。

 そういう意味では、花押はあくまでも個人のサインであり、あまり複雑に考えずとも良いのかもしれない。



■引用・参考文献
『増補・改訂 宮城県 角田地方と柳剛流剣術-日本剣道史に残る郷土の足跡-』/南部修哉/私家版
『戸田剣術古武道史』辻淳/剣術流派調査研究会
『日本剣道史 第十号 柳剛流研究(その1)』森田栄/日本剣道史編纂所
「柳剛流岡田十内門弟帳の研究」大竹仁著/『戸田市立郷土博物館研究紀要 第7号』

 (つづく)

岡田十内系と今井右膳系の柳剛流伝書を読む/(柳剛流)

2017年 12月25日 10:58 (月)

 先日、翠月庵の稽古納めに、久々にKさんが来訪された。

 Kさんは某古流の師範で、翠月庵開設当時から親しくご厚誼をいただいている方で、実技はもとりより古流の伝書研究にも長年取り組んでおられる。

 このため今回は、柳剛流の伝書を2つ拝見させていただいた。

 1つは切紙で、岡田十内の弟子である長谷川増造が慶應4(1868)年3月に、牛腸猪之吉に出した「柳剛流剣術切紙」である。

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 内容は、岡田十内系の切紙の形式通りで、備之伝、剣術、居合、突杖と、柳剛流切紙の術技がすべて網羅されており、仙台藩角田伝ともほぼすべて一致している。

 角田伝と異なる点は、剣術形について、「右剣」と「左剣」のほかに「風心刀」が加えられていること、また突杖が「突枝」と記されていることの2点だ。

 切紙の剣術形で、「右剣」と「左剣」についで、「風心刀」が加えられているのは、関東系の柳剛流諸派の伝書にも見られるものだが、一方で同じ師範の系統の切紙でも、この「風心刀」が加えられている場合と、加えられていない場合がある。あるいは剣術形名の記述とは別の部分に、「風心刀」との記述がある場合もある。

 こうした点から私は、個人的には柳剛流切紙における「風心刀」というのは、ある種の口伝だったのではないだろうかと推測しているのだが、さて実際はどうだっただろうか? 謎は深まるばかりである。

 なおちなみに、仙台藩角田伝柳剛流や紀州藩田丸伝柳剛流の切紙には、「風心刀」という記述は存在しない。

 また、突杖を「突枝」と表記している伝書はわりあい多くあり、これは角田伝の一部の伝書にもみられる。このように、「杖」を「枝」と表記しているのは、意図的なものではなく、伝書の書写を繰り返すなかでの誤字であろう。

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 次に目録。

 こちらは、明治38(1905)年9月に、今井右膳系の師範である古山半右衛門が、笹谷源四郎に出した「柳剛流剣術目録」である。

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 目録の内容は前文と後文のほか、術技としては「当流極意」と言われる剣術形・柳剛刀が6本、小刀伝、二刀伝、鎗ノ入身伝、備15ヶ条フセギ、加えて武道歌が2首と、仙台藩角田伝や関東各派の目録と比較して、ほぼ一致した内容となっている。

 唯一異なるのは、角田伝や関東系の柳剛流目録では、多くの場合「鎗・長刀入伝」とあるものが、この伝書では「鎗ノ入身」と表記されていることだ。ただし、関東系の目録には、これと同じように「鎗入 口伝」とある場合も散見されるので、とりわけ珍しいというものではない。

 なお、この目録は明治後期、関東各地の柳剛流が、一刀流の明信館や山岡鉄舟の無刀流に合流・吸収され、武徳会系の近代剣道に変容する直前のものであり、柳剛流が古流剣術として成立していた最晩年期の伝書としても、非常に興味深く貴重なものだといえるだろう。



 以上2つの伝書を拝見して思うのは、岡田十内にせよ今井(林)右膳にせよ、いずれも江戸府内で柳剛流を教授した系統の切紙・目録の術技が、ほとんどすべて仙台藩角田伝の切紙・目録の技法と一致しているということだ。

 これは武州系の柳剛流や房州系の柳剛流にも言える事で、大筋で東日本各地の柳剛流の切紙・目録・免許の内容には決定的な違いはない。

 これに対して、西日本で最も柳剛流が興隆した紀州藩田丸伝では、切紙で学ぶ剣術形の本数が東日本諸派に比べて非常に多くなっており、また突杖は切紙ではなく目録で伝授されるなど、教伝内容や指導の階梯がかなり異なっていることは、たいへんに興味深いことである。

 今後の伝書研究の課題としては、たとえば同じ仙台藩伝柳剛流でも、我々が伝承している仙南の角田・丸森伝とは別系統である仙北で興隆した仙台藩登米伝柳剛流、あるいは紀州藩田丸伝以外の東海~西日本に伝播した柳剛流諸派の伝書類の検討だ。

 これらについては、来年以降、少しずつ情報収集していくことができればと考えている。



 最後に、貴重な伝書を見せてくださり、公開の御許可も快くしてくださったKさんに、心からお礼申し上げます。

 ありがとうございました。

 (了) 

稽古納め/(武術・武道)

2017年 12月24日 16:30 (日)

 昨日は、武術伝習所 翠月庵/国際水月塾武術協会埼玉支部の稽古納め。

 門下全員で、まずは2間から5間まで、手裏剣術の基本打ち。

 続いて柳剛流の剣術、居合、突杖のおさらい。さらに上級者は長刀を稽古。

 途中、私の武友であり古流武術の歴史に詳しい某流師範のKさんが久々に来訪され、所蔵されている柳剛流の切紙(岡田十内系)や目録(今井右膳系)、さらに柳生心眼流や鞍馬流の伝書などを拝見し、ご解説をいただきました。

 こうして平成29年の稽古は終了。

 そして稽古後は、地元の居酒屋にてささやかな忘年会を開催。

 全員うわばみの翠月庵ゆえ、今回もテーブルが空のグラスで埋まるほど痛飲!

 来年もケガ無く、快活に、のびのびと、柳剛流をはじめとした古流武術、そして手裏剣術の稽古に精進してまいりましょう。

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 (了)

柳剛流剣客たちの花押(その1)/(柳剛流)

2017年 12月23日 12:18 (土)

 「書き判」とも呼ばれる、日本の伝統的なサインである花押。

 武術伝書の署名には、多くの場合花押が記されているし、門弟帳の署名などにも添えられることが多い。

 たとえば、柳剛流の江戸における大家であった岡田十内の神文帳(門人帳)は、全5巻のうち第2巻を除く1~5巻が今も残されているが、そこに記された963名の署名には、ざっとみて(印象で)4分の1程度の署名に花押が添えられている。

 これらを見ると、複雑なものから簡素なものまでデザインも様々であり、その人の個性や花押に秘めた想いが感じられる。

 そこで、これから数回にわたり、柳剛流の剣客たちの花押を見ていこうと思う。



 まずは、柳剛流二代宗家であり仙台藩角田伝の祖となった、一條(岡田)左馬輔の花押がこちら。

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 この花押は、天保9(1838)年11月に、左馬輔が弟子の戸田泰助(角田石川家剣術師範)に授与した、柳剛流目録に記されたものだ。

 ところがその後、左馬輔の花押のデザインは少し変わる。

 上の伝書から9年後の弘化4(1847)年3月に菅野孝三郎に授与した目録に記された左馬輔の花押には、右の部分に「知福之点」が加えられているのだ。

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 実はこの間の期間に、左馬輔の境遇は激変している。

 仙台藩石川家の柳剛流剣術師範であった左馬輔は、同じく石川家中の剣術流儀であった夢想願立あるいは天心独明流の剣客との、真剣による遺恨試合で相手を斬り倒して勝利するも、角田を脱し石巻に身をひそめたのである。

 なお、その後も左馬輔は年に1回、主家の暮らす角田城へ挨拶にあがり、左馬輔の子は引き続き石川家中として存続している。

 また弟子の戸田泰助は引き続き石川家の剣術師範として角田で柳剛流を教えており、それどころか、この遺恨試合と左馬輔の石巻隠遁以後、柳剛流は急激に石川家中での存在感を高め、家中随一の剣術流儀となるのである。

 このような後日談からも、遺恨試合と左馬輔の石巻への隠遁は、けして不名誉な事ではなかったことが強く推察される。

 しかし、いずれにしても遺恨試合の結果、人を殺め、主家を離れざるをえなくなったことについて、左馬輔は剣客として強く思うところがあったのではないだろうか?

 だからこそ事件後、己の花押に「知福之点」を加え、剣客としての自省を強く誓ったのではないかと、私は思う。

 以後、左馬輔の花押はいずれも、「知福之点」を加えたものとなっている。



 その後、左馬輔は生涯を石巻で暮らし、湊南町に稽古場を構えて広く流祖直伝の柳剛流を教授。岡崎兵右衛門陳秀をはじめとした多くの逸材を育成した。

 嘉永元(1848)年には、自らの師である岡田惣右衛門の23回忌に、石巻の地に「柳剛流祖岡田先生之碑」を建立する。

 この石巻の「柳剛流祖岡田先生之碑」は、全国に3つある岡田惣右衛門の顕彰碑の中で最も古いものであり、流祖から直接教えを受けた者(左馬輔)が撰文した唯一の碑である。

 それから8年後の安政3(1856)年10月3日、左馬輔は石巻にて70年の生涯を終えた。


仙台角田の人岡田左馬輔信忠、嘗て先生に従いて学ぶこと十年余り、才芸倫を超え、善く其の統を継ぐ、今石港に僑居して、徒を集め業を授く。~柳剛流祖岡田先生之碑より~




■引用・参考文献
『一條家系譜探訪 柳剛流剣術』一條昭雄/私家版
『増補・改訂 宮城県 角田地方と柳剛流剣術-日本剣道史に残る郷土の足跡-』/南部修哉/私家版
『日本剣道史 第十号 柳剛流研究(その1)』森田栄/日本剣道史編纂所

 (つづく)

一陽来復/(身辺雑記)

2017年 12月22日 10:45 (金)

 本日は冬至。

 易では昨日で1年間の陰が極まり(坤)、冬至の今日から陽が芽生えてゆく(復)。

 これがいわゆる、「一陽来復」である。

 ゆえに本邦の易者は、冬至の日にこれから1年の運勢を占うのが習わしとなっている。

 いわば冬至は、易者の元日ということだ。

 もっとも私は、1年の運勢は占わない。

 なぜなら、

 「善く易を為(おさむ)る者は占わず」(荀子)

 だからである。


 今日からの1年も易の教える「潜竜」のごとく粛々と、柳剛流をはじめとした古流武術と手裏剣術の稽古に励んでいこう。


 潜竜用いるなかれとは、何の謂ぞや。
 子曰く、竜の徳あって隠るるものなり。
 世に易(か)えず、名を成さず、世を遯(のが)れて悶(いきどお)るなく、是とせ見(ら)れざれども悶るなし。
 楽しめばこれを行い、憂うればこれを違(さ)る。
 確乎としてそれ抜くべからざるは、潜竜なり。


(潜竜を用いるなかれとは、いかなる意味か?
 孔子は言う。竜のごとき徳、聖人の徳がありながら、最下層に隠れている人のことである。
 世の中の移り変わりによって主義を変えることもなく、世間に名を出そうともしない。世に用いられずに隠遁していても、むしゃくしゃすることはないし、だれにも正しいとされなくても、不平を抱くことがない。
 世に「道」があって社会的活動がこころよく感じられるときは、その「道」を世に行い、乱世で我が身が汚される憂いのあるときは、ただちに俗に背を向けて去る。
 このように確固として、その志を奪えないもの、それが潜竜である)


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▲易の卦辞と爻辞のみに着目して注釈を加えた、朱子の著作である『周易本義』の訳書。彖伝や象伝をあえて加えない朱子の訳注はシンプルだが、それだけに易の本質に鋭く迫っているともいえようか・・・

 (了)

冬期休暇/(身辺雑記)

2017年 12月21日 10:00 (木)

 例年のごとくこの冬も、年末年始の休みは大晦日と元日の2日間しかない・・・・・・。

 このため原稿ラッシュが始まる前に、2日間ほどのささやかな休暇を取った。


 ちょうどよいタイミングで親しい人にご招待をしていただいたので、国立劇場で雀右衛門の『今様三番三」と、吉右衛門の「隅田春妓女容性』を鑑賞。およそ5時間、たっぷりと歌舞伎を満喫する。

 吉右衛門と菊之助の(義理の)親子共演は、なかなかに味のあるものであった。

 それにしても、いくらなんでも初対面の相手に100両貸してくれというのは、無茶な話だと思う・・・(笑)。

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 短い冬の休暇はあっという間に終了し、再び単行本やら雑誌やらの原稿書きで多忙な日々が続く。

 ま、年末ジャンボが当たりさえすれば・・・・・・、南無八幡大菩薩。

 (おしまい)

岡安英斎筆 『柳剛流剣術剪紙講釈』/(柳剛流)

2017年 12月15日 15:31 (金)

 過日、柳剛流の伝書類を読んでいた際、辻淳先生の著書『幸手剣術古武道史』の記述で、武州における柳剛流の大家・岡安貞助(英斎)が門弟に与えた『柳剛流剣術剪紙講釈』という古文書が、かつて埼玉県杉戸町の図書室にあったという部分が目にとまり、その原文を読んでみたいと思った。

 件の図書室は、後に町立の図書館になったということで、杉戸町の図書館に連絡して問い合わせたのだが、残念ながら現在、『柳剛流剣術剪紙講釈』は同町内の各図書館には収蔵されておらず、行方も分からないとのことであった。

 その上で司書の方が、「町史の編纂等を担当している町の社会教育課に問い合わせれば、何か分かるかもしれない」というのでそちらにも問い合わせたのだが、やはり『柳剛流剣術剪紙講釈』の所在は分からず、町史等にも翻刻などは掲載されていないとのことであった。

 つまり、かつて町の図書室に収蔵されていた柳剛流の貴重な史料がひとつ、所在不明になってしまったということである。

 まことに残念なことだが、こういうことは武術関連の調査をしているとよくある話で、たとえば、かつて角田市立図書館に収蔵・展示されていた柳剛流の伝書は、現在、所在不明なのだという。

 紛失にせよ盗難にせよ、こうした一次史料の喪失というのは、たいへん大きな文化的損失だ。

 一方、今回のケースで不幸中の幸いなのは、辻先生の著作に『柳剛流剣術剪紙講釈』の翻刻と写真が掲載されていることである。



 『柳剛流剣術剪紙講釈』 岡安英斎筆

                                                               
 国家承平とは先に徳川家康公天下治めるを云。それ以前戦争(乱世)不止其時代各英雄而武亦盛也。別上古神代の際、両刃の剣を(以テイクサ)軍戦をなせり国津を成り既に萬戒も怨めしなり之を草なぎの剣と称す。索□大神山田の大蛇(オロチ斬)を退治。其剣高原に捧げしより后、双刀の剣を二つに割り太刀と号す。武将片刃の双刀(ニカイ)之帯し然るに天下治まり各其所を□(ママ)せしむ而后殆に二百余年とは(安永年間)元祖岡田先生武の葛飾郡惣新田に生れ時代をさす。最早其頃に至り武も劣へ各弊風流を惰る陥入り所謂武芸云は木刀以て形而巳を教ゆ。或は裏□にして撃所面小手の弐所に限る不経の術なり。其他うつを堅く禁ずる也。凡そ五百流派も有る中に撃合の流儀少なり。陵夷とは世の□芸ともすたれるを云。其間講するは大抵身体閑靡とは都をゆる□□□□実に前名無術にして床に押花や置物を飾り備えるが如し。(ソコデ)及先生兹に奮発し求師於四方とは故聖人曰く一時を学び受るも皆師也と故に業上達の方は各師と尊敬へ我より。劣るものは□と思うに親して古稽るなり。神門の師は伊庭直保先生也。即心形刀流は心の□働き像になし。進退自由而剣を使うを云。尤も撃所突かさるはなし。然と雖も具ありて足なしの理なり。身厭はず術業未熟にして不至云。因て辞家とは妻に□宇内二十ヶ年も修行せりとあり。其間剣鎗及び長刀術炮総て兵武に雷鳴の者を聞尋行。一訪以て相較とは諸家先生は誠□□□□術の上達奥を義悟りて故に改て柳剛流と云。是□□意意味深長して表を□□和にして膽を別にし身體の内、甲冑、小手胴掛、臑当を着用修行宜しきを云。心得とは該□□に勉熱□□庸衆とは常久なり門にも不入何も知らぬものに向て我術かたるべからず。

         (『幸手剣術古武道史』辻淳 著/剣術流派調査研究会より)




 一次史料の所在は分からなくなってしまったものの、こうした翻刻があるおかげで、今、柳剛流を修行する我々は100年の時を超えて、柳剛流の大師範家・岡安英斎の薫陶を受け、その教えにふれることができる。

 こうした時空を超えた学びは、古流武術を稽古する醍醐味のひとつだ。

 それにしても今回の件に限らず、武術の伝書や手付け、添え書きなどの歴史的史料は大切に収蔵・保存・管理した上で、個人や一部好事家が抱えこみ死蔵することなく、適宜適切に公開してもらいたいものだとしみじみ思う。

  (了)

流祖が示した「事」と「理」/(柳剛流)

2017年 12月14日 02:30 (木)

 多忙ゆえ、昨晩は小半刻、屋外にて柳剛流の稽古。

 先日の本部稽古で課題を感じた、剣術の「青眼左足刀」と長刀に集中する。

 剣にしても長刀にしても、結局のところは柳剛流の真面目である跳斬之術をいかに適切に行えるかであり、そのためには太刀なり長刀なりの「実の道」に従う、ただそれだけのことなのだ。

 しかし、その「ただそれだけのこと」が容易にはできないからこそ、稽古をするのである。

 このようにして、200年以上も前に流祖・岡田惣右衛門が示した「事」と「理」をあらためて、ひとつずつ一致させていくことが、実技としての柳剛流を受け継ぐ我々の目指すべき道なのだ。

1709_柳剛流長刀
▲柳剛流長刀


 (了) 

12月の水月塾本部稽古~柳剛流、甲陽水月流/(武術・武道)

2017年 12月11日 10:53 (月)

 昨日は午後より、水月塾本部での稽古であった。

 今回は関西支部長のY師範とその門弟のAさんが稽古に来られていたため、私もお2人に加えていただき、師より水月塾制定の日本柔術(甲陽水月流)を指導していただく。

 師のご指導はもとより、Yさんは甲陽水月流の免許皆伝師範なので、この機会を逃すことなく受けや捕りをお願いして、奥伝逆投げの形の打ち込みを繰り返す。

 なかでも「逆背負」という形は、相手の打ち込みを捌いて背中合わせの状態になり、左肩を極めつつ後襟をとって逆背負いに投げを打ち、受けは投げられながら空中で1回転して着地、そこをさらに捕りが刈り倒して決めるという荒技である。

 こうしたバク宙やバク転をしながらの受けは、柳生心眼流の素振り二十八ヶ条や取放で必須の技術なので、こうした機会にできるだけ稽古をしておこうと、YさんやAさんの胸を借りて、受けと捕りを交代しながら何度も繰り返す。



 柔術の後は、師に打太刀を執っていただき、柳剛流の稽古。

 剣術、突杖、長刀の形を行う。

 仕太刀として「青眼左足刀」の運足、長刀の手の送りと斬りの極めにやや課題を感じたので、これは自分の稽古で修正しなければならぬ。

 稽古後半は再び、柔術の稽古。

 YさんやAさんにお願いして受けや捕りを執っていただき、自分なりに課題を感じている形の復習や、受けと捕りが次々と連続的に途切れることなく技を掛けて外し、また掛けていくという、柔術の「段取」の稽古に集中。

 柳剛流に比べると柔術は、翠月庵の稽古場の環境(野天なので受け身が取りにくい・・・)や稽古相手が少ないなど、いろいろな条件から普段はなかなか思う存分稽古ができないので、この機会を逃さずにみっちりと稽古をすることができた。



 稽古終了後は、忘年会。

 私は前回の酒宴で暴走してしまったこともあり(ま、いつもの事であるが・・・)、加えていささかここ数日間の疲労が強かったこともあって、今回は慎ましく呑んで(たぶん)粗相なく、武州への帰路に着くことができた(苦笑)。

 さて、これで2017年の水月塾本部での稽古は、私は「納め」である。

 次回の本部稽古への参加は、年が空けて1月。

 来年もケガ無く、充実した稽古をしていかねばならぬ。

 そして内容的には、柳剛流の業をさらに磨きあげていくことは言うまでもなく第一の優先目標であるが、加えて柳生心眼流と甲陽水月流の2つの柔術の稽古にも、今年以上に専心していきたいと思う。

 (了)

柳剛流の特徴~山本邦夫教授の論考から(その5)最終回/(柳剛流)

2017年 12月07日 11:30 (木)

 山本論文での柳剛流の4つ目の特徴に挙げられているのが、「資格取得の簡略化」だ。

 少し長くなるが、下記に引用する。

 たとえば、小野派一刀流では、小太刀、刃引、仏捨刀、目録、仮名字、取立免状、本目録皆伝、指南免許の八段階であり、天然理心流では、切紙、序目録、目録、中極位目録、免許、指南免許の六段階であった。これを年齢的にみてみると、十代の後半に入門してから五十歳を過ぎて最高位に達するのである。
 これに対して柳剛流では、「切紙」、「目録」、「免許」の三段階にしか過ぎなかった。「免許」の印可を受けるのが大体三十歳前後の体力、気力ともに充実しているときで、この最高の資格を得た剣士たちが、関東では武州をはじめ上総、下総、上野、下野、常陸といった諸国に道場を構えて多くの門人を育成するようになった。



 こうした武術の資格取得の簡略化については、北辰一刀流が有名であるが、実はその先駆けとして、柳剛流が先んじて資格習得の簡略化を行っていたことは、もっと多くの人に知られて良いことだと思う。



 そして山本論文で5つ目の柳剛流の特徴として指摘されているのが、「師家の無制約」である。

 柳剛流祖・岡田惣右衛門は晩年、高弟であった仙台藩石川家中の一條左馬輔に岡田姓を譲り、柳剛流の正式な二代目継承者とした。

 この一條(岡田)左馬輔の系統の柳剛流が、我々が現在継承している仙台藩角田伝柳剛流となるわけだが、「正式な二代目継承者」とはいえ、当時の一部他流や、現在の多くの古流武術に見られるような、いわゆる家元制のような強力な流儀の統制は、柳剛流には当初から無かった。

 このため柳剛流は、たとえば角田伝と同じ仙台藩内でも登米地方では野村大輔~半田卵啼系の登米伝柳剛流として角田伝とは別に興隆し、その道統は昭和まで続いた。あるいは伊勢では、直井勝五郎~橘内蔵介系の紀州藩田丸伝が多くの人に稽古され、現在まで続いている。江戸では今井(林)右膳、岡田十内などが多いに勢力を張り、上総では古川貢や行川幾太郎が東金周辺に柳剛流を伝えた。

 そして、流祖生誕の地である武州では、松田源吾、岡安貞助、綱島武右衛門、飯箸鷹之輔、深井源次郎などが、それぞれ最大で1,000人単位の門弟数を誇り、流儀の興隆を競いあっていた。

 こうした柳剛流の全国的な興隆の要因について、山本教授は次のように指摘する。

 流祖に師事し「免許」の印可を受けた門人たちが全国各地に散り、そこで道場を開設して弟子を養成し、流勢の発展につとめた。(中略)。これは、師家からの統制がゆるやかで、その掣肘を受けることが少なかったことによる。




 以上のような、「資格取得の簡略化」や「師家の無制約」といった柳剛流の特徴には、武術修行に対する合理的な考え方や、名誉や金銭への執着の無さといった、流祖・岡田惣右衛門という武芸者の清廉な人間性が現れているように、私には思える。

 今も昔も、芸事における修行階梯の複雑化や、家元制による統制の強化というのは、結局は権威主義と金儲けに堕してしまうものである。

 しかし、江戸の昔にそれを否定して修行階梯を必要最低限に整理し、実力のある者にはもったいぶらずにどしどし印可を与え、家元に権威を集中させることなくどんどん独立を推奨する。

 柳剛流祖・岡田惣右衛門という人は、このような、江戸時代の武芸者としては稀有な人間性を持った「度量の大きな人」だったのであろう。

 平成も遠からず終わりにならんとする現在、流祖から連綿と伝えられてきた柳剛流という宝を受け継ぎ、日々、その「術」を修行する我々は、こうした流祖の「心根」も、学び受け継いでいかなければならない。


 *  *  *  *  *  *  *   *  *  *  *  *


 ここまで5回に渡り、山本邦夫教授の『浦和における柳剛流剣術』という論文に記された柳剛流の特徴について、実技を伝承する者として検討を加えてきた。

 本論文における山本教授の記述や論考には、柳剛流の実技を知らない「研究者」ならではの誤謬がいくつもみられる。

 その誤りは、事実に基づいて正されなければならない。

 しかし一方で、本論文が執筆された昭和後半という時代を考えれば、現在のようにネットで容易に情報が手に入るわけではなく、地道な史料収集と検証、フィールドワークによって、柳剛流という武芸の歴史的考察や記録に先鞭をつけてくださったその大きな功績は、いささかも傷つくことはない。

 こうした先人の研究成果があるからこそ、我々は流儀の歴史的経緯や全体像を知り、流祖や先人たちの足跡に思いを致し、その「術」と「心」を、より明確に受け継いでいくことができるということを忘れてはならないだろう。

1705_松代演武_柳剛流左剣
▲柳剛流剣術 「左剣」 打太刀:小佐野淳師 仕太刀:瀬沼健司



■引用・参考文献
『浦和における柳剛流』山本邦夫/「浦和市史研究」第2号
『綱嶋家の剣術について』山本邦夫/「浦和市郷土博物館研究調査報告書」第7集
『埼玉武芸帳~江戸から明治へ~』山本邦夫/さきたま出版会
『埼玉県の柳剛流(その1)』大保木輝雄/埼玉大学紀要 体育学篇第14巻
『埼玉県の柳剛流(その2)』大保木輝雄/「埼玉大学紀要 体育学篇第15巻
『日本剣道史 第十号 柳剛流研究(その1)』森田栄/日本剣道史編纂所
『柳剛流剣術について』村林正美/鳥羽商船高等専門学校紀要 第12号
『柳剛流剣術の特色』村林正美/武道学研究22-2
『幸手剣術古武道史』辻淳/剣術流派調査研究会
『戸田剣術古武道史』辻淳/剣術流派調査研究会
『柳剛流剣術古武道史 千葉・東金編』辻淳/剣術流派調査研究会
『郷国剣士伝 第2号 高野佐野三郎・明信館の謎
 川田谷村明信館と桶川、北本での柳剛流』辻淳/剣術流派調査研究会
『一條家系譜探訪 柳剛流剣術』一條昭雄/私家版
『増補・改訂 宮城県 角田地方と柳剛流剣術-日本剣道史に残る郷土の足跡-』
 /南部修哉/私家版
『ルックバック わらび』加藤隆義(編)/蕨市相撲連盟
『雑誌并見聞録』/小林雅助
『吉田村誌』/「幸手市史調査報告書 第十集 村と町・往時の幸手」幸手市教育委員会編
『多気町郷土資料館特別企画展「郷土の剣術柳剛流と日本の武道」』村林正美編
『郷土資料 柳剛流祖 岡田惣右衛門奇良』岡安源一
『幸手市史(近世資料編Ⅰ)』
『石川家文書』
『深井家文書』

 (了)

武具を誂える/(柳剛流)

2017年 12月06日 01:27 (水)

 先日、贔屓にしている武道具店に、柳剛流突杖に使う径6分、全長3尺8寸の杖を誂えた場合の見積もりを依頼していたのだが、その返事が来た。

 頃合いの値段で作れるとのことなので、さっそく1本、白樫製のものをオーダーする。

 合わせて柳剛流の長木刀についても見積もりをとったのだが、こちらについては現在使用している長木刀に比べると、残念ながらかなり単価が高く、白樫では今使っているものの倍近い値段である。

 一方で、赤樫(イチイ樫)であれば、現在使っているものよりも「やや高い」程度の値段で作れるとのこと。

 そこで、これも何かの機会であるし、また現在使っている柳剛流の長木刀が白樫製のため、使い勝手や感触の違いを比べてみたいなという気持ちもあり、イチイ樫のものを一口、注文してみることにした。

 さて、どのようなものが出来上がってくるのか、今から楽しみである。



 そして今晩も、仕事が終わってから深夜、拙宅にて稽古。

 柳剛流剣術、突杖、そして神道無念流立居合。稽古の〆は、柳剛流の備十五ヶ条フセギ秘伝。

 我ながらいまだ課題は多いが、コツコツと稽古をしていくしかあるまいね。

 (了)

荒木流抜剣 「落花」/(武術・武道)

2017年 12月03日 11:02 (日)

 昨日は久々に、県立武道館の武道場で稽古を行った。

 まずは柳生心眼流の素振二十八ヶ条でウォ―ミングアップ。

 次いで柳剛流居合、剣術、突杖。

 そして、荒木流抜剣。

 ここで、一本目の「落花」の一重身に納得できず、何度も形を繰り返す。



 剣術や立合であれば、撞木足に留意することで一重身をしっかりとすることができるのだが、座業での一重身というのはなかなかに難しいものだ。

 加えて、荒木流抜剣の「落花」では、たいへん特殊な運刀と姿勢(構え)でもって一重身を作らねばならず、非常に厳しく厳密な体の使い方を要求される。

 「最初の一手に極意あり」というのは、古流の武術でよく言われることだが、荒木流抜剣においても、この1本目の形である「落花」に、当流居合の「術」の奥深さを「観て」とることができる。

1712_荒木流抜剣 「落花」
▲荒木流抜剣 1本目「落花」


 稽古の〆は、柳剛流長刀。

 ところがここで、いささか強引に長刀を振るったせいか、不覚にも少々肩を痛めてしまった。

 大事ないとは思うが、五十路も目の前ともなると、体の此処彼処にガタがきて、無理がきかなくなるものだとしみじみ思う。

 老兵の第一義は、「無事之名馬(ぶじこれめいば)」でありたいものだ(苦笑)。

 日曜は、朱子の『周易本義』にじっくりと取り組みつつ、心静かに過ごそうと思う。

 (了)

酔っ払いの売文屋も、たまにはまともな仕事をする/(身辺雑記)

2017年 12月02日 02:18 (土)


171202_書籍
▲『障害者総合支援法のすべて』 監修/柏倉秀克 (ナツメ社)


 先月13日から発売されたこの本、今年の仕事の中で最も力を入れたもので、この春から夏にかけて本書のおよそ9割を執筆した。

 多分、私の25年におよぶ無頼な売文屋人生のなかで、数少ない、世のため人のためになるであろう仕事であった。

 昨年、

「すべての国民が、障害の有無によって分け隔てられることなく、相互に人格と個性を尊重し合いながら共生する社会の実現に向け、障害を理由とする差別の解消を推進すること」

 を目的とした、障害者差別解消法が施行されたことは、もっと多くの人が知っておくべきことだと思う。

 その上で、今夜もいつものごとくアードベッグで泥酔しながら、中島みゆきの『命の別名』などを聞きつつ思うのは、最も弱い人たちを守れないような社会は、ひいてはその他の大多数である我々自身も守れない弱肉強食の「道理」無き世界であるということだ。

 そしてまた武芸者の剣や拳は、弱きを助け邪知暴虐を挫く、神武不殺の業でなければならないと、しみじみ思う。

 (了)