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もののあはれ/(武術・武道)

2017年 10月31日 10:33 (火)

 武友のA氏から、過日、B氏が死去したという話を聞いた。

 B氏は、Cという武道の関係者で、自身のブログで他流への誹謗中傷を繰り返したり、陰謀論やニセ医学に基づいたヘイトスピーチをたびたび書くなどして、まともな武術・武道関係者はもとより、医療や科学関連など、幅広いジャンルの人々から顰蹙をかっていた人物である。

 B氏のネット上での他流派への口撃やヘイトスピーチは、その後、志ある人物の勇気ある行動によって鎮静化し、ブログは閉鎖に追い込まれたのだが、その後もB氏は別ブログで細々と、ニセ医学や陰謀論に関する持論を展開していたようである。

 私も数年前に、B氏の他流攻撃やヘイトスピーチ、ニセ医学や陰謀論のバカバカしさについて、本ブログで批判を加えたことがあるので、同氏が病死したという話を聞いて、いささかの感慨がある。


 B氏は、徹底的に自分が所属する流派とその指導者を神格化し、一方で他流を声高に、そして口汚くののしるような文章を書いて、多くの武術・武道人の反感を買っていたのだが、死去後、B氏の関係者が公表した記事などを読むと、そもそもB氏は虚弱なタイプの人で、成人後かなり遅い時期から武道の世界に入り、そのためもあってか、自流の指導者を狂信的に信奉していたのだという。

 つまり、武術・武道人としての身体的・精神的な虚弱さがルサンチマンとなり、それが内的には自流とその指導者への妄信、外的には過激な他流批判や他武道への口撃という行動に繋がっていたのだろう。

 心身の弱い者や己に自信の無い人ほど、ネットという“守られた世界”では、逆により過激に他者を攻撃したり、他罰的な発言を繰り返す傾向があるが、B氏についてもそういう傾向の人物だったということだ。

 一方でB氏の死去を受けて、その死を悼む関係者の記述も、少ないながらいくつか見られた。

 思うに、過激なネット上での言動で多くの人から嫌われている者も、他方では現実世界での暮らしがある。

 そこでは彼や彼女の周囲にも、家族、知人、友人、同僚、上司や部下、先輩や後輩などがおり、それらの人に囲まれて彼や彼女もひとりの社会人として、最低限の人間関係や社会性を持って生きている。

 ゆえに彼や彼女は、ネット上で口汚く他者を罵る文章を書きちらす一方で、会社では上司に頭を下げ、客先ではゴマのひとつもすり、稽古場では師匠や先輩に厳しく叱られているのかもしれない。

 そのように考えると、ネット上での発言が過激で攻撃的であればあるほど、「かわいそうな人だなあ・・・・・・」としみじみ思うのは、私だけではないだろう。

 加えて、ネット上ではニセ医学を声高に主張し、標準医療を真っ向から否定していたB氏だったが、実際には慢性疾患の治療のために、医療機関での継続的かつ標準的な治療を受けていたという話を聞くと、当時、同氏による過激かつ非科学的な医療批判の論調を見聞きしていた人間のひとりとしては、これもまた憐れをさそう話だ。


 とはいえ、死んでしまえばみな仏様。

 泉下の氏が、武術・武道へのルサンチマンや標準医療へ誤謬から解放され、心静かに冥っていることを願う次第である。

 (了)
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神武不殺/(柳剛流)

2017年 10月30日 02:42 (月)

 思うところがあり、今晩の自宅での稽古では木太刀を執って鏡に向かい、備十五ヶ条フセギ秘伝に集中する。

 鏡に映る己の構えとそこからの太刀筋に対し、フセギ秘伝で応じ、そして相手の脚を薙ぎ、面を打ち割り、小鬢を斬り裂き、小手を落とし、胴を抜き、当身を入れ、体当たりを加え、足がらをかけ、倒れた相手にさらに斬りつけ、最後には組敷いて留めを刺す。

 鏡の中の己の相手にした、地稽古のようなものだ。

 柳剛流における備十五ヶ条フセギ秘伝の稽古は、形稽古と撃剣の間をつなぐ中間的な鍛錬であると実感する。

 ここから撃剣による地稽古までは、もう一足飛びであろう。

 ひとしきり剣を振った後は、柳生心眼流の素振。

 「表」、「中極」、「落」、「切」、さらにそれぞれの向振り、取返、取放の形を錬る。

 心眼流の素振でも、鏡に映る己を仮想の敵とし、すべての拳・足・肘・肩などによる当身が、武技となっていることを心掛ける。

 稽古が終われば、もう肌寒い季節だというのに、稽古着が汗で重い。



 翠月庵での門下との稽古や、水月塾本部での師や兄弟子たちとの稽古と異なり、自宅ではどうしても単独稽古にならざるをえないが、武技である以上、常に制敵・殺敵の気組みをもって取り組まなければならない。

 そうでなければ武技たるものが、殺陣や踊りなどのような見世物になってしまう。

 かつて柳剛流祖・岡田惣右衛門は、次のように語った。


「世の剣術家は皆、斬足之法を知らず、ゆえに剣を学ぶ者は足を斬ることを愧じとしているが、戦場では相手の足を斬らないという理はない。(中略)。身体四肢のどこを斬っても突いても構わず、勝負が決しなければ組打ち投げつけるのだ」(「奉納御宝前」より意訳)


 あるいは、私淑する講武実用流の平山行蔵は剣術の神髄を、


「夫剣術は敵を殺伐する事也。其殺伐の念慮を驀直端的に敵心へ透徹するを以て最用とすることぞ」(平山子龍『剣説』より)


 と喝破した。

 武芸の鍛錬とは、たとえ相手のいない一人稽古だとしても、心法のひとつのあり方として、常にそういうものでければならない。

 これまで36年間の武術・武道稽古を通して思うのは、形武道でも競技武道でも、古武道でも現代武道でも、「ハラ」の錬れていない者は弱いということだ。

 だからこそ武芸を志す者は、稽古を通じて「一人一殺」、「一殺多生」のハラを錬らなければならない。

 その上で、目指すべき武術の至極こそが、東洋哲学の帝王たる『易』繋辞伝が示すところの、


 「神武不殺」


 なのであろう。


1710_柳剛流居合 「向一文字」
▲柳剛流居合 「向一文字」


 (了)

他人を攻撃せずにはいられない人/(身辺雑記)

2017年 10月29日 16:54 (日)

 心療内科関連の取材のため、下調べの一環として「事前に読んどいてください」といわれたのが、片田珠美著『他人を攻撃せずにはいられない人』。

1710_他人を攻撃せずにはいられない人


 これ、25万部も売れているそうな。

 内容的には一般向けのサラッとした読みものなので、学術的な深みとか、実際にそういう人に被害にあっている人への具体的なノウハウには乏しいけれど、最近少なくない「他人に攻撃的な人」とは、こういうものなのかを知るための手がかりや、理解への入り口としては良いのではないかと思う。

 現在、私の直接的な知り合いだとか、仕事関係の知人や関係先、あるいは近しい武術関係の人々などには、こうした「他人を攻撃せずにはいられない人」というのはいない。

 なにしろ自由業なので、おかしな人や変な仕事の依頼は断ればよいし、武術・武道の世界についても、こういったパーソナリティ障害系の人とは、なるたけお近づきにならないように平素から心がけて距離を置いているからだ。

 一方で浮世に目を向けると、確かに最近、こうした「他人を攻撃せずにはいられない人」たちというのが少なくない気がする。



 過日、親しい人と一緒にとある劇場で、古典芸能を鑑賞していたときのこと。

 公演中、隣の席に座った40~50代くらいの女性の肘が、私の肘にぶつかった。

 おやっと思ってそちらを向くと、鬼の形相で私をにらみつけて、「いいかげんにしてよ! 何度も肘がぶつかる!!」と声を荒らげる。

 いやいや、肘をぶつけてきたのはそちらの方だし、しかも今この1回だけじゃん・・・・・?

 ちょっと神経過敏で被害妄想ぎみな人なのだろうと思い、関わり合いになりたくないが、さりとて舞台の公演中で席を変わるわけにもいかず。

 異変を察した親しい人が、「どうしたの?」と私の耳元で小声で聞いてくるので、思わず苦笑しながら私は肩をすくめるジェスチャーで答えた。

 すると、その様子を見てさらに激高したのであろうか? 文句をつけてきたその女性は何と私に向かって、こうのたまったのである。

 「この、デブ!!」

 ・・・・・・。

 私はこれまで、パッポンストリートでニセ警官に手錠をかけられたり、アンカレッジの安宿でゲイのおじさんに交際を迫られたり、パタヤのディスコのトイレでヤク中のオカマに襲いかかられたり、タシュクルガンで高山病で死にかけたり、ディヤルバクルで治安軍の装甲車にひかれそうになったり、クチンのジャングルで州軍に監禁されつつ尋問を受けたり、ダマスカスで秘密警察に尾行されたりと、日本で生まれ育ったアラフィフのオジサンとしては、それなりにけったいな人生経験を積んできたつもりである。

 それにしても、まったく見ず知らずのわけのわかんないオバサンから理不尽にも、「この、デブ!」呼ばわりされたのは、もちろん生まれて初めてだ。

 ま、自分がいささかメタボぎみであるのは否定しないけれども・・・・・・、「この、ハゲー!!!」発言で有名な豊田真由子元議員じゃあるまいし、まことにもって失礼千万である。

 とはいえ、なにしろ今この瞬間は、目の前で片岡仁左衛門演じる藤田水右衛門が、いままさに棺桶の中から飛びだそうかという、『通し狂言 霊験亀山鉾』有数の見せ場のひとつ。

 そんな時に、ちょっとアタマのおかしい人の暴言にこちらも激高して声を荒らげるのはみっともないし、なにしろ自ら肘をぶつけてきて因縁をつけて来るような相手なので、何をしでかすか分からない。

 そこで、いつでも不測の事態に対応できるよう心に留めつつ、しかし相変わらずこちらをにらみつけるオバサンを無視して、私たちは芝居の鑑賞を続けた。

 その後もオバサンは、こちらを何度もにらみつけたり、これみよがしに自分の肘をさするようなしぐさを繰り返していたのだが、それ以上のことは特に起こらなかった。

 終幕の口上の後、幕が引かれ会場が明るくなり、親しい人と、「いや~、やっぱ仁左衛門は色悪だよねえ」などと二言三言話していると、となりのオバサンは周囲の人を押しのけるようにしながら、ひとりで足早に会場から出ていった。

 それを見て親しい人が、「ところで、隣の人と何かあったの?」と聞くのでコトの顛末を話すと、

 「ええっ! そんなこと言われたの!? それにしても・・・・・デブって・・・・・ヒドイ・・・、でもごめん・・・、あはははははは」

 と大爆笑である。

 親しい人によれば、女性というのはえてして、どうにも言い返しようがない相手に、それでも何か悪口を言おうと思うと、大概が相手の身体的なことを言うものなのだという。

 「それにしても、デブってねえ・・・はははは、ごめんごめん」

 私としては、頭のイカレタ被害妄想気味のオバサンに対して沈着冷静に対応しつつ、あまつさえ万が一そのオバサンが刃物でも取り出して暴れるようなら、親しい人を含めて周囲の人々の安全を確保しつつ即時制圧できるように不断の警戒をしながら、なおかつ仁左衛門や又五郎さんたちの見ごたえのある芝居を楽しむという、なかなか普通の人ではできないであろう的確かつ洗練された対応をしていたのである。

 それをだね、なにもそんなに爆笑することはないんじゃない。いやホント、お願いしますよ・・・(笑)。


1710_写真
▲デブで、ど~もさーせん!



 後日、ネットで調べてみると、読売新聞の掲示板に、今回のように公共の場で自ら他者にぶつかるなどして因縁をつける、あるいは電車内で体が触れてもいないのに周囲の人を威嚇するというような女性がいて迷惑をしている、というようなスレッドがあった。

 いずれの場合もシチュエーションこそ違え、私が巻き込まれたような形で当り屋のようにして因縁をつけ、周囲の人をだれかれ構わず攻撃するのだという。

 ま、暴言ぐらいであれば、人語を解するボウフラやゴクゾウムシが意味不明なことを喋っているのだと思い、聞き流せば良いだけなのだが、実際に暴れだしたり、あるいは痴漢の誤認逮捕のようなことになったり、最悪、凶器などを振り回して周囲の人に危害を加えるようなことになると、ちょっと話はシビアだなあと思う。

 思うにこうした、「他人を攻撃せずにはいられない人」による他者への理不尽な攻撃というのは、実は本人の不安やルサンチマン、弱さや心細さ、満たされない自分の生活や人生への怒りの現れなのだろう。

 「なぜそんなに、口汚く他人を罵るのか?」

 「なんでそれほどまでに、他者を攻撃するのだろうか?」

 と思うような人が、実生活にしても、あるいはネット上でも、最近はけして少なくないように感じられる。

 こうした人たちの心には、満たされない己への自己憐憫や、ドロドロとしたルサンチマンが果て無く渦巻いているのだろう。

 以前私も、このような「他人を攻撃せずにはいられない人」からネットで誹謗中傷されたことがあるのだけれど、その際に尊敬する中国武術家の方から、

 「そういう攻撃をしてくる人への最良の対応は、自分が好きなことに打ち込んで、充実した日々を送ることではないでしょうか」

 という言葉をいただき、心励まされたものだ。

 そもそも、攻撃的な行為や罵詈雑言、当てこすりや嫌みでは、人の心は動かせない。

 それどころか他者を攻撃することで、己の品性の醜さを、周囲にさらけ出しているということが分からないのだろうか?

 少なくとも私は、そんな人間にはなりたくないと、しみじみ思う。

 そしてなにより、誰もが小学校で習ったと思うけれど、デブとかハゲとかチビとかブスとか、他人様の体や見た目のことを悪しざまに言葉にしてはならないのは、言うまでもありません。


 「あなたは、誰かの怒声や罵倒やけんか腰の態度に、『ああ、そうだな、この人の言う通りだ』と納得したことがありますか? 僕は一度もない。人の心を動かそうとするためには、自ずと言葉や態度は、丁寧で、誠実になるはずなのだ。だから、攻撃的な態度で臨んでくる人に自分が対応する必要はない」(小池一夫)



 (了)

深夜3時の柳剛流稽古/(身辺雑記)

2017年 10月28日 04:10 (土)

 本日はまた雨・・・・・・。

 いくら私の雅号が翠雨だとはいえ、どうも最近は週末ごとに雨が降り、翠月庵での稽古ができない。

 そういうときに限って、雨天代替用の県立武道館の個人使用もできず、やむを得ず門下の諸氏には自主稽古に励んでもらうしかない。

 一方で自分自身を振り返れば、来週末までに絶望的なほど締め切りが重なっており、翠月庵が雨天中止で空いた時間も、原稿書きやらインタビューのテープ起こしやらにあてなければならぬほどだ。

 金曜も朝から机に向かい、原稿書きが終わったのは夜の11時過ぎ。

 「今晩の稽古はさぼるか・・・」と、いそいそと肴にするおからなどを炊いて、深夜0時から録画しておいた三船主演の『大忠臣蔵』と、チーター主演の『明日がござる』を鑑賞しながら晩酌。

 土曜も午前中からテープ起こしをしなければならないので、そのまま寝てしまおうと思ったのだが、なんとなく気分がぱっとせず寝付けない。

 結局まんじりともせず、気が付けば深夜3時。

 映画『エミリー・ローズ』では、悪魔が活動するといわれる時間であるが、いっこうに眠くならない。

 そこで、柳剛流の活動する時間である(爆)。

 いそいそと稽古着に着替え、木太刀を手に柳剛流剣術の備之伝からフセギ秘伝、「右剣」と「左剣」の形を、静かにゆっくりと遣う。

 さらに居合。

 往時の角田では三尺刀で居合の稽古をしていたということで、四尺四寸二分の柳剛流の木太刀を居合刀に代えて腰に差し、居合の形をひとしきり、できるだけ音をたてないように飛び違いながら抜く。

 その後、二尺四寸五分の差料で同じ形を抜くと、まるで脇差のような感覚だ。

 そして今、小半刻ほどの稽古を終えて、こんな駄文を書いているわけだが、明日、いや今日も3人分のインタビューのテープ起こしと、温泉旅館の原稿、さらに外国人旅行者向けのweb記事の編集作業もしなければならぬ。

 何はともあれひと風呂あびて、とりあえず仮眠するとしよう。

 オヤスミナサイzzzzz。

 (了)

NHKドキュメント『 ありのままの最期 末期がんの゛看取り医師″ 死までの450日 』 /(医療・福祉)

2017年 10月27日 10:32 (金)

 介護保険制度が施行された2000年から17年間に渡り、医学新聞社や専門誌、通信社の契約記者として在宅医療を取材してきた。

 「看取り」や「在宅ホスピスケア」、「デスエディケーション(死の準備教育)といった言葉や考え方は、いまでこそそれなりに一般的になってきたが、当時はまだ、全国各地の在宅医療専門に志をもつ少数の医療関係者たちが、それぞれに孤軍奮闘していた時期であり、思い返せば随分昔のような気がする。

 昨年、私は母を看取ったのだが、在宅医療を専門領域とする医療記者が、自分の親の看取りの場所に病院を選択したというのは、我ながら皮肉なものだなと思う。

 一方で、「死に向かう時期の心身の苦痛を、可能な限り取り除く」という点では、いくつかの心残りはあるものの、できうる範囲で末期がんの母の痛みを取り除くことができたと思う。

 最終的に母は、私たち4人の子どもと3人の孫に囲まれて、苦痛を取り除くため鎮静剤を投与して意識を落とし、眠ったまま最期を迎える「終末期鎮静」を行った。

 意識を失う直前の言葉は、その年から空手道を学び始めたばかりの甥っ子に向けての、「ねえ、空手(の形)を見せて」であり、その後のこん睡状態の中で、私が最後に聴いたのは「行こう・・・」というつぶやきであった。

 終末期鎮静を開始してから10日間のこん睡状態をへて、母は静かにこの世を去った。



 過日、NHKのドキュメンタリー「 ありのままの最期 末期がんの゛看取り医師″ 死までの450日」という番組を見た(https://www.nhk.or.jp/docudocu/program/92935/2935010/index.html)。

 このドキュメントは、長年に渡って死に向かう末期がん患者の看取りを行ってきた、医師で僧侶の田中雅博氏が、すい臓がんで倒れて死去し、火葬にふされるまでの450日の記録である。

 その内容を一言でいえば、「生き地獄」だ。

 看取りのプロとして1000人以上の末期がん患者をおくってきた同氏は、当然ながら自らの死についても、人工呼吸器や心臓マッサージなどといった延命処置を拒否し、苦痛を取り除いて静かに死を迎える終末期鎮静を選択する。

 氏の希望に沿って、終末期の医療を提供するのは、やはり医師である田中氏の妻だ。

 取材のカメラが田中氏の日々を追いながら、いよいよ終末期の苦痛が激しくなった頃から、田中氏にとっての「生き地獄」が始まる。

 本人は、末期がんの激しい苦痛から、終末期鎮静をはじめてほしいと望むのであるが、主治医である妻はそれを容易に始めようとしない。

 痛みに苦悶し立ち上がることもできない田中氏を、むりやりがん患者向けの集会に引きずり出し、しかも鎮静剤すら与えないのだ。

 この段階で私としてはもう絶句なのであるが、田中氏の妻の「看取りという名の虐待」は、まだ始まったばかりだ。

 いよいよ田中氏のがんの苦痛が頂点に達し、妻も終末期鎮静の開始をしぶしぶ認めるのだが、なんと驚くことに主治医である妻は、一度始めた鎮静を毎日2回ずつ中断して、田中氏の意識を覚醒させるのである。

 終末期鎮静とは、末期がんによる耐え難い痛みを取り除くために行うものなのであるが、これを停止して覚醒させるというのがどういうことか、言うまでもないことだろう。

 苦痛のない昏睡からむりやり目覚めさせられ、再び死に至るがんの痛みと苦しみに心も体もさいなまれるのである。

 しかもそれを1日2回、何日にも渡って行うというのだから、常軌を逸しているとしか思えない。

 妻の言い分は、この状態での検査値が思いのほか良かったことと、「取材班のカメラが来ると、元気が出るみたいだから」というものである。

 強制的に鎮静から覚醒させられた田中氏は、ひたすら弱々しい声で、「お願いします・・・、お願いします・・・、お願いします・・・」と繰り返すのみだ。

 この「お願いします」が、頼むから鎮静してほしいとういうのは、誰が聴いても分かりそうなものだが、主治医の妻はまったく意に介さない。

 それどころか延命できるようにと、なんとこの状態の田中氏をベッドに縛り付けて、そのまま直立させてリハビリを強制する。

 その間も田中氏は、末期がんの苦痛の中で、低くうなり声をあげ、ときおり「・・・お願いします・・・お願いします・・・」と繰り返すのである。

 私はこの段階で、主治医であるこの妻は一時的に発狂しているのではないかと思った。

 1000人もの末期がん患者を看取ってきた医師の夫に対して、同じ医師でありかつ妻であるこの人は、夫の意思をことごとく否定する行動をひたすらとり続け、しかもがん末期の絶望的な苦痛を徹底的に味わわせるのだ。

 これを見て、「狂っている」と思うのは私だけでないだろう。

 妻は、田中氏への終末期鎮静の中断と再開を繰り返すなか、カメラに向かってこのようなことを言う。

 「夫が死に臨むに際して、『今まで苦労をかけたね』といった言葉がほしいじゃないですか。でも、そういうことを、まだ言ってもらってないんですよ」

 つまりは、そういう妻としてのエゴから、この人はひたすら夫=患者の意に反した延命を繰り返し、絶望的な苦痛を与え続けるのである。

 最終的な心停止に際しても、妻は田中氏本人が拒否していた心臓マッサージや心腔内注射(長い針を付けた注射器で、胸の上から心臓に直接強心剤を注射して蘇生を図る)を実施。

 カメラに対して、「夫はしないでくれといっていたのですが、しちゃいました(テヘペロ)」、みたいな調子なのだ・・・・・・。

 夫を火葬にふした後、妻は剃髪して尼僧となり、医師としても引き続き、地域での看取りや終末医療に携わっているという。



 私はそんなにメンタルが弱い方ではないけれど、この番組を見ていて本当に気分が悪くなった。

 この妻=主治医の一連の行動は、看取りではなく虐待そのものであり、患者である本人の意思をことごとく踏みにじるものだ。

 しかも当人は、自分の行為にたいへん満足の様子で、その後も医師・宗教家として、終末期医療に携わっているというのだから、絶句以外のなにものでもない。

 加えてもうひとつ理解できないのが、この番組に対する視聴者の反応をネット等でつらつらみると、「感動しました!」「素晴らしい最後でした」みたいなものがほとんどであるということだ。

 これ見てを、そうすれば「感動」できるのだろうか?

 これが、「素晴らしい最後」だと思うのだろうか?

 私に言わせれば、妻のエゴでひたすら自らの医師・僧侶としての望みをすべて踏みにじられ、本当に死にたいほどの身体的・精神的苦痛を無理やり、しかも断続的に味わわされた田中氏の最後の日々は、まさに「拷問」あるいは「生き地獄」であり、妻=主治医の行為は虐待そのものである。

 それを見て「素晴らしい」「感動した」と思う人の気持ちは、私には理解できない。

 試みに、親しい医療関係者にこの話をすると、「ああ、あの番組見たよ、あれはもう虐待だよね。気分が悪くなって、途中で見るのをやめたよ・・・・・・」とのことであった。



 妻=主治医の常軌を逸した行為と、それを見て「感動」するたくさんの人々・・・・・・。

 つまるところ、

 「いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし 」

 ということか。

  (了)

仙台藩角田伝 柳剛流/(柳剛流)

2017年 10月26日 01:17 (木)

 昨日は柳剛流祖・岡田惣右衛門の祥月命日であった。

 このため昨晩の稽古では、まず流祖の御霊へ黙祷。

 その後、仙台藩角田伝柳剛流の第8代相伝者である小佐野淳先生より、私がこれまでご指導いただいてきた柳剛流のすべての術技と口伝を、復習そして再確認した。

 その内容は、以下の通りである。


仙台藩角田伝 柳剛流

切紙
 剣術(備之伝、右剣、左剣)
 居合(向一文字、右行、左行、後詰、切上)
 突杖(ハジキ、ハズシ、右留、左留、抜留)

目録
 剣術(備十五ヶ條フセギ秘伝、飛龍剣、青眼右足頭(刀)、青眼左足頭(刀)、無心剣、中合剣(刀)、相合剣(刀))
 小刀伝
 二刀伝

免許
 長刀秘伝
 法活
 一人ノ合敵
 組打

                                                       以上



 さらにその後は、これは師よりの実伝ではないのだが、伝書研究の一環としてこれまで私が調査検討してきた、柳剛流各派の殺法についても再確認と実習を行った。


■仙台藩角田伝柳剛流殺活免許巻に記された十八ヶ条の殺
 天道、面山、二星、虎一点、剛耳、雁下、玉連、骨当、松風、村雨、水月、心中、右脇、稲妻、明星、玉水、高風市、虎走

■武州岡安伝柳剛流剣術免許に記された死穴十三ヶ条
 天車、面山、人中、村雨、二星、掛金、音当、女根、水月、脇腹、心中、玉水、亀ノ尾

■武州岡安伝柳剛流の免許添書に記された五ヶ所大当
 天見、人中、秘中、水月、気海



 稽古・研修の後は心静かに茶を服し、流祖の生涯に想いを馳せつつ、柳剛流の道統をこれからも大切に紡いでいく覚悟を新たにした次第である。


 武術伝習所 翠月庵/国際水月塾武術協会埼玉支部
                        瀬沼健司 謹識

171025_222131.jpg

 (了)

平成29年度 柳剛忌/(柳剛流)

2017年 10月25日 11:59 (水)

1710_岡田先生碑


 柳剛流祖岡田先生之碑

 先生江戸の人。諱、奇良、惣右衛門と称す。
 その剣法巍然也。独立変動神の如し。
 世に勍敵無く一家を立て法命を柳剛流と曰う。
 剛を取って柔を偏廃すべからず也。
 誉望に振るへ海内、四方の士争って門を造る。
 余の師林右膳はかって先生に従い数年学ぶ。
 才芸超倫。善くその統を継ぐ。
 余、右膳に従って業を受け故に、その祖恩を感じ石を建て表顕す。
 其の美しきか如く。
 この資、余の門人智久興時等の力あり。
                         慶応紀元乙丑夏六月
                         石渡義行謹記 喜多徳書 




 本日10月25日は、柳剛流祖・岡田惣右衛門源奇良の祥月命日である。

 流祖の没後191年となる今も、「断脚之術」は、我々の振るう剣に脈々と受け継がれている。

 その誇りを胸に、今日も稽古に励みたいと思う。

 (了)

古武術の保存といふ事について~成瀬関次著『臨戦刀術』より/(武術・武道)

2017年 10月23日 14:06 (月)

 根岸流手裏剣術の成瀬関次師と言えば、桑名藩伝山本流居合の相伝者でもあり、戦中は軍刀整備を担う軍属として大陸の戦場に赴いたことでも知られている。

 こうした経験から成瀬師は、現代における白兵戦での日本刀の実情を記した記録を数多く残しており、なかでも『戦ふ日本刀』や『実戦刀譚』、『臨戦刀術』などの著書は、たいへん示唆に富んだ記録として私も味読している。



 昨夜、柳剛流と柳生心眼流の稽古をひとしきり行った後、選挙速報をつらつらと聞きながら、ひさびさに昭和19(1944)年刊行の『臨戦刀術』を紐解いていたのだが、次のような一文が目に留まった。


 古武術の保存といふ事について序に小見を述べて置きたい。近来古武術の伝統が、だんだん世に表れて来るやうになつた事は、まことに結構な事であるが、それが多くは、その形だけを保存するにとどまるといふ事は一考すべきではなからうか。

 成る程、一本の針を吹きまたはこれを打って敵を防いだといふやうな一つの術でも、これが失われたが最後現世に於いて再び得る事は出来ない。これを保存し、これを伝えるといふ事は重要ではあらうが、それと共に各流祖なり伝統者なりが、血を以てこれを創めこれを伝えた歴史と伝統精神とを、同時に保存するものでなくてはならないのである。

 この三者を具備しない、単に形だけの古武術なるものには、随分如何はしいものが少なくない。中には古い流名だけをとって、形は全く別種のものではないかと思はるゝやうなものさへある。

 さうしたものが、古武術勃興の時世に便乗して、白昼公然と演武されるといふやうな苦々しい事は、武道の尊厳を保つ上から見て、断乎として排除すべきではなからうか。



 このように記した上で成瀬氏は、国の公的機関を設け、そこで流儀の真偽等について吟味させるべきであるとの意見を述べている。

 なおちなみに、現在、国内には古流武術に関する公的な団体としては、日本古武道振興会や日本古武道協会があるが、これらの団体はいずれも、それぞれに参加している流儀の歴史的正当性や真偽を、学術的に担保するものではないということは、改めて認識しておくべきであろう。

 なかには、「古武道振興会に参加していない流儀は、すべてニセモノである!」などと公言している武術関係者のブログもあるようだが、なんというか、これはとんでもない暴論だ(苦笑)。

 これらの団体に参加していなくとも、長年にわたって地域で伝承されてきた古流武術は全国に数多くあり、逆にこうした団体に参加していながら伝承に疑義が指摘される流儀もあることは、ある程度のキャリアと見識のある武術・武道関係の皆さんならば、ご存知の通りである。

 武術・武道の事跡調査や研究に関わる者は、安易な権威主義に踊らされてはならない。

 そしてまた、いつの世も伝統を騙る「ニセ古武術」の芽が尽きないというのは、なんとも残念なことだ。

 (了)

農民剣法と現代における武士道/(武術・武道)

2017年 10月22日 16:33 (日)

 江戸時代後期、武州では多くの武術流派が興隆した。

 それらの流儀の多くが、武士階級以外の階層出身者によって創流され、あるいは広く稽古されていことは、たとえば剣道範士で武州における武術研究の先駆けであった志藤義孝埼玉大学教授の論文、「江戸時代における埼玉県の剣術」(武道学研究11-3/1979)に詳しい(https://www.jstage.jst.go.jp/article/budo1968/11/3/11_1/_pdf)。

 志藤教授は、こうした江戸中期以降に農民や町人の間で盛んになった武術の新興流派を「庶民武道」と定義しているが、その代表的な流派のひとつが、我が柳剛流である。

 流祖・岡田惣右衛門をはじめ、武州最大師範家だった岡安英斎、江戸府内と武州の両方で教線を張り数多くの門人を育てた松田源吾など、特に武州一帯で勢力を誇った柳剛流師範家の多くが豪農の子弟であった。あるいは、江戸で1000人以上の門人に柳剛流を伝えた岡田十内は、医者の息子である。

 司馬遼太郎は作品中で、柳剛流を「野卑な田舎剣法」などとたびたび辱める発言をしており、まったく困った国民作家なのだが(苦笑)、たしかに柳剛流は農民出身の流祖が編み出し、広く武州の庶民階級に稽古された典型的な「庶民武道」であり「農民剣法」である。

 私なども毎週末、荒川沿いの田園地帯にある莚を敷いた野天稽古場で、門人と共に柳剛流を稽古していると、

 「これぞまさに、農民剣法だなあ・・・・・・」

 と、(肯定的な意味で)しみじみとした感慨に浸ることも少なくない。

 一方で柳剛流は、江戸府内においては、講武所師範で浪士隊や新徴組にも深くかかわった長沢松平家の第18代当主・松平忠敏、藤堂家士で千葉栄次郎や桃井春蔵とも撓を交えた押見光蔵、幕臣で彰義隊頭取の伴門右衛門、仙台藩角田伝柳剛流の祖であり伊達家筆頭の家柄である石川家の剣術師範となった一條左馬輔、後に無刀流を開いた剣聖・山岡鉄舟などなど、数多くの武士階級の者がその業を学び、稽古に汗を流していたこともまた事実である。

 このように江戸時代の日本では、ある意味で封建体制が社会の隅々まで行きわたっていながら、一方で身分階層の間を自在に行き交うことのできる「ある種の方便」がいくつもあり、そのひとつが剣術をはじめとした「武芸」であった。

 武州葛飾郡惣新田の裕福な農家に生まれた岡田惣右衛門が、18歳で青雲の志を胸に江戸へ向かい、さらに諸国での武者修行を経て柳剛流を号し、以来、武士から百姓・町人まで、身分を問わずに門弟数千を数えたというのは、まさに江戸期における身分制度の流動性と、そのダイナミズムを象徴しているといっても過言ではないだろう。



 そして平成の今、我々は日本国憲法のもとで、出自や職業、資産の有無に関わらず、国民として平等の権利と義務を有しており、身分制度は絶えて久しい。

 にも関わらず、必要以上にことさら「武士」や「侍」、「武士道」といったものを強調して主張する人たちが、武術・武道の世界にも少なくない。

 私は新渡戸稲造師の名著『武士道』を座右の書とし、己を律するための大切な指針のひとつにしているけれど、一方で「武士道」と言う言葉そのものは、あまり日常では使いたくないし、なるべく使わないように心がけている。

 なぜなら現代の日本においては、あまりにも新渡戸師が喝破し再構築した「武士道」という言葉の本質が汚され、誤解され、ある種の思想的に偏った人々に都合のよい形で消費されているように思えてならないからだ。

 思うに、ことさら侍を自称したり、武家の文化や伝承を売りモノにせずとも、人として真面目に、正直に、慎ましく、嘘をつかず、誇りを持ち、他者に優しく、節義を重んじて生きていれば、その人は出自や家系、職業や資産、社会的な名声の有無などに関わりなく、日本の伝統的な風土と文化が育んできた理想の人間像としての、「武徳の士」だと言えるのではないだろうか?



 翻って自省すれば、こんな一文を書いている私自身もまた、矛盾を抱えたまま日々を生きる、ひとりの弱い人間に過ぎない。

 だからこそ柳剛流をはじめとした武芸の鍛錬を通じて、あるべき人間の理想像である「武徳の士」を目指したいと、心密かに願っているのだ。


     ~ しき嶋のやまとごゝろを人とはゞ
                      朝日にゝほふ山ざくら花~


 (了)

雨天休にて自主稽古/(身辺雑記)

2017年 10月21日 23:38 (土)

 この土曜は、台風の影響で朝から雨。

 我が野天道場・翠月庵は、こうなるとお手上げ、休みである。

 このため本日は日中は原稿書き、そして夜から自宅で自主稽古とした。


 昨晩に引き続き、本日も荒木流抜剣を集中的に抜く。

 1本目「落花」における己の一重身が、どうにも納得できず。半刻ほどひたすらこの形を繰り返し、ようやく多少納得できるものとなる。

 稽古後半は、柳生心眼流。素振りの「表」「中極」「落」「切」を一巡。その後、「実践応用稽古」の業を抜粋して復習する。

 柳生心眼流を学び始めた当初は、空手道式の正拳が染みついていたこともあり、心眼流独自の柔らかい拳での当身にかなりの違和感があったのだが、ここ2年ほどは折に触れて、心眼流の拳による当てに習熟することを心掛けてきたかいもあってか、最近は心眼流の拳形が感覚的にもしっくりくるようになってきた。

 重ね当てについても、さらにみっちりと威力を錬り、自分の得意業となるよう磨いていきたいところだ。


 そして今は、深夜1時30分。

 どういうわけか、雨は小康状態となっている。

 夜が明けたら、投票にもいかねばならぬ。

 さて、選挙結果はどうなることやら・・・・・・。

 (了)

弛みを斬る/(武術・武道)

2017年 10月20日 02:06 (金)

 どうも今週は、今一つ原稿書きに身が入らない・・・・・・。

 年末に向けて、企業の求人関連のインタビュー記事やら、外国人観光客向けの飲食店の紹介記事やら、温泉旅館のガイドブックの紹介記事やら、腹膜透析患者向けの啓発記事やら、書くべき仕事が山積みなのであるが、今週はなんとなく筆がのらない日々が続いているのである。

 そこで気持ちの弛みを断ち斬ろうと、本日の稽古は真剣での居合に集中した。

 まずは柳剛流居合。

 「向一文字」「右行」「左行」「後詰」「切上」の5本を抜く。

 次いで、荒木流抜剣。

 「落花」「千鳥」「折返」「岸浪」「後詰」「誘引」「筏流」の7本に集中する。

 柳剛流居合は折敷から飛び違いつつ受けや斬撃を行う激しいものだが、荒木流抜剣も、蹴当てや手刀などの当身を交えつつ、上段横一文字から豪快な袈裟斬りを繰り出し、あるいは相手の腕を踏み当てて抜き付け真っ向正面から斬り下ろすなど、ダイナミックな業の数々で構成されている、たいへん魅力的で稽古のしがいのあるものだ。

 私は、柳剛流とはまた違った意味で、この豪壮で気概にあふれた荒木流抜剣の形=業がとても気に入っており、これからも長く大切に稽古をしていきたいと思っている。



 半刻ほど居合に専念し、なんとなく弛んだ気持ちが引き締まったようだ。

 さて、これからひと眠りして夜が明けたら、気持ちを切り替えて原稿に取り掛かるとしよう。

1710_荒木流抜剣
▲荒木流抜剣 1本目「落花」

 (了)

柳剛流突杖の呼称・表記について/(柳剛流)

2017年 10月19日 11:06 (木)

 こんどの日曜は、衆議院議員選挙の投票日だ。

 当初、政局に旋風を巻き起こすことが期待された「希望の党」が、今となっては一気に失速してしまったのは、なんとも意味深長である。

 思うに、この失速の要因の1つが、小池百合子代表の「言葉に対する感性」にあったのではなかろうか?

 「排除する」「さらさらない」「きゃんきゃん言っている」などといった、小池氏の一連の発言・言葉から、有権者はある種の「おごり」を感じたのだろう。

 少なくとも私は、そう感じた。



 さて話しは変わって、先日、本ブログで私は、

そもそも現在、全国で柳剛流の剣術や居合、長刀(なぎなた)を稽古している人は、最大限に数えても25~26人、実際には継続的・定期的かつ柳剛流剣術等を専門的に稽古してる人数は10名前後しかいないと思われ、(以下略)



 と書いた。

 この一文で、わざわざ「柳剛流の剣術や居合、長刀(なぎなた)を稽古している人」「柳剛流剣術等を専門的に稽古してる人数」と書いたのには理由がある。

 それは、柳剛流の剣術、居合、長刀の修行者が全国でも数えるほどしかいないのに対し、柳剛流突杖、別名三尺棒については、相当数の稽古者が全国に点在しているからだ。

 これまでも本ブログで何度か触れてきたが、柳剛流突杖は、龍野藩伝と言われる系統が無外流居合兵道の中川士龍師範から塩川寶祥師範に伝えられ、「柳剛流杖術」として全国に普及している。

 その規模や人数は、部外者の私には定かではないけれど、全国津々浦々に少なくとも50人や100人はいるのではなかろうか?



 ここで1つ、伝系は異なるとはいえ、同じ柳剛流を伝承し修行している者として気になるのが、「柳剛流杖術」という言葉である。

 元来、柳剛流においては、固有の名称として「杖術」という呼称・表記は存在しない。

 私たちが伝承している仙台藩角田伝はもとより、江戸府内で最大規模を誇った岡田十内の系統にしても、武州最大の師範家であった岡安英斎の系統にしても、いずれも当流における杖術の呼称・表記は全て「突杖」となっている。

 また、三重県に伝播した紀州藩田丸伝柳剛流でも、昭和36(1961)年に清水誓一郎師範が自ら記した直筆資料では、「突杖(ステッキ術)」と書かれているし、明治21(1888)年に森島楠平が村林長十郎に授与した目録でも「突杖」と記されている。

 一方で、江戸末期に柳剛流と天神真楊流を合わせて創流した中山柳剛流の伝書では、杖の形は「突之刀法」とされており、あるいは上総国川場村(現在の千葉県東金市川場)に伝承した古川貢系の伝書では、杖の形は「乳根木」とされているが、この2つの系統の杖術に関する呼称・表記は、柳剛流全体においてたいへんに珍しいものとなっている。



 このように柳剛流では、伝統的に切紙で学ぶ(田丸伝では目録で学ぶ)杖の形については「突杖」と呼称・表記するのだが、現在、塩川先生系統の柳剛流を伝承されている方々は、私の見聞している限りいずれも「突杖」という言葉は用いずに、「杖術」という呼称・表記を用い「柳剛流杖術」と称しておられるようだ。

 「突杖」という伝統的な呼称・表記を、「杖術」という平易で現代的な言葉に変更したのが中川先生なのか、あるいは塩川先生なのか定かではないし、その当時の武術・武道界を取り巻く時代の風潮なども、こうした言葉の変更に影響を及ぼしたのかもしれない。

 しかし、「名は体を表す」ではないけれど、「柳剛流突杖」と「柳剛流杖術」では、ずいぶんと趣が異なると思うのは私だけだろうか?

 私個人としては、流祖・岡田惣右衛門をはじめ、歴代柳剛流師範など数多くの先人に敬意を払うという意味でも、代々伝えられてきた「突杖」という言葉を大切にしたいと思っている。

 そもそも、なぜ柳剛流では伝統的に、杖の技法群を「突杖」あるいは「突之刀法」と呼ぶのかというのは、実技を学べば誰もが「なるほど!」と、納得することであろう。

 この点でも、「突杖」という流儀の伝統的な言葉を、現代的な「杖術」という言葉に置き換えて呼称・表記することには、私はいささかの違和感を覚えるのである。



 塩川先生系統の「柳剛流杖術」は、現在の柳剛流各派において最も修行人口が多く、全国的に普及されている最大派閥だけに、影響力もまた最大であろう。

 だからこそ、こうした流儀の伝統的な言葉を改めて尊重していただければ、系統は異なるとはいえ同じ流祖・岡田惣右衛門が編み出した柳剛流を学び、伝承し、愛する者として、これほどの喜びはないし、古流武術の復興や伝統文化の墨守・保存という点でも、たいへん意義が大きいのではないだろうか。

 なお、柳剛流の「突杖」について、「ツキヅエ」と読むのは、少なくとも仙台藩角田伝においては誤りであることも、ここに改めて申し添えておく次第である。


 ■引用・参考文献
 『郷土の剣術柳剛流と日本の武道』(多気町郷土資料館特別企画展図録)
 『幸手剣術古武道史』(辻淳/剣術流派調査研究会)

 (了)

本当に怖ろしいもの/身辺雑記

2017年 10月18日 10:49 (水)

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 私は、魑魅魍魎、怪力乱神、祟り、幽霊の類は、まったく信じていない。

 一方で、今の住まいに引っ越してきて以来、我が家では奇妙な出来事がたびたび起こる。

 たとえば、スイッチの切ってあるエアコンが、夜中に突然動き出したり。

 誰もいないトイレのドアが、突然目の前で開いたり。

 私ひとりしかいないはずなのに、隣室を誰かが歩くような音がしたり。

 外出先で落としたはずのものが、いつの間にか自室の本棚の上に置いてあったり。

 何年も開け閉めしていなかった襖の裏面に、赤黒い色をした人の手形みたいなのがベタベタと張りついていたり。

 夜中、眠っていたら、寝室のベッドの下から女が現れて腕をグイグイ引っ張るので、「お前、いい加減にしろよな」と一喝したら、すーっと見えなくなってしまったり。

 何かけったいなのがうちの部屋には住み着いているのか、それとも「日本盛 糖質&プリン体ゼロ」の飲み過ぎで、いよいよ大脳辺縁系が侵され始めたのだろうか・・・?

 いずれにしても、上記のように「ちょっと妙なことが、時折起きる」以外、特段、私の日常生活に支障をきたすようなこともないし、もうこの部屋に住んで7年もたつのでこうした奇妙な現象にも慣れてしまい、また害もないので、「ま、いいか」と、ほっぽっらかしている。

 なんなら栗山千明や木村多江、広末涼子みたいな幽霊がそろい踏みで出てきて、お酌をしてくれたり、端唄のひとつでも謡ってくれたらいいのだが、そういう艶っぽいのはなかなか出てくれないようだ・・・・・・。



 先日、鶴屋南北作の『東海道四谷怪談』を読了した際に思ったのは、本当に怖いのはお岩さんの幽霊ではなく、欲得づくで簡単に人を殺し、平気でうそをついて人をだまし、周囲の人々を巻き込んで次々と不幸に陥れていく、人間の肥大化した自己愛や承認欲求の象徴たる民谷伊右衛門の方だ。

 むしろ、恨みや怒りをストレートに表して、憎い伊右衛門に祟るお岩さんの方が、よほど人として(いや、怨霊としてか・・・)まっすぐで了解しやすいのではなかろうか?

 思えば、理不尽で悲惨な事件を伝えるテレビのニュースや新聞記事、あるいは武術・武道界におけるいさかいやいざこざ、捏造や中傷などを見聞きしていると、我が家で起きる古式ゆかしい怪奇現象よりも、現実世界の人間たちの方がよっぽどおっかないなあとしみじみ思う。

 江戸の昔も平成の今も、本当に怖ろしいのは了解不能な人間の行動、欲望やどろどろとした情念ということか。

 あっ、また後ろで誰かのすすり泣きのような声が・・・・・・。

 (おしまい)

「順体」という用語の定義について/(手裏剣術)

2017年 10月17日 16:21 (火)

A大兄

 拝復

 平素より、古流武術に関する貴重なご意見や調査・研究に関するご助言を賜り、ありがとう存じます。

 このたびは手裏剣術の指導や理論解説等において、私どもが使っている「順体」、「逆体」といった用語について、

「順体」という言葉は、振武館の黒田鉄山師範が自分の武術理論を説明するのに使用したのが始まりで、形における多くの体勢にそれぞれの正中線があり、それが歪むことなく動ける「体の中の働き」ということである。ゆえに、この「順体」に対して「逆体」という言葉は成立しない



 とのご指摘をいただき、たいへん興味深く拝読いたしました。



 私は今から12年ほど前に、某手裏剣術稽古会に関わり、以来、

踏み出す足と手裏剣を打つ手が同側の場合を「順体」、踏み出す足と手裏剣を打つ手が異なる場合は「逆体」



 という定義に基づいて「順体「逆体」という用語を使っており、今回のご指摘はこれについてのご批判であると理解しております。

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 ▲「順体」による手裏剣の打剣 (2016年4月、苗木城武術演武会にて)



 さて、私はこれまで、古流武術や手裏剣術の修行と並行して、20年ほど伝統派空手道を稽古しております。

 このため、空手道における突き技の表現として一般的に用いられている、手足が同側となる場合の突きは「順突き」、逆になる場合は「逆突き」という定義・用語を元に、私ども翠月庵の手裏剣術における体の動きについて、上記のように「順体」「逆体」という言葉を使ってきました。

 そもそも私は、振武館の武術や黒田鉄山師範には、以前からあまり興味や関心が無いこともあり、今回、大兄にご指摘をいただくまで、黒田師範の提唱する「順体」という言葉の概念や定義は、まったく存じ上げておりませんでした。

 そこで、さっそくネットやいくつかの書籍などを確認してみたところ、なるほど、大兄がご解説くださったような、黒田師範による定義での「順体」という表現を確認することができました。



 その上で思うのですが、現代の武術・武道の世界において「順体」という言葉は、黒田師範の定義する意味で、確定的かつ広範囲に認知された上で使われているのでしょうか?

 だとすれば、たしかに知らなかったとはいえ、すでに広く世間に認知され、確定的となっている黒田師範の定義における「順体」という言葉を、それとは異なる意味で私および私の門下である翠月庵で手裏剣術を学んだ人々が使っているのであれば、それは訂正する必要が大きいでしょう。

 一方で、私が今まで黒田師範の定義による「順体」という言葉を認知していなかったように、現代の武術・武道界においては、黒田師範流の「順体」という用語の定義はまだ確定的になっていない、つまり十分な認知と確定的な理解が不特定多数の広範囲に及んでいないのであればどうでしょう?

 振武館・黒田師範周辺の限られた範囲の人々にのみ了解されている「順体」という言葉の定義に、同館とはまったく無関係な私ども翠月庵が、わざわざ合わせる必要は無いと考えます。



 試みに、私自身がいつごろから「順体」「逆体」という言葉を手裏剣術の理論説明や教習において使っているのかを調べましたところ、今のところ最も古いところでは2008年のブログ記事で、「順体」「逆体」という言葉を使っていることが確認できました。

 すると、すでに約10年、延べ人数にしますと300人以上に及ぶ、翠月庵の手裏剣術講習会受講者や当庵の門弟に対して、手足の動きとその位置関係を示すにすぎない翠月庵・瀬沼流の定義での「順体」「逆体」という用語が使用され、彼らの間で認知され、再使用され、さらにそれらの人々から不特定多数の人々に伝播されています。

 このため現時点では、まことに畏れながら、翠月庵における「順体」「逆体」という言葉の定義を訂正し、振武館・黒田師範流の定義を是としてそれに合わせる必要性を、私は感じておりません。

 とはいえ、武術界における黒田師範の知名度やその門下数に比べれば、私ども翠月庵の認知度や門下数は実に微々たるものです(苦笑)。

 ゆえに「順体」という言葉の定義については、振武館・黒田師範流の定義の方が、翠月庵・瀬沼流の定義よりも、より確定的かつ広範囲への認知に「近い」、ということは否定できませんね。



 いずれにしても今回のご指摘は、これは武術・武道に限ったことではありませんが、相互理解の基本となる「言葉の意味についての共通認識」や、議論・批判における「用語の定義の重要性」を改めて考え直す、たいへん良い機会をいただけたと思っております。

 ありがとうございました。

 敬具

 武術伝習所 翠月庵
        瀬沼健司 
 
 (了)

10月の水月塾本部稽古~柳剛流剣術目録巻拝受、甲陽水月流/(武術・武道)

2017年 10月16日 15:16 (月)

 昨日は午後から、国際水月塾武術協会本部にて稽古。

 冒頭に師より、古式の作法に則って神前にて、柳剛流剣術目録の印可を賜る。

 合わせて伝書に記載の、

 「花もみじ冬の白雪見しことも
             思えばくやし色にめでけり」

 という武道歌をしたためた直筆の書をいただき、「この道歌の意味を、能々吟味すべし」とのお言葉をいただいた。

 今後もさらに柳剛流の「術」の研鑽、門下への指導、事跡研究に励まねばならぬと、決意を新たにした次第である。

1710_目録



 その後は、甲陽水月流柔術の稽古。

 本部門下のB氏とともに、師より奥伝逆投げ、太刀取りなどを指導していただく。柔の稽古がみっちりできるのも、本部稽古の大きな楽しみだ。


 稽古後はいつものように、師に同道させていただき小宴。

 夜8時、ほろ酔い気分で武州への帰路についた。

 (了)

求めよ、さらば与えられん/(柳剛流)

2017年 10月15日 01:38 (日)

 昨日は久々に、当庵にて柳剛流を稽古する主要メンバーがそろって稽古に励んだ。

 「主要メンバーがそろって・・・」などと書くと、なにやら大層な員数のように感じられるが、そこはそれ、お江戸から電車で約1時間と、都から遠く離れた中山道の鄙びた稽古場である。

 実際のところは、現在、当庵で柳剛流を稽古しているのは私を含めてわずか5人であり、本日集まったのはそのうちの4名。

 よく言えば「少数精鋭」、ありていに言えば「小ぢんまり」としたものだ。

 とはいえ、そもそも現在、全国で柳剛流の剣術や居合、長刀(なぎなた)を稽古している人は、最大限に数えても25~26人、実際には継続的・定期的かつ柳剛流剣術等を専門的に稽古してる人数は10名前後しかいないと思われ、そのうちの約4割を占めるであろう我ら4人は、(いささか気負い過ぎではあるけれど)、流儀の未来を担う貴重な修行人であると自負している。



 本日の稽古では、居合の1本目「向一文字」、剣術の「右剣」と「左剣」、そして長刀をじっくりと稽古した。

 当庵の場合幸いなことに、柳剛流を学ぶ者全員が、武術・武道の有段者であり、しかも4名の門下中3名が何らかの流儀の5段以上という師範クラスなので、繊細な「術」の指導がどんどんできるのがありがたい。

 これがまったくの武術・武道の初心者に対してであれば、それこそ着座の仕方などの基本的な礼法、袴の付け方などの着装、木太刀の持ち方や握り方といった基本的な武具の扱い、さらに歩き方といった基本的な立ち居ふるまいなど、流儀の稽古以前のことから指導をしなければならず、「術」の稽古に入る以前の学びで、かなりの時間を要してしまうことになる。

 むろん、当庵では入門の条件に武術・武道の経験の有無は問うていないので、まったくの未経験者・初心者でも、希望すれば丁寧に指導をすることは言うまでもない。

 しかし、それにしても、座り方や立ち方、立礼・座礼などから指導するのは、教える側も教わる側も、なかなかたいへんだろうなあと思う。

 そういえば数年前、武術・武道の未経験者が入門したのだけれど、立礼と座礼の真・行・草から指導したら、その1回で辞めてしまった・・・・・・(苦笑)。

 またこれは外国人に多いのだけれど、正座ができない人、あるいは足首や足尖が硬いことから折敷の姿勢がとれないという人がいる。

 柳剛流の居合では、正座から抜き付け、折敷の姿勢で飛び違いながら受けや斬撃を行うので、正座や折敷の姿勢がとれないと、そもそも居合を稽古することができない。

 そして、居合は切紙で学ぶことになっているので、これができないと次の目録の業、そしてさらに上の免許の業に進むことができないのである。

 ゆえに、正座や折敷がとれない人には、できるようになるための訓練法やストレッチなどを指導するのだけれど、これらについては身体的な問題なので、なかなかおいそれとできるようにならないのが悩ましいところだ。

171014_柳剛流居合
▲柳剛流居合では、折敷いた姿勢のまま飛び違いつつ斬撃を行う



 とはいえ、「求めよ、さらば与えられん」ということで、指導する側も学ぶ側も根気よく励むことが大切であり、できる人にもできない人にも、丁寧に指導していきたいと心掛けている。

 (了)

稽古着の仕立て直し/(身辺雑記)

2017年 10月14日 01:32 (土)

 柔術の稽古着と空手着を新調した。

 それにしても、武道関係の稽古着のサイズ表示というのは、まったく統一された規格がなく実に分かりにくい。今回も柔道着は3号だが、空手着は4号である。着る人間は同一だというのに。

 空手着は、注文したサイズでほぼそのまま(下衣が少し長いのだが)着ることができるのだが、柔術稽古用の柔道着に関しては袖がひどく長く、一方で身幅がやや狭いという、まさに帯に短し襷に長し状態である。

 もっとも袖の長さに関しては、もともと現在の一般的な柔道着では、古流柔術の稽古着としてはあまりに長すぎるため、最初から購入後に地元の業者に頼んで短く仕立て直してもらうつもりだったのだが、身幅が狭いのはどうしようもない。

 普段和服で生活をしていることもあり、稽古着とはいえ身幅が合わず胸元が開いてしまうのは、カッコ悪くて非常に不本意なのであるが、稽古着とはいえ1着で何千円もするのだから、そうそうポンポンと買い替えるわけにもいかぬ。

 ま、もう少しダイエットしろということか・・・・・・。

 そして先日、袖詰めのため業者に仕立て直しに出したところ、仕上がりまで1か月ほどかかるとのこと。

 たかが柔道着の袖詰めに、ずいぶん時間がかかるなあと思うのが、自分ではできないのでしかたがない。

 結局、新しい柔術の稽古着に袖を通すのは、来月になりそうである。

 こうなったらミシンでも買って、裁縫の稽古でもするかね(笑)。


 (おしまい)

彰義隊と柳剛流/(柳剛流)

2017年 10月12日 11:12 (木)

 小説『大菩薩峠』の作者として有名な中里介山の著書に、『日本武術神妙記』がある。

 これは古今の典籍から、日本の剣豪や武術家のエピソードを取りまとめたもので、「昭和の剣豪小説家たちのバイブルとなった名著」(角川ソフィア文庫 裏表紙の惹句より)だそうな。

 残念なことに、本書では柳剛流に関する記述はないのだけれど、流祖・岡田惣右衛門や二代・一條左馬輔、江戸府内における柳剛流の大家・岡田十内、武州系柳剛流の最大師範家であった岡安英斎、地元角田はもとより岡田十内の元でも腕を磨いた仙台藩角田伝4代・泉冨次など、歴代の柳剛流大師範たちと同じ時代を生きた剣客の事跡の数々はたいへんに興味深い。

 そんな逸話のひとつに、次のようなものがある。

彰義隊と薩兵

 明治戊辰の頃彰義隊の武士が十二三名、薩摩の兵十五六名と街上に出会って、互いに剣を抜いて闘ったが暫くして彰義隊の方が三人まで薩兵の為に斬られてしまった。
 この彰義隊は何れも錚々たる剣術の使い手であったが、まず斯くの如き敗勢に陥ったのを見て隊長はどうも不思議だ、こんな筈はないと改めて自分の隊の姿勢を見直すと何れもいずれも正眼の形を離れて両腕を上にあげていたから、
「小手を下に」と大声で号令をかけて姿勢を直し、改めて太刀を合わせたので忽ちにして薩摩の兵を斬り尽くしたということである。 (剣道極意)




 このエピソードは、柳剛流を修行する者として、たいへんに示唆に富んだものだ。

 柳剛流剣術における「備之伝」や「備十五ヶ条フセギ秘伝」は、構え=術であるという流儀の教えであり、鍛錬法であるが、彰義隊の実戦におけるこの逸話は、「なるほど、備之伝や備十五ヶ条フセギ秘伝の示す術理とは、こういうことなのか!」と、思わず膝を打つものであった。

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▲柳剛流剣術(打太刀:小佐野淳師 仕太刀:瀬沼健司) 打太刀の晴眼、仕太刀の上段による残心



 ところで幕末の動乱時に上野の山で官軍を相手に気を吐いた彰義隊といえば、柳剛流とたいへんゆかりが深いことはあまり知られていない。

 当時、江戸府内で1200人以上の門人を誇った武州系の柳剛流大家・岡田十内は、「自分の門人は彰義隊側に300人、官軍の側にも200人いる」と述べ、彰義隊と官軍との紛争に大いに心を痛めたという(『雑誌并見聞録』より)。

 十内の述べている通り、彰義隊には幹部クラスから平隊士まで、たいへん多くの柳剛流剣士がいたことが、数多くの史料から明らかになっている。

 たとえばその筆頭は、彰義隊頭取で陸軍調役並。岡田十内門下で親子二代にわたって柳剛流を学んだ伴門五郎。

 幕府遊撃隊肝煎・撃剣教授として、鳥羽伏見の戦いから旧幕府軍に参加。彰義隊と官軍が激突した上野戦争では、最大の激戦地であった黒門の戦いで官軍の兵十六名を斬り伏せ、後の西南戦争では警視庁抜刀隊の一員として再び戦塵にまみえた、柳剛流屈指の実戦派・小川重助。

 彰義隊八番隊長で、その後函館まで転戦し最後まで官軍と戦い続けた寺沢正明。

 頭取で第二黒隊長となった、浅草・宗恩寺住職の織田主膳。

 本営詰組頭・第三白隊副隊長で、函館まで従軍した秋元寅之助。

 第二青隊伍長で、やはり函館まで戦い続けた加藤作太郎。

 第二黒隊副長、第十一番隊副長の本橋伊三郎。

 第一青隊伍長・鈴木蔓太郎。

 小川重助の元で戦い、明治には埼玉県志木市で柳剛流の道場「養気館」を設立、門人600名を誇ったという稲田八郎。

 彰義隊支援部隊に参加した中田範雄。

 安政2(1855)年より岡田十内門下となった、第一黄隊士・石上亥六。

 文久元(1861)年より岡田十内門下となった、第一青隊士・阿武野富太郎。

 文久3(1863)年より岡田十内門下となった、柴山仁太郎。

 岡田十内門下で上野戦争に参加。敗走後も函館まで転戦し、維新後は実業界で成功した永倉秀明。

 十内の弟子とよく間違われるが、正しくは松田源吾門下の柳剛流剣士である、彰義隊十一番隊長の横山(加藤)光造。

 そのほかにも数多くの柳剛流剣士たちが、彰義隊士として上野戦争に参加している。



 これら、彰義隊に参加した柳剛流剣士たちの事跡は、

・柳剛流研究の原典資料である、小林雅助著/明治40(1907)年発行の『雑誌并見聞録』
・彰義隊研究の一次史料である明治44(1911)年発行の『彰義隊戦史』
・彰義隊の生き残りである寺沢正明の回顧録『幕末秘録』
・『戸田市史・通史編上』
・『新修・蕨市史』
・研究誌『彰義隊の主唱者伴門五郎』
・埼玉県・三学院内の頌徳碑『伴門五郎之碑』
・岡田十内の門人帳である『神文帳』
・彰義隊士であった小川興郷の調査による『彰義隊士名簿』

 など、公開されているさまざまな史料に記されており、さらにそれらを網羅した研究成果は、関東近辺の柳剛流研究の第一人者である、辻淳先生のご労作である『戸田剣術古武道史』に、たいへん詳しくまとめられている。

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▲柳剛流と彰義隊との関係を調査する検証史料の原典である『雑誌并見聞録』の翻刻



 彰義隊と柳剛流との関係について、私は身を入れて調査をしたというわけではなく、武州系の柳剛流に関する全般的な調査やフィールドワークの中で、いくつか目にしたという程度だ。

 いずれは彰義隊と柳剛流に関する事跡についても、きちんとした調査に取り組みたいとは思っているのだけれど、何しろ自分自身の柳剛流の実技研鑽と門人への指導、そして糊口をしのぐ売文稼業で手いっぱいであり、事跡研究や歴史的な考証については、どうしても後手に回ってしまうのは、いたしかたがないかと思っている。

 それでも流儀に関する歴史的事実については、できるだけエビデンス(根拠)に基づいた記述や発言を行い、出典や引用先を明らかにし、間違いがあればすみやかに訂正するよう心掛けている。

 なぜなら古流武術において、流儀の伝系や事跡に関する誤りを放置し、あるいは私利私欲のために捏造や詐称を行うようなことは、時には戦いで尊い命を散らした流祖以来の無数の先人方はもとより、今現在、流儀の稽古に汗を流す真面目な門人たち、そしてまだ見ぬ未来の修行者と、過去から現在そして未来に至るまで、その流儀に関わる全ての人に対する、最大の侮辱であり冒涜なのだから。

 (了)

野天稽古/(柳剛流)

2017年 10月07日 09:15 (土)

 昨夜、そろそろ稽古をしようかと思うと、折悪く雨が降ってきた。

 ひと降りごとに秋を深めるこの季節の雨は、残暑に疲れた体と心にはたいへん心地よいのだが、外で稽古ができなくなるのが難点だ。

 翠月庵の定例稽古にしても、自宅での稽古でも、私の場合、稽古は基本的に屋外で行うことが多い。

 屋内での稽古は、月1回の水月塾本部での稽古と、不定期に行っている埼玉県立武道館での稽古、そして当夜のように雨やあるいは時間が深夜になってしまったときに自室で行う稽古のみである。



 以前、武州における柳剛流の有力師範家のひとつであったF家を訪ねた際、江戸時代の稽古場の様子に関してお話しを伺うことができた。

 同家の中庭には、かつて間口3間、奥行き8間の稽古場があった。

 稽古場の真ん中には座敷が設えられて二分されており、実際に普段の稽古で使われていたのは3間×3間半程度の部分であったという。

 この広さでは、何人もの門人が同時に稽古をすることはできず、多くは広々とした中庭で木太刀や撓を振るっていたのではないかと、当代の御当主が話してくれた。

 思うにこのF師範家だけではなく、江戸末期から明治にかけて、武州各地で教線を張っていた多くの柳剛流師範家では、このように野天での稽古が主流であったのだろう。

 そういう意味で我が翠月庵は、柳剛流の伝統を墨守した由緒正しい野天稽古を今も継承しているということになる(苦笑)。

1702_柳剛流稽古



 野天稽古の良いところは、不整地での運足に習熟できることだ。

 野外ではちょっとした小石ひとつ、地面の傾斜や濡れ具合などで、足をとられて気をそらされたり、運足が乱れてしまうことが少なくないが、こうした経験は板の間の道場稽古だけでは得難いものだろう。

 また、よく口伝で伝えられる、「日光を背にしろ」だとか「風上に立て」、「ぬかるみでは卒爾に斬りかかるな」などという教えは、屋内での稽古しかしていないと「なるほどねえ・・・」くらいの感想しか持たないだろうが、普段から野外で稽古をしていると、実に切実かつ重要な教えであることが分かる。

 たとえば、西日の真逆光の方向に向かって手裏剣を打ったり刀を振るうと、的や相手の姿がたいへん見にくいことが体で実感できる。

 また、季節の移り変わりをしみじみと感じることができるのも、野天稽古の魅力だ。

 この季節、ひとりで柳剛流の備之伝の稽古などをしていると、木太刀の先に赤トンボがとまったりすることもあった。

 青眼に構えた柳剛流の長大な木太刀の剣先に、ふわりとトンボがとまったときには、なにやら自分が時代小説の登場人物になったような気分であった。

 しかし一昨年頃から、稽古場周辺のトンボの数が激減してしまい、こういう風情のある瞬間が見られなくなってしまったのは、まことに残念である。



 往時、江戸府内にある柳剛流の教場では、加賀藩士や津藩士などを中心とした武士たちが主な門人であったが、一方で武州各地に点在した柳剛流の各有力師範家では、たくさんの農民たちが柳剛流の剣を学び、野天の稽古場で木太刀や撓を振るっていたという。

 蒼穹が広がる秋空の下で柳剛流の稽古に励みながら、そんな遠い時代の風景に想いを馳せられるのも、古流を稽古する喜びのひとつである。

 (了)

追想/(身辺雑記)

2017年 10月06日 10:34 (金)

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 世の中には「新しもの好き」というのがいて、新しいものであれば何はともあれ使ってみたい、所有してみたいというタイプがいる。

 一方で、同じく世の中には「懐古趣味」というものもあり、古いものを珍重し、ことさら懐かしがるタイプもいる。

 テレビ電話を使った遠隔取材など当たり前で、スマホがないと契約先の会社に外部スタッフ登録すらできないという21世紀の今、刀を振り回したり手裏剣を打ったり、野天にゴザを敷いて柔の稽古をしたり、和服を着て生活をしながら、居室のテレビはいまだにブラウン管で、就寝前に飯茶碗と兼用の井戸(風)茶碗で抹茶をたてて飲むことが何よりも楽しみであり、池波正太郎とスティーブン・キングと東直己の小説が読めれば、何ならテレビもなくていいや。あっ、でも時代劇専門チャンネルが見られなくなるのは、ちょっと寂しいなあ・・・・・・などと思っている私は、新しもの好きではなく、懐古趣味の人間であることは間違いない。



 「この世に生き残る生き物は、最も力の強いものか? そうではない。最も頭のいいものか? そうでもない。それは、変化に対応できる生き物だ」

 という警句めいた文句がダーウィンの言葉であるというのは、グルコサミンを飲むと膝が良くなるという話しと同じくらい真っ赤な嘘、デマなのだけれど、二流のビジネス書や自己啓発本などではいまだによく、このフレーズが使われている。 

 「だから変化に対応しなさい!」というのは、なにかとても強迫的な資本主義、消費社会からの押し付けのようで、うんざりすることしきりである。

 世の中には、「好んで変化したい人」「不承不承ながらも変化できる人」「望んでも変化できない人」のほかに、「自主的に好んで、できるだけ変化したくない人」というのもいるわけで、私は間違いなく「好んで変化したくない」部類の人間だ。

 つうかそもそも、「無理に変化して生き残りたくもないしな・・・・・・」という気分も多々ある、特に最近は。



 近頃はBSで1970年代前半のホームドラマなどを見ながら泥酔し、「嗚呼、あの頃に還りたい・・・」などとしみじみ思うことが少なくない。

 想えばあの時代、スマホもタブレットもパソコンも、アマゾンも楽天も、ビットコインや電気自動車も、シャワートイレもサイクロン式掃除機も何も無かったが、世の中はしっかりと機能し、それなりにうまく回っていたわけだ。

 できることなら、パソコンも携帯電話もない生活をしたいのであるが(スマホもタブレットも持っていない)、仕事がらそういうわけにもいかず、やむなく最低限のIT環境を受け入れ、使っている。

 理想は晩年の放哉のような、独座観念、静謐無言の生活なのだが、そのためには億単位の資産を得るか、あるいは腹をくくって乞食になるしかないのだろうが、私にはそのどちらもできそうにない。

 なにしろ今後、億単位の資産ができるような稼ぎがあるとは到底思えないし、一方で私は一晩髪を洗わないと頭がかゆくなって気が狂いそうになるので、毎日風呂に入れない乞食生活は到底無理だからだ。

 このため結局は、デスクトップパソコンのキーボードをカタカタと叩きながら、1文字5円や10円といったちんまりとした売文稼業で糊口をしのぎ、ときにはこうした1円にもならない駄文を書き散らして、差し迫った締め切りやクライアントの無理難題から現実逃避をしつつ、街の片隅で静かに生きてゆくしかないのであろう。



 ようするに何が言いたいかというと、「変化を強要される社会」で生きていくにはほとほとくたびれているのだが、さりとてことさら世をはかなんで死にたいわけでもなし。

 晩酌の折り、ほろ酔い加減で足りなくなった紙パックの「月桂冠 糖質ゼロ」を買いに行った近所のスーパーで、すれ違った小学生が英語教育早期化の影響か、ネイティブ顔負けの口跡で母親に「Oh! Apple」とか「here we go!」とか言っているのを小耳にはさむと、「けっ、墾田永年私財法とか、もののあはれとか、校倉造りとか、池泉回遊式庭園とか言ってみろってんだ」、とか思うのである・・・・・・。

 ま、私も由緒正しい「旧時代への追想に生きる、頑迷なクソジジイ」への階段を、一歩ずつ確実に登っているということか。

 南無八幡大菩薩。





 (おしまい)

秘伝ノ長刀ヲ伝授ノ上ハ、諸流剣術多シト雖モ負クルコト、コレ有ルマジク候/(柳剛流)

2017年 10月05日 09:54 (木)

1710_松代演武_柳剛流長刀
▲柳剛流長刀 「左首巻」(打太刀:小佐野淳師 仕太刀:瀬沼健司)



 つい最近まで、残暑の厳しさにげんなりしていたのが、さすがに中秋の名月も過ぎて、灼熱地獄の武州・中山道もすっかり秋めいてきた。

 武芸の稽古にはうってつけの季節だけに、過酷な生業の合間を縫って、太刀をとり長刀を振るう。

 すでに何度かここで触れてきたように、柳剛流の長刀は免許秘伝の奥義であり、流祖・岡田惣右衛門は、

 「秘伝ノ長刀ヲ伝授ノ上ハ、諸流剣術多シト雖モ負クルコト、コレ有ルマジク候」


 と、記している。

 もっとも、剣術に比べて間合で圧倒的に有利な長刀だけに、「負けることなし」というのは、ある意味で言わずもがなであろうが、このように断言する文言に、流祖の「術」に込めた強い想いが感じられる。

 今から200年以上も前、流祖が心血を注いで編み出した長刀の「術」を受け継ぎ、流祖生誕の地であるここ武州にて日々それを鍛錬し、志ある門下にそれを伝えられるというのは、市井のいち武術・武道人である自分としてはたいへんに誇らしく、また責任の重さを痛感する。


 現在 武術伝習所 翠月庵/国際水月塾武術協会埼玉支部では、当庵筆頭で手裏剣術師範代を務めているY氏と、剣術指南処 幽玄会代表で夢想神伝流組太刀免許皆伝のU氏の2名が、柳剛流長刀の習得に熱心に励んでいる。

 (了)