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安心できる未来のために/(時評)

2019年 06月13日 10:34 (木)



 第25回参議院議員通常選挙の投票日は、来る7月21日の予定だとか。


「圧制を変じて良政に改め、自由の世界として人民を安楽ならしむべし」
(秩父事件を記録した、貴布祢神社の神官で国学者の田中千弥の日記より)


 (了)
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天網恢恢/(時評)

2019年 03月26日 06:27 (火)

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朝日新聞デジタル

匿名で差別的ツイート、世田谷年金事務所の所長を更迭
(2019年3月25日11時11分)

 ツイッターで差別的な書き込みをしたとして、日本年金機構は25日、世田谷年金事務所(東京都)の男性所長を本部人事部付へ異動し、更迭したと明らかにした。所長本人から詳しく事情を聴くなどして、「処分を検討する」という。(以下略)。
https://www.asahi.com/articles/ASM3T339FM3TUTIL002.html
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 ちょっと出典は忘れてしまったけれど、いわゆるネトウヨといわれる、排外主義的・人種差別的な人々について、なんとなく「ニートの20~30代・男性」みたいなイメージがあるのとは裏腹に、実際には40~50代の社会的にもそれなりの立場で働いているオジサンたちが中心であった・・・、といった調査結果があった。

 この年金事務所の所長も、まさにその階層のネトウヨであり、勤務中に、せっせとツイッターに、ヘイトを書き込んでいたのだという。

 つらつら思うに、このネトウヨな所長さんにも、たぶん奥さんや子どもさんがいるのだろう。

 50代なら、子どもさんは大学生か新社会人くらいだろうか?

 自分がそのくらいの歳だとして、みなし公務員で管理職の立派な父親が、勤務中にせっせとツイッターに、読むこともはばかられるような差別的な書き込みや口ぎたない罵詈雑言を、何年にもわたって匿名で書き込んでいたことを知ったら、いったいどんな気持ちになるだろうか?
 
 残念ながら、「天網恢恢疎にしてダダ漏れ」なのが浮世の現実なのであるが、時にはこのように「疎にして漏らさず」てなこともあるので、悪い事はできないものだ。

 ひとりの老荘の徒としては、

 「道の道とす可きは常の道に非ず」

 だなあと、しみじみ思う。

  *  *  *  *  *

 私には息子も娘もいないけれど、芸道における門人が何人かいる。

 そして、芸道の師弟関係というのは、疑似的な親子関係でもある。

 ことに伝統武道の修行において、師弟として盃を交わしたり、あるいは誓詞血判をしたのなら、その疑似的親子関係は形而上下いずれにおいても、さらに重いものとなるのは言うまでもない。

 故に、たとえば「オヤ」である私が、ツイッターやフェイスブック、ブログやホームページなどで、無害な他者を嬉々として攻撃していたり、ヘイトスピーチをせっせと書き込んでいたら、それを知ってしまった「コ」である門人たちは、さぞかし落胆することであろう。

 当然だ。

 自分の「親」が、ヘイトなクズ野郎(女郎でもいいが)だったと、明らかになってしまうのだから・・・。

 ところが、(私の周りには、そのような人はいないけれど)、SNSなどをみていると武術・武道関係者の中にも、読むに堪えないヘイトスピーチを繰り返す人、非常に偏った差別的・排外主義的な思想を標ぼうしてはばからない人、医療ネグレクトに繋がるニセ医療にどっぷりはまっている人、セクハラやDVを繰り返す人などが、まことに残念ながら、けして皆無ではない。

 そんな人たちの発言や行動を期せずしてみてしまった時は、仮にその人の武技にみるべき点があったとしても、

 「この人は、社会人として“アカン人”や。ボクに近寄らんといて!」

 (なぜ、ここだけ関西弁?)

 と、心から思う。

 また、そういった点で己を振り返ると、弟子など誰もいなかった頃に比べて、門人をとり、「仙台藩角田伝 柳剛流」という流儀や「国際水月塾武術協会埼玉支部」という団体の看板を背負うようになった今は、ブログでも実生活でも、己の発言や立ち居振る舞いについても、随分と慎重になった。

 それが「大人の分別」というものであろう。

 「当流を修めんと欲する者は、先ず心を正すを以て要と為すべし」

 という、柳剛流の教えの深さが身に染みる・・・。

  *  *  *  *  *

 ま、ようするに何が言いたいかというと、

 「ヘイトはダメ、絶対!」

 と、いうことデス。


 南無八幡大菩薩。

 (了)

パワハラ被害者に「反省文」を書かせるトンチキたち/(時評)

2019年 03月11日 11:05 (月)

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体操協会、宮川選手に反省文要求 池谷幸雄氏に厳重注意
3/9(土) 17:25配信/朝日新聞デジタル

 日本体操協会は9日、理事会を開き、リオデジャネイロ五輪女子代表の宮川紗江選手(19)が「パワーハラスメントを受けた」と塚原光男副会長(71)と塚原千恵子・女子強化本部長(71)を告発した問題で、宮川選手の一部の言動が千恵子強化本部長の名誉を傷つけたなどとして、宮川選手に反省文の提出を求めることを決めた。反省文はすでに提出されているという。
(以下略)

■出典元
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190309-00000045-asahi-soci
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 未成年の女の子が、勇気をもってパワハラを訴えた。

 そこには子ども特有の思い込みや、事実誤認もあったかもしれない。

 しかし、それも含めて、周囲の大人たちは大きな度量で、本人の感じた苦しみや辛さを受け止め、ハラスメントを無くしていく。

 そのようにしてアスリートとしての「力」を伸ばし、人としての「心」を育てていかなければならない。

 にも関わらずだ。

 パワハラを訴えた本人に対して、

 「反省文を書け」

 という、さらなるパワハラを加える。

 日本体操協会ってのは、馬鹿なの?

 つうか、なんだい「反省文」ってのは。

 小学校かよ、ってんだ(怒)。

 器量のちっちぇヤツらだぜ、まったく・・・・・・。

  *  *  *  *  *
 
 まことにもって、この世の中でパワハラやモラハラほど、低俗で下劣で、くだらなくバカバカしいものはない。

 しかし社会には、そういう低俗で下劣でくだらなくバカバカしいことをするアホウが結構いるということも、まことに残念なことながら渡世の現実である。

 幸いなことに、私はこの道の師や先輩に恵まれてきたこともあり、これまで37年間の武術・武道人生で、パワハラやモラハラをされたことは、一度もない。

 一方で若いころのバイトや、大人になってからの職場などでは、これまで何回か、そのようなハラスメントを受けた経験はある。

 つらつら思うに、会社やスポーツ団体とは異なり、武術・武道の世界では、万が一、理不尽なパワハラやモラハラを受けた場合でも、最終的にはてめえが腹をくくった上で、

 「ぶん殴って、辞めちまう」

 という、たいへん男らしい(女らしいでもよいが・・・)解決法がある(笑)。

 「舐められたら●す!」というのも古くからの武人の本懐であり、やられたらあらゆる手段をとってでも倍返しが武芸者のならいだ。

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▲『バンデット -偽伝太平記-』(河部真道/講談社)より



 こうした武術・武道の世界ならではの清々しさが、私はとても好きである。

 ま、場合によっては、パワハラ野郎に返り討ちにされちゃうかもしれないけどな・・・(苦笑)。

 だからみんな、頑張って稽古して勁(つよ)くなろう!

 ココロとカラダが共に「勁い」ということは、人生においてとても大切なことなのだ。

  *  *  *  *  *

 パワハラやモラハラというのは、上位者のたんなる気分で、下位者の「魂」を破壊してしまいかねない、人としてもっとも忌むべき、恥ずべき行為である。

 そこには、

 「人を慈しみ、育てる」

 という、上位者としての愛情や思いやりが、決定的に欠如している。

 そういう意味で、私自身、少ないながらも弟子を持つ身であり、自分の立ち居振る舞いや言葉が弟子にとってパワハラやモラハラになっていないか、平素から注意するよう心がけている。





 とまあ、朝から冒頭のニュースを読んで、街の片隅を這いずり回る酔っ払いのオッサンも、久々に怒り心頭といった心持ちになってしまったゆえ、こんな駄文を書き散らした次第。

 とりあえず、日本体操協会のお偉方連中に言いたいのは、

 「選手をもっと大切にしろよ、このトンチキ!」

 ということである。


 どっとはらい。

 (了)

伝蔵伝説/(時評)

2018年 06月09日 23:00 (土)

 このブログでは、あまり政治的な話題は書かないようにしている。

 今の時代、SNSでは右も左も百家争鳴であり、私如き街の片隅でひっそりと生きる低所得階層の流れ武芸者が、いまさら言うこともあるまいと思っているからだ。

 私は、雨露がしのげて3度の食事がとれ、たまさかには晩酌をし(ま、実際には毎晩だが・・・)、ときには伝統芸能を鑑賞し、図書館で読みたい本が借りれ、日々武芸の稽古ができる程度のささやかな暮らしが送れれば、それで十分に満足だ。

 にもかかわらず、昨今の新聞やニュースを目にすると、この国と社会の毀れっぷりに、さすがに唖然とする。



 数年前、子供の貧困問題に関する取材をしたことがあるけれど、今この時点でも、月末になると米やパン、パスタなどといった最低限の主食以外、おかずを食べることができない子どもたちがいる。

 先進国でござい、経済大国でございといいながら、今、日本の子どもの6人に1人が貧困にあるのだ。

 その一方で企業の内部留保は、史上最高額を記録しているという。

 あるいは過労死が大きな社会問題になるなか、定額働かせ放題を実現させる悪法が平然と可決されようとしている。

 役人は平気で公文書を改ざんし、大学スポ―ツの監督は生徒とコーチに責任をなすり付けて自らの保身に走り、総理大臣はお友達たちの利益誘導に余念がない。

 責任ある大人たちが平気で嘘をつき、金儲けや地位のために強者が、社会の片隅で生きる弱い人たちを平然と踏みにじるのが、今のこの国のあり様なのだ。



 かつて井上日昭が唱えたように、「一殺多生」が実現可能であれば、これほど腐りきった政治と経済が弱者を踏みにじるなかでは、テロルもまた1つの意味を持つであろう。

 クセルクセスやネロ、始皇帝の時代であれば、「個」としての強者を殺害することで、社会の不条理や矛盾を解決することも可能であったかもしれない。

 しかし、今のこの社会の矛盾や不条理は、政治家や資本家といった個人ではなく、彼ら強者たちの集合である社会のシステムそのものが、弱者を搾取し踏みにじるようになっており、収奪する「個」の命を奪っても、社会全体の矛盾や不条理を解決することはできない。

 だから我々「持たざる者」たちは、ただ頭を低くし、社会の片隅で日々を生き抜くのみである。

 ときに、明日の新潟県知事選はどうなることか?

 願わくば、落下傘よりもおっかさんの方が良いのではないかと、埼玉県民の私は思う。



 今から134年前、武州・秩父では、政府の悪政と高利貸したちの収奪によって、数多くの養蚕農家が身代限り(破産)に追い込まれた。

 困窮からの救済を求める人々に対して、明治政府は「貧乏人は死ねばよい」とした。

 これに対して秩父の農民たちは、抜刀隊約200人、鉄砲隊約300人、竹鎗隊その他、合わせて約3,000人の「革命軍」を編成。自由自治を目的に決起し、政府と資本家たちに叛旗を翻す。

 世にいう、秩父事件である。

 結果的に、叛乱は政府軍に鎮圧され、主な指導者たちは即決裁判で死刑に処せられ、生き残った者たちも徹底的に断罪・弾圧され、持たざる農民たちによる自治を目指した義挙は、「暴動」として記録され辱められた。

 しかし、農民軍リーダーのひとりであった井上伝蔵は、ついに官憲の追求を逃れ続けて、その天寿を全うした。

 その後、秩父地方では、世が乱れると再び井上伝蔵が現れて世直しをしてくれるという、「伝蔵伝説」が伝えられるようになったという。

 なお秩父地方は、言わずと知れた武州の名流・甲源一刀流剣術のおひざ元である。

 この秩父事件にも、有名無名の甲源一刀流剣士たちが農民軍に参加し、政府軍の銃火に対して、鍛えに鍛えた剣技と伝来の秋水を以て立ち向かったという。



 さて、明治から大正、そして昭和をへて、いよいよ来年で平成も終わる。

 しかし相も変わらずこの国は、弱者が収奪され、嘘と世渡りの旨い者たちだけが肥え太る、「仁」も「義」もない不徳の国のままのようだ。

 いやそれどころか、社会的弱者の置かれた状況は、むしろ年々、悪化しているように思えてならない。

 今、武州の山並みの間では、再び「伝蔵伝説」が囁かれているだろうか・・・・・・。


圧制を変じて良政に改め、自由の世界として人民を安楽ならしむべし(秩父事件を好意的に記録した、秩父下吉田村貴布祢神社の神官・田中千弥の日記より)




 (了)

Protect yourself at all times./(時評)

2017年 03月30日 12:03 (木)

 栃木県で雪山訓練中の高校生たちと教諭が雪崩に巻き込まれ、8人が亡くなる痛ましい事故が起きた。

 被害にあった方々のご冥福をお祈りします。

 そして残念なことに、この雪崩事故については、雪崩ビーコンなど装備の不備、雪崩が頻発することが知られていた斜面でのラッセル訓練の実施、事故発生からの救助要請の遅れなど、主催者側のさまざまな危機管理の甘さがが指摘されている。



 高校時代は山岳部に所属し、アラスカのユーコン川やタクラマカン砂漠、パミール高原など辺境の旅をしていた20代の頃、私はイギリスに本部を置く冒険教育機関アウトワード・バウンドの長野校で、野外教育者養成のための訓練コースに参加した。

 あれから26年が過ぎた今もしっかりと私の脳裏に刻まれているのは、「野外では常に、まず自己の安全を確保せよ」という教えだ。

 レジャーでもあるいは救助活動でも、アウトドアではまず自己(および自分たちパーティ)の安全確保を優先すること、これが大原則である。

 先駆的アルピニズムを行う一部の先鋭的登山家や、リスク覚悟で活動する冒険家を除いて、一般的な野外活動愛好家によるアウトドアでの事故の多くは、「自己の安全確保優先」という原則をおろそかにしたことが原因となって起こっていることがほとんどだ。

 今回の栃木の事故の場合、指導を行う人々、主催者や指導者に、こうした「安全確保」の意識が薄かったことが、根本的な原因にあるように思えてならない。



 春の雪山で表層雪崩が起きやすいのは、中堅どころのアウトドアズマンであれば常識的な知識であろう。

 その上で、訓練地域である当該スキー場では、彼らの滞在初日に事故現場とは別の場所ながら雪崩が発生していたこと。その後、夜間に大量の積雪がったことなどを勘案すれば、「このフィールドで自己および自己パーティの安全が確保できるのか」は、おのずから判断できたのではあるまいか?

 そしてなにより致命的なのは、指導者や訓練生たちが、雪崩ビーコンやゾンデ棒を装備していなかったことだ。

 近年、特に中高年のビギナー登山者の中に、ツェルトやコンパス、非常食などを携帯せず、フォースト・ビバークの知識・経験・装備がないままに山行に望み、遭難して低体温症や滑落などといった事故を起こす人たちがいる。

 野外活動において、「備えよ、常に(ロバート・ベーデン=パウエル卿)」は、アウトドアズマンの基本の「キ」だ。

 今回の事故では、雪崩ビーコンもゾンデ棒も未装備という状態でラッセル訓練を行うのに、当該地域は適切なのかを指導者たちは十分に検討したのだろうか?

 検討をしたとして、それは気象データや地域特性を考慮した、客観的で科学的な事実に基づく判断であったのか?

 主観的な思い込みによる、「ラッセル訓練ぐらい、大丈夫だろう」「スキー場だから、安全だろう」といった、安易な状況判断でなかったか?

 このあたりをきちんと検証した上で、単なる責任追及にすることなく、今回の教訓を活かして同じような事故を再び起こさないことが、事故で亡くなった方たちに対する、関係者たちの償いであり使命であろう。

 今回のケースでは、訓練を受ける学生たちは、指導者へ自己の安全を付託しているだから、「自己および自己パーティの安全確保」に対する責任は、指導者たちにあることは明白だ。

 この点について、指導者たちに認識の甘さがあったのが残念でならない。



 もう1つ、今回の事故に関連して思うのは、高校山岳部における活動規制についてだ。

 私が高校で山岳部に所属していた四半世紀前、冬山登山とロッククライミングは部活動としては禁止されていた。このため私は、地元の勤労者登山会に入会し、冬山登山とロッククライミングについて個人的に訓練を受けた。

 報道によれば、現在も高校生の部活では、冬山登山は原則禁止されているようである。

 ところが今回のケースでは、「冬山登山」の訓練ではなく、「春山登山」の訓練だということで許可され、長年に渡り実施されてきたのだという。

 思うに、こうした詭弁というか、規制の言葉尻をとらえた脱法的なやり方そのものが、今回のような痛ましい事故につながっているように思えてならない。

 たしかに3月は、季節的には「春山」であるが、フィールドとしての山岳は、いまだに積雪に包まれている。だからこそ、雪上訓練の場所となるわけだが、一方で冬の山よりも春の山は、はるかに雪崩のリスクが高い。

 こうした社会的要因と自然のリスク要因が混在する春の雪山というフィールドで、技術未熟な学生たちを対象に、雪上訓練を行うことは果たして適切なのか?

 むしろ、「高校生の冬山登山禁止」といった形骸化した規制を見直し、春山よりもリスクの低い冬季の適切な山域において、十分に安全確保をした上で雪上訓練をすべきだと私は思う。

 「危険だから教えない」という、きわめて日本的な思考があるゆえに、その建前の隙間をくぐるような姑息な条件での活動が、ひいては危機管理の低さ、状況認識の甘さにつながっているのではないか?

 雪山にせよ、ロッククライミングにせよ、夏山でもあるいは登山以外のあらゆるアウトドアスポーツにおいて、それが自然という存在を対象にする以上、そこには必ずリスクが存在する。

 だからこそ、リスクから目をそらしたり規制して若者たちを遠ざけるのではなく、熟練したベテラン指導者たちが万全の配慮をした上で、きちんとした指導と訓練を実施し、アウトドアにおける危機管理能力を育てていくべきだろう。

 こうした意味で、今回の事故により、若い人たちに対する野外教育訓練に関する規制が強まるようなことがあれば、それはむしろ次の事故の遠因になりかねない。

 リスクを恐れ、いたずらな規制で自然から若者たちを遠ざけるのではなく、それに対峙するための知恵と技術を、しっかりと指導するのが、私たち大人の役割だといえるだろう。

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 (了)