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祈ること/(柳剛流)

2019年 10月14日 14:06 (月)

 台風19号は各地に甚大な被害をもたらし、今も多くの人々が、冠水や土砂被害などで不安な時を過ごしている。

 報道やSNSの情報によれば、仙台藩角田伝柳剛流のふるさとである宮城県角田市や伊具郡丸森町も、阿武隈川の氾濫や記録的な豪雨による土砂崩れなどで、たいへん大きな被害を受けたという。

 この夏の、柳剛流の調査でお世話になった皆さんの安否が気になる。

 しかし、今この段階で私には、遠く離れた武州から、安全をお祈りすることしかできないのがもどかしい。

 こういう時、「私」という一個人とは、なんとも無力なものなのだなあと実感させられる。

 角田・丸森にお住まいの皆さんのご安全と、一刻も早い復旧・復興を願っております。

 (了)
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点茶心指/(武術・武道)

2019年 10月11日 07:30 (金)

「点茶心指」

一フクマイラス

捨テ身ナル聖へ
僧堂ノ行者ヘ
心澄メル比丘尼ヘ
求道ノ居士ヘ
貧シキ道友ヘ
老イタル佳人ヘ
素直ナル若人ヘ
心篤キ娘子ヘ
媚ビザル主ヘ
ツマシキ田舎人ヘ


一フクマイラスナ

金ボコリニハ
エセ宗匠ニハ
青白キ茶坊主ニハ
巧者ブル小茶人ニハ
溺ルル茶数寄ニハ
物見エヌ物狂ヒニハ
高ブル学士ニハ
派手ナル女房ニハ
欲深キ商人ニハ
ヘツラヘル輩ニハ



 「点茶心指」は、権威主義と拝金主義に堕した既成の茶道を厳しく批判した思想家・柳宗悦の、座右の銘であった。

 この一連の警句は、私には武術・武道にも同様に当てはまるように思えてならない。

 「一フクマイラス」を「一手ノ指南ヲ」と、そして「一フクマイラスナ」を「一手ノ指南モ無用」と言い換えればどうだろう?

 茶の湯も武芸も、ともに歴史の中で術から道へ昇華したのであれば、その目指す境涯は同様だ。

 だからこそ、柳の筆鋒は鋭く斯界をえぐる。


「俗な人、欲深い人、卑しい人は、茶人には成りかねる。茶の道は、金や権力から解放されたものでなければならぬ。それゆえ、宗教の場合と変わる所は無い。ただ、茶の道においては、「聖」が「美」という言葉に代わるだけである」(『茶人の資格』より)


 おなじように武術・武道においても、俗な人、欲深い人、卑しい人は、真の武人には成りかねるし、武術・武道は金や権力から解放されたものでなければならぬと、私は強く思う。

 柔(やわら)であれば、この身ひとつ。

 剣術であれば、木太刀一口。

 そしてもうひとつ、人に優しく己に厳しい、清らかな心映え。

 この3つさえあれば、貧しい人も富める者も、老若男女、誰もが稽古を通じて先師・先人方の示した「道」を歩むことが出来る。

 古流武術=伝統武道とは、そのようにあるべきだ。

 秋の夜長、『柳宗悦茶道論集』を味読しながら、そんなふうにしみじみと想った次第。


1811_柳宗悦茶道論


 (了)

先師・先人の言葉に「直に」ふれ、教えを乞う/(柳剛流)

2019年 10月10日 01:23 (木)

 今晩は柳剛流の稽古。

 剣術、そして突杖をおさらい。

 半刻ほど木太刀と杖を振るい、形を錬る。

 稽古を終えて入浴を済ませた後、思うところがあり、柳剛流祖・岡田惣右衛門の高弟で仙台藩角田伝柳剛流の祖となった、岡田(一條)左馬輔直筆の伝書を味読する。

1910_柳剛流_免許029

1910_柳剛流_免許_2030


 この『柳剛流免許之巻」は、岡田左馬輔が嘉永元(1848)年に、自らの高弟であり自分の後を継いで角田・石川家の剣術師範となった、戸田泰助に授与したものである。

 口承によれば、左馬輔は非常に体格の良い人であったというが、筆跡は意外に細やかだ。

 このほかに左馬輔直筆の伝書としては、

・『目録之巻』(天保9年)
・『剪紙目録』(弘化3年)
・『目録之巻』(弘化4年)
・『柳剛流免許之巻』(弘化5年)

 があり、合わせて5点を私は確認しているが、それらのいずれにおいても、左馬輔の筆跡は細く外連味のない実直な印象だ。



 岡田左馬輔の書いた伝書について、切紙や目録は武州の岡安英斎系や岡田十内系とほぼ同じ文言なのだが(技法の手数等は全く異なる)、「免許之巻」については、まったく他の師範家の柳剛流の伝書では見られない、独自の文言となっている。

 なお左馬輔筆の伝書はもとより、私はすべての柳剛流師範家が記した伝書類や手付等について、それらを単なる歴史的な史料としてではなく、流祖以来の先師・先人方が直接諭してくれる、武芸の「生きた教え」として読むことを心がけている。

 こうした意味で、他に見られない岡田左馬輔特有の「免許之巻」の文言は、武人の教えとしてまことに格調高いものだ。

 まず巻頭において、

「人の剣法を知るは、激発闘争して徒に勝を求むるの技なり。根の神より之を発し、誠を以てして勝を全うするに在ることを知らず」

 と問題提議をした上で、

「術は心に属し、業は四躰に属す。能くその心を尽くせば、則ち四躰言わずして覚ゆ。是に於いて始めて、共に剣を謂るべきのみ」

 と諭す。

 これらの箴言は、21世紀の今、柳剛流を学ぶ我々への幕直端的な問いであり、また厳しい戒めでもある。

 その上で、

「夫れ武は仁義の具、暴を誅し乱を救う。皆民を保つの所以にして、仁義の用に非ざるなし」

 と定義。

「是を以て之を用うるに仁・孝・忠なれば、即ち天下の至宝なり。之を用うるに私怨奸慝(かんとく)なれば、即ち天下の凶器なり」

 と注意を促した上で、

「故に剣法を知り至誠偽り無きの道、以て謹まざるべけん哉」

 と諭すのである。

 これこそが、岡田左馬輔が考え伝えようとした、柳剛流における「武徳」のあるべき姿なのであろう。



 伝書の文言を、「生きた言葉」として味読する。

 そして、流儀の先師・先人の言葉に「直に」ふれ、その教えを乞う。

 これもまた、古流を学ぶことの醍醐味ではなかろうか。

 (了)

柔(やわら)における、当身の打ち込み稽古の重要性/(古流柔術)

2019年 10月09日 01:10 (水)

 月曜夜は県立武道館で空手の月例稽古だったのだが、空手をやっていると無性に柴真揚流や柳生心眼流を稽古したくなるのはどうしたものか・・・(苦笑)。

 というわけで、今晩は柴真揚流の稽古。

 まずは表早業居捕17本、そして同立合投捨15本を、手付けを確認しつつ丁寧におさらい。

 特に「真之位」と「袖車」について、動作に留意しつつ形を繰り返す。

 次いで、形の動きに則って当身台への打ち込み稽古。

 柴真揚流の当身、なかでも拳での当ては、彼我接近した柔(やわら)の間合で効かせるだけに、全身での統一力で拳を打ち込むことが重要となる。

 実際に翠月庵で門人に指導をしていても、多くの場合、柴真揚流の拳での当ては、慣れないうちはなかなか適切に威力が乗らないようである。

 このため当身台への打ち込み、あるいは胴プロテクターへの打ち込みで、十分に「当て具合」を体感しておく必要がある。

 これは、柴真揚流で多用する下段への蹴込についても同様で、実際に稽古で受が胴プロテクターを装着して捕に蹴込を入れさせても、なかなか威力のある当てになっていないことが多いのである。

 なお、これは余談になるが、空手でも巻き藁突きやミット打ち、サンドバッグや砂袋への打ち込みなどの稽古を十分に行わず、形稽古や寸止めまたはライトコンタクトの組手のみしかやっていない人の場合、実際に「効かせる当て」を入れられないことが少なくない。

 やはり、「身の内1~2寸」という当身の真髄は、実際に打ち込む稽古を十分にしてこそのものであろう。

 柔(やわら)にせよ、空手にせよ、それを武技として磨くのであれば、こうした稽古が必須であることは、何度でも強調したいところだ。

 当身の打ち込み稽古の後は、柴真揚流の小太刀居合(素抜)3手、棒の形3手、剣術形3手をおさらい。

 たっぷりと汗をかいて、今晩の稽古を終えた。

 それでは、ひと風呂浴びて休むとしよう。

ken.jpg
▲親指を握り込んだ、柔術特有の拳

 (了)

「左剣」を錬る/(柳剛流)

2019年 10月07日 23:21 (月)

 柳剛流剣術においては、「右剣」の形が柳剛流のあらゆる術技・心法を凝縮した根幹であるのに対し、次に学ぶ「左剣」は、「右剣」の課題を踏まえた上でさらに身体的な負荷を加えた、たいへん難易度の高い形となっている。

 術技としては名前の通り、「左剣」は「右剣」の対称となるものだが、「右剣」よりも跳び斬りの手数が多く、フィジカルな負荷が高いのだ。

 このため少しでも稽古を怠ると、「右剣」であればまだなんとなくできても、「左剣」では粗が出てしまうのである。

 ゆえに、柳剛流剣術の実力を測るのであれば、その者に「左剣」の形の仕太刀を遣わせてみれば一目瞭然ともいえる。

 逆にいえば、柳剛流の師範たるもの「左剣」の仕太刀がきっちりと遣えないようでは、その資格なしと言っても過言ではない。



 「師範」や「指導者」という立場になると、日常の稽古ではどうしても打太刀を執ることが多くなり、仕太刀としての業前が鈍りがちだ。

 しかし、そもそも剣術の勝口というものは、仕太刀の「業」=「術」にあり、その仕太刀がしっかりと遣えるからこそ、打太刀が執れるのである。

 ゆえに、仕太刀がきちんと遣えないようでは、剣術の師範を名乗る資格などあるまい。

 こうした点で、たとえば神道無念流の中山博道師範は、晩年になっても仕太刀を執ることに熱心であったという逸話は、ひとつの参考になるのではなかろうか。



 いずれにしても門人に稽古をつける立場にある者は、それ以外のところでしっかりと仕太刀の業を錬り、その形において仕太刀に求められる「業」=「術」を、確実に遣えるようにしておかなければならない。

 門人を圧倒するだけの高い技量と、人としての心映えの美しさがあってこその、武芸の「師範」であろう。

 日々、そう己の心に言い聞かせながら、自分自身の稽古に励んでいる次第。

1705_松代演武_柳剛流左剣
▲柳剛流剣術「左剣」


無念とて無しと思うな唯ひとつ
心の中に無しと知るべし
(柳剛流武道歌)


 (了)

目釘を打ち換える/(武術・武道)

2019年 10月06日 18:42 (日)

 久しぶりに締め切りに追われていない、穏やかな雨の日曜日。

  斎藤充功著『証言 陸軍中野学校 卒業生たちの追想』を読みつつ、長芋としし唐の素揚げを肴に昼酒。

 十割そばの遅い昼食を済ませてから入浴、そしてしばし午睡。

 ひと眠りした後、差料の手入れをする。

 今月末に行われる松代藩文武学校の秋の演武会では、私は柳剛流突杖に加えて、荒木流抜剣を演武する予定だ。

 このため抜剣(いあい)の演武で用いる、我が愛刀・市原“監獄”長光の目釘を打ち換える。

 新しい目釘を目釘穴の大きさに合わせて、彫刻刀でサイズを微調整しながら交換した。

 最近、鍔鳴りこそしていなかったのだが、ごくごくほんの僅かであるけれど鍔が少し緩いような違和感があったのだが、目釘を打ち換えることで、そのような違和感も解消。

 ギチギチにしっかりと、鍔と柄が締まった。

 武用刀は、こうでなければ。

 これで気持ちも新たに、松代での演武に臨めるというものだ。


 なお余談ながら、いまさら言うまでもなく真剣はもとより稽古用の模造刀でも、鍔鳴りがしているような刀は絶対に稽古や演武で使ってはならない。

 また師範たるものは、そのような危険な武具を門人に使わせてはいけない。

 万が一、鍔鳴りのする刀を稽古や演武で使っている者がいたら、すみやかに使用を止めさせること。

 日本刀を武具として扱う者が、絶対に守らねばならない最低限の嗜みである。

1910_目釘

 (了)

初心に還る/(柳剛流)

2019年 10月04日 00:30 (金)

 夜が明けて午前10時頃締切の原稿があるので、これから4時頃まで仮眠。

 ・・・なのだがその前に、短い時間であるが柳剛流の稽古。

 備之伝、備十五ケ条フセギ秘伝、そして「右剣」の形を遣う。

 最近本当に、この柳剛流で学ぶ最初の形=業=術の奥深さを、しみじみと感じている。

 これは、この春から入門した剣術初心者の門人に対して、「右剣」をいちから指導していることが原因だ。

 全く剣の素養の無い、本当にまっさらな状態の門人へ指導をすることで、私自身がこの形を、あらためて丁寧に見直すことになったのである。

 一つ一つの動作、運足、間積り、拍子、斬撃、跳び違い、脚斬り、極め、そして位と、このたった一つの形に、柳剛流兵法のすべてが内包されているのだ。

 それゆえに古来から柳剛流では、切紙の階梯で最初に学ぶこの「右剣」と、次に学ぶ「左剣」は、非常に大切にされてきた。

 たとえば、紀州藩田丸伝柳剛流の貴重な史料である『日本竹苞雑誌』第一号を読むと、演武の際に他の形は木刀で行われるの対し、「右剣」と「左剣」だけは真剣を遣い、最後に披露されているのが意味深長だ。

1910_柳剛流_日本竹苞雑誌


 柳剛流を学ぶ者は常に、「右剣」の事理に立ち還りながら、丁寧に稽古を積み重ねていかなければならない。

 (了)

顔に出る/(身辺雑記)

2019年 10月03日 10:32 (木)

 卜占の本義は周易なのだが、人相も少々見る三文易者として言わせてもらえば、その人の心映えは必ず「顔つき」に出る。

 特に中高年になると、それが顕著だ。

 これは間違いない。

 嘘つきは顔に出るし、パワハラ・モラハラ野郎(女郎)は顔に出るし、卑怯者は顔に出るし、非人情な奴は顔に出る。

 なお、ちょっと専門的に言えば、ここでいう「顔」というのは、眉や目や口や鼻といった、いわゆる顔面の各パーツだけではなく、形而上下の顔色や雰囲気(気色画相)、その人の顔を含めた身体全体の在り方=存在感を差す。


 ゆえに逆説的に言えば、嘘をついて、弱い者いじめを繰り返し、卑怯なまねをして、人に冷たくしてばかりいると、

 「そういう顔になる」

 ということデス。

 キャリア40年のニセ占い師ながら、これは自信をもって言える。

 そして人間の行った不行跡や不品行といったものは、どんなに隠しても必ず「顔」に出るし、いつかは世間様の知るところとなる。

 これもまた、人類の長い営みから導かれた経験知であり、天地陰陽の道理だ。


「天網恢恢、疎にして而も失わず」(老子道徳経より)


 とは、老子先生はよく分かっていらっしゃった。

 あるいは、


「夫れ剣柔は身を修め心を正すを以て本となす。心正しくば則ち視る物明らか也」(柳剛流殺活免許巻より)


 と、我が柳剛流祖・岡田惣右衛門も、さすがの慧眼である。

 くれぐれも「顔つき」には、ご用心。

170222_222247.jpg

 (おしまい)

『らくちん道への道』の鈴木崩残氏に関する記事について/(手裏剣術)

2019年 10月02日 00:40 (水)

 『らくちん道への道』というブログを読んでいたところ、無冥流投剣術の故・鈴木崩残氏の著作に関する書評が記されていた。

「廃墟のブッダたち―銀河の果ての原始経典 (EOシリーズ)まんだらけ出版部; 2019年改訂版」
https://krakuchin.exblog.jp/239310374/


 この記事の文末に、

「余談で、関西の知人から彼の手裏剣術の師匠のところに著者が習いに来ていた話を聞いたことがある」

 との一文があるのだが、これは事実誤認、あるいは質(たち)の悪いデマである。


 私は、2006年から2015年までの9年間、崩残氏と共に手裏剣術の共同研究と稽古・実践を行ってきた。

 その上で私の知りうる限り、手裏剣術に関して崩残氏が、既存の手裏剣術の流派や会派へ、

「習いに来ていた」(習いに行っていた)

 ということは、私が同氏と出会う以前も以後も、一度も無い。


 手裏剣術の研究のために、崩残氏は古流から現代流派まで、ほぼすべての現存する手裏剣流派や会派に何らかのコンタクトを取り、技術交流や意見交換、共同研究などをしていたのは事実だ。

(こうした手裏剣術への人並外れた熱意ゆえに、彼は意見の相違から他流や他会派とトラブルとなる事が少なくなかった。そして私とも、義絶することになる・・・)

 しかし彼が、特定の手裏剣流儀や会派に入門・入会し、その流儀なり会派の技術を、

「習いに来ていた」

 ということは、皆無である。

 上記の記事の文言では、「関西の知人云々・・・」とあるので、この証言は関西に支部あるいは道場がある手裏剣術の流儀・会派関係者からのものと推測できる。

 たしかに関西に支部のある現代手裏剣術の流派や特定の道場と、崩残氏が一時期接触し、技術交流や意見交換をしていたことは間違いない。

 しかしそれを、

「習いに来ていた」

 とするのは、事実認識として、また言葉としても正確ではない。

 崩残氏としては、これらの流儀・会派との接触は、あくまでも技術交流や意見交換のためのものであったのだと、私は本人から直接聞いている。


 意図してか、そうでないのかは定かでないが、こうしたミスリードは、故人の業績をゆがめることになろう。

 その結果、誤った事実認識が後世に伝わり、ひいてはそれが何らかの権威付けに使われるようなことがあるとすれば、そういう「背乗り」のような行為を最も嫌ったのが鈴木崩残という人物であることを知る旧友として、看過することはできない。

 ゆえに、故人の名誉のためにはっきりと、そのような事実は無かったことを、ここに明言しておく次第である。


 旧手裏剣術伝習所 翠月庵
 庵主・市村翠雨こと
 武術伝習所 翠月庵
 庵主・瀬沼健司 謹識

翠月庵
▲鈴木崩残筆・「翠月庵」の書

 (了)

あらまほしき姿/(武術・武道)

2019年 09月30日 14:10 (月)

 「人生は歩く影法師」といったのは、たしかシェイクスピアだったか。

 ある人物のイメージとは、その人を見る他者ごとに異なる。

 人の影法師が、それが映る地面の形によって、ある人にはでこぼこに、またある人には平らにとそれぞれ異なって見えるように、同じ人間でもある人にとっては善人であり、そしてまたある人にとっては悪人であったりするものだ。

 ・・・と35年ほど前に、北方センセイが『ホットドッグ・プレス』に書いていた気がする。



 過日、武術・武道関係者ではない知人のA氏と雑談をしていたところ、うちの稽古場の話になった。

 その際、A氏に、

「翠月庵さんのところの道場は、猛稽古なんですか?」

 と聞かれた。

「いやいや、ぬるいもんですヨ(笑)。ラジオ体操ができる程度の体力があれば、誰でもできますから」

 と答えると、

「う~ん、でも、そちらのブログを読んでいると、なんだか命がけの練習をするみたいな感じですよね。結構、おっかないイメージがありますよ・・・」

 と言われてしまった。

 まさに、人生は歩く影法師である。



 このブログは、たしかに稽古場の宣伝や、柳剛流をはじめとした私が稽古・伝承している武芸に関する情報発信のためのものであるのだけれど、それ以前に、極めて私的な公開日記でもある。

 だからこそ、しょうもない貧乏話や、趣味の文楽や歌舞伎の話などもつらつらと書いているわけだ。

 その延長線上で、武芸に関する話も翠月庵/国際水月塾武術協会埼玉支部の公式見解というよりは、翠月庵主個人の私的見解であるというスタンスである。

 しかし、そんな筆者の思惑など読んでくださる皆さんにはどうでもよいことであろうし、ここでの私の言動は、少なくとも翠月庵という武芸の稽古会の公式な見解として受け止められるのは、致し方のないことであろう。

 ゆえに、

「夫剣術は敵を殺伐する事也」

 とか、

「なめられたら殺す(といった覚悟)」

 などと書いていると、多くの皆さんには、

「あ、ここは、そういうところなんだ・・・」

 と思われてしまうのだなあと、改めて実感し、そしてしみじみと反省している。



 実際のところ、自分で言うのもなんだが正直言ってうちの稽古は、武術・武道の稽古場としてはかなり「ぬるい」部類だと思う。

 ちょっと分かりにくいたとえかもしれないが、昔ながらの空手の町道場の稽古の身体的・精神的な厳しさやキツさを100としたら、翠月庵の稽古の厳しさやキツさは10くらいであろうか。

 間違っても、入門したての初心者を的の横に立たせて手裏剣をぶち込んだり、素面素手で木刀を使いめったやたらに打ち合ったりはしません(苦笑)。

 先に述べた通り、うちの稽古はラジオ体操ができる程度の体力があれば誰でもできるというのは、けして大げさな話ではない。

 これには理由(わけ)があって、

「稽古場は業や形、術を学ぶ所であって、鍛錬をする場所ではない」

 というのが、翠月庵の基本的な考えだからだ。

 学んだ業や形、術を磨くための鍛錬や反復練習などは、個々人が自分自身の稽古として日々積み重ねていくものである。

 そのような鍛錬や反復練習の方法については、稽古場で丁寧に指導はするけれど、鍛錬や反復練習そのものは自分でやってネ、ということである。

 こうした理由から、翠月庵ではことさら苦行・苦練を強いたり、あるいは体を傷めつけメンタルに圧を加えるような稽古は、ほとんど行っていないわけだ。

 一方で、武術・武道に「強さ」を求めるのであれば、時には体を傷めかねない厳しい稽古、あるいはメンタルに圧を加えるような鍛錬も必要になってくる。

 しかし、そのような鍛錬や稽古は、あくまでも学ぶ人の主体的な意思があってこそのものであり、師匠が弟子に無理やり押し付けるような事ではない。

 「厳しい稽古」というのは、それを望む弟子と、それを受け止める師との相互理解と信頼関係が前提であり、それを望まない人にあえて厳しい稽古を強いる必要はないのである。

 門人が望んでいないのに、師匠が厳しく過酷な稽古を強いるであれば、それは単なるイジメであろう。

 ゆえに当庵では、軽い気持ちで武術を学びたい人には、それに合わせた指導をする。

 一方で、生涯をかけて武芸に打ち込みたいという人には、その志に見合った教え方をする。

 はたまた、「来月に敵討ちの決闘があるのですが、やっとうは苦手です。どうしたらよいでしょう?」といった奇特な依頼があれば(ま、無いけどな・・・)、そのために必要な「術」を伝授することもやぶさかではない。

 ・・・というのが、私=翠月庵のスタンスだ。



 そんなわけで、翠月庵では武術・武道の経験者はもとより、まったく武術・武道をやったことがないという未経験者の入門も歓迎している。

 また、流儀の蘊奥を極めたいという人だけでなく、「なんとなく古武道をやってみたいな」という人にも、広く門戸を開いている。

 他流との兼習もかまわないし(ただし稽古中は、当流のやり方に従ってもらうことは言うまでもない)、年に1~2回といった頻度での遠方からの通い稽古もO.K.だ。

 入門したものの「自分には合わないな・・・」と思ったら、いつでも自由に退会できるし、それで庵主が怒ったり、文句を言ったりもしない。

(ま、一度入門した人が門下を去るというのは、理由はどうであれ指導者としては寂しいもんですが・・・)

 12年前の開庵以来、教授料について月謝制ではなく1回ごとの参加費制としているのは、そういう「風通しのよさ」を担保しておきたいという、ささやか想いからでもある。


「来たらば即ち迎え、去らば即ち送る。対すれば和す。五、五は十なり。二、八は十なり。一、九は十なり。即ちこれをもってすべて和すべし」


 という古い兵法の教えは、単なる対敵動作の心得ではなく、人間の生き方における「あらまほしき姿」ではなかろうか。

 翠月庵の門戸はいつでも誰にでも広く開かれており、できるだけ風通しの良い稽古場でありたいと願っている。

 柳剛流祖・岡田惣右衛門をはじめ、各流の先師・先人方も、そのような稽古場の在り様を喜んでくれるのではないかと、私は思う。

1909_柳剛流_流祖頌徳碑

 (了)